「ドラゴン!?」
俺は思わず卓へ身を乗り出した。
「いるのか!? 本物のドラゴンが!?」
「糞便洗浄員の話をしていますにゃ」
「やっと異世界らしくなってきたじゃないか!」
「糞便洗浄員の話をしていますにゃ」
「翼は? 火は吐くのか? 財宝を溜め込んでたりする?」
「ですから、糞便洗浄員の――」
「行く!」
俺が即答すると、ヴァルグレンは求人票を卓へ伏せた。
「今度は最後まで説明をお聞きくださいにゃ」
「聞いてるだろ」
「まだ何も説明しておりませんにゃ」
ヴァルグレンは部屋の隅にいた事務員を手招きし、記録板を持ってこさせた。
「こちらの立会人にも、説明内容を記録していただきますにゃ。後から『普通はそう思わない』と主張されても困りますのでにゃ」
「信用ないな、俺」
「昨日一日で使い切りましたにゃ」
仕方なく椅子へ座り直す。
ヴァルグレンは求人票を表へ返し、一項目ずつ指でなぞりながら読み始めた。
「勤務地はサイル。期間は三日間。対象は都市圏に定着している超大型竜一個体ですにゃ。現地では守護竜様、観光用にはゴロゴロドラゴンくんと呼ばれていますが、どちらも個体名ではありませんにゃ」
「名前ないのか?」
「竜本人が名乗らないので、ございませんにゃ」
「やっぱり人の言葉は話さない?」
「話しませんにゃ。都市を守ってもおりませんし、人間へ懐いてもおりませんにゃ。羊が不足すれば人間も食べますにゃ」
思っていたより、だいぶ野生だった。
「ただし現在は安眠期に入り、ほとんど移動しませんにゃ。都市が羊を安定供給しているため、人間が捕食される可能性も低く保たれていますにゃ」
「安眠期?」
「後ほど資料をお渡ししますにゃ。今は求人の説明を続けますにゃ」
先回りして止められた。
「仕事内容は、指定排泄地に残された糞便を水で崩し、洗浄し、内部に含まれる石、骨、金属、宝石類を選別する作業ですにゃ。回収物はすべて雇用主へ帰属しますにゃ」
「宝石を見つけても?」
「雇用主の物ですにゃ」
「一個くらい――」
「窃盗ですにゃ」
「分かったよ」
「超大型竜は羊を主食とする雑食性ですにゃ。糞便は牛糞などの草食獣由来のものとは、臭気も性質も大きく異なりますにゃ。感染症、転倒、洗浄水による皮膚障害の危険があります。作業中は貸与された防護服を脱がず、監視員の退避命令には必ず従ってくださいにゃ」
「要するに、でかい牛小屋の掃除みたいなものだろ?」
「今、牛糞とは大きく異なると説明しましたにゃ」
「糞は糞だろ。多少臭くても、息を止めれば何とかなる」
ヴァルグレンは事務員へ顔を向けた。
「『牛糞とは異なると説明したが、本人は同じだと主張』まで記録してくださいにゃ」
「そこまで書く!?」
事務員は無言で記録板へ書き込んだ。
「三日間の基本報酬に加え、処理した洗浄籠の数に応じて加算がありますにゃ。行きの交通費、現地での宿泊費、食費、防護具の貸与料は立替となり、報酬から差し引かれますにゃ。途中で辞めることは自由ですが、帰りの交通費はご自身で負担していただきますにゃ」
「帰る金がなかったら?」
「現地で別の仕事を探すか、新たに借りてくださいにゃ」
実質、最後までやるしかない。
「なお、性行為は一切ありませんにゃ」
「それを最初に言えよ!」
「今、明確に申し上げましたにゃ」
すべて読み終えると、ヴァルグレンは俺に内容を復唱させた。
三日間。臭い。危険。拾った物は持ち帰れない。途中で辞めたら帰れない。性行為はない。
そこまで確認してから、ようやく契約書が差し出された。
「これなら問題ない」
「その自信がどこから湧くのか、僕には理解できませんにゃ」
署名を終えると、ヴァルグレンは机の下から薄い冊子を取り出した。
表紙には、丸々と太った竜が腹を地面へつけて寝転んでいた。周囲には笑顔の羊と、手を振る子供たちが描かれている。
『ゴロゴロドラゴンくんに会いにいこう!』
「子供向けじゃないか」
「佐藤さんには、文字だけの資料より適切だと判断しましたにゃ」
「馬鹿にしてるだろ」
「到着するまでに、必ずお読みくださいにゃ」
俺は渋々冊子を受け取った。
表紙をめくる。
『ゴロゴロドラゴンくんは、とっても大きな超大型竜! 若いころは、お空を飛んで世界中を旅していたよ!』
「空を飛ぶのか!」
ヴァルグレンが深いため息をついた。
◇
翌朝、俺は運河沿いの乗船場にいた。
サイルへ向かう最も安い便は、旅客船というより貨物船だった。
上層には個室と食堂があり、セグルでの旅行を終えたらしい裕福な人間たちが乗っている。揃いの耳飾りを付けた新婚らしき男女が、土産物の包みをいくつも抱えて甲板へ上がっていった。
俺たち労働者に割り当てられたのは、その下だった。
窓の小さな船室へ長椅子が詰め込まれ、乗客は肩を寄せ合って座っている。
俺の右には、俺より頭二つは大きな牛の男がいた。太い首と広い肩を持ち、座っているだけで一人半分の場所を使っている。
左には、頬のこけた人間の男が座っていた。こちらは荷物を抱えたまま、出航前から眠っている。
狭い。
牛の男が少し身体をずらしてくれたが、それでも俺の肩は分厚い腕へ押しつけられていた。
「お前も糞洗いか」
低く、はっきりした声だった。
「そうだけど」
「初めてだな」
「なんで分かる?」
牛の男は、俺が持っている冊子を見た。
「それをそんなに嬉しそうにしてる糞洗いは、初めての奴だけだ」
「ドラゴンを見るのも初めてなんだよ」
「竜を?」
牛の男が意外そうに聞き返した。
「故郷にはいなかったんだ」
嘘ではない。日本にはいなかった。
「そうか」
牛の男はそれ以上聞かなかった。
左側で眠っていた人間の男が、目を閉じたまま口を挟んだ。
「現場で鼻が駄目になっても、口で息をするなよ」
「なんで?」
「味がする」
「大袈裟だろ」
男は片目だけ開けて俺を見た。
「そう思えるのも、今のうちだ」
どうやら経験者は、新人を怖がらせるのが好きらしい。
船が動き出した。
船体の奥から低い振動が伝わり、煙突から吐き出された煙が後方へ流れていく。貨物を満載しているとは思えない速さで、蒸気船は真っ直ぐな運河を進んだ。
真っ直ぐ掘られた水路の両側を、倉庫と工房が流れていく。
俺は再び冊子を開いた。
『超大型竜は、大人になると大きな体を支えるために魔法を使うよ!』
「生命維持に魔法を使うのか。格好いいな」
『若いゴロゴロドラゴンくんは、お空を飛んで自分のおうちを探します。お気に入りの場所を見つけると、だんだん動かなくなります』
「世界を旅して、自分の縄張りを見つけるのか。完全にドラゴンじゃん」
『身体が大きくなったら、安眠期! 日なたで寝たり、寝返りをしたりして、何百年も暮らすよ!』
「何百年!?」
「本物のドラゴンだ…! やっと魔法世界っぽくなってきた!」
思わず大声を出すと、船室中の視線が集まった。
向かいに座っていた労働者たちは、少し困ったような顔をして俺を見ている。
「なんだよ。お前ら、ドラゴンに慣れすぎだろ」
「……安全のところも読んでおけ」
牛の男が、冊子の後ろを指した。
「後で読む」
「先に読め」
「今、財宝の話なんだよ」
『ゴロゴロドラゴンくんのお腹には、石や骨、金属がいっぱい! 長いあいだお腹にあった物は、たいせつな魔法資源になることがあります』
「やっぱりドラゴンは財宝を溜め込むんだな!」
左の人間が、牛の男へ小声で言った。
「事情があるんだろ。あまり聞いてやるな」
「聞こえてるぞ」
なぜかその後、牛の男は俺へ水筒を貸してくれた。
窓際の席まで譲ってくれた。
俺は、見た目は怖いが親切な奴なのだと思った。
◇
運河の終点からは、乗合馬車へ乗り換えた。
壁外を抜ける馬車は、相変わらず乗り心地より速さを優先していた。宿場ごとに馬を替え、舗装されていない道をほとんど減速せず駆け抜ける。
座席は船より狭かった。
俺は再び牛の男と隣になり、揺れるたび大きな身体へぶつかった。
「悪い」
「気にするな」
森へ入る前に窓板が閉じられ、御者から外を見るなと命じられた。
途中で一度、遠くから低い鳴き声が聞こえた。
馬車の中の全員が黙り込み、護衛が武器へ手をかける。
俺だけが窓板の隙間を覗こうとして、牛の男に襟を掴まれた。
「冊子の安全欄を読め」
「ちょっと見るだけだろ」
「読め」
仕方なく開いてみる。
『知らない竜を見つけても、近づかないでね! 走って逃げると追いかけてくることがあります』
先に読んでおけばよかったかもしれない。
◇
サイルへ着いたのは、翌日の昼だった。
馬車が森を抜ける。
最初に見えたのは、広大な牧草地だった。
柵で区切られた草地を、数え切れないほどの羊が埋めている。その向こうには低い丘があり、日の光を受けた岩肌が長く連なっていた。
岩肌だと思っていたものが、ゆっくり上下した。
「……あれ?」
先頭部分に、角がある。
畳まれた巨大な翼が、胴体の側面へ張りついている。
太い尾は丘の端まで伸び、地面へ半分埋まっていた。
腹はでっぷりと広がり、自分の重さで潰れたように牧草地へ乗っている。
「本物のドラゴンだー!!!」
俺は馬車の窓から身を乗り出した。
「でっか! めちゃくちゃでかい! 翼ある! 角もある!」
「落ちるぞ」
後ろから牛の男に帯を掴まれた。
巨大な竜が、低い音を立てた。
咆哮かと思った。
違った。
寝息だった。
地面を震わせるほど大きないびきが、都市全体へ響いている。
「ゴロゴロって、寝息の音なのか?」
「寝返りもする」
牛の男が答えた直後、都市のどこかで鐘が鳴った。
牧草地にいた作業員たちが一斉に退避する。
超大型竜はしばらく身じろぎした後、腹を揺らしながら反対側へ転がった。
大地が震えた。
土煙が上がり、羊たちが慣れた様子で柵の端へ移動する。
「動いた!」
「寝返りだ」
「それだけで鐘を鳴らすのかよ!?」
「あれの下敷きになりたくなければ鳴らす」
格好いい。
格好いいが、思っていたドラゴンよりかなり太っていた。
地上には牧草地と竜のための設備ばかりで、街らしい建物はほとんど見当たらない。
馬車は岩壁に開いた狭い入口へ入り、そのまま地下へ下っていった。
通路の先には、宿屋、食堂、商店、倉庫が並んでいた。
竜の下に、本当に街があった。
「すげえ……」
冊子で読んだはずなのに、実物を見るとまるで違う。
やはり来てよかった。
少なくとも、糞の臭いを嗅ぐまではそう思っていた。
◇
作業員宿舎へ荷物を置くと、すぐに現場説明が始まった。
集められた短期労働者は、広い部屋を埋め尽くすほど多かった。
大半は牛や馬の顔をした大柄な獣人で、残りは人間だった。俺と同じような債務者らしい者も少なくない。
猫耳美少女は一人もいなかった。
サイルの監督官は人間の女だった。分厚い記録板を抱え、俺たちへ防護具を配っていく。
「作業は、水掛け、破砕、運搬、洗浄、選別に分かれます。鐘が三回鳴った場合は、すべての道具をその場へ置き、最寄りの退避壕へ入ってください。回収物を衣服や口の中へ隠した場合、窃盗として身柄を拘束します」
「口の中に隠す奴いるのか?」
「毎年います」
俺には蝋を染み込ませた作業着、厚い手袋、長靴、顔を覆う布が渡された。
胸元には名前と所属を記した札が吊るされる。
「防臭布は外さないでください。気分が悪くなった場合は、無理をせず備え付けの桶へ吐いてください」
「吐く前提なのかよ」
俺の隣で防護具を身につけていた牛の男が、空の桶を一つ取って俺へ渡した。
「持っておけ」
「使わないって」
「持っているだけなら邪魔にはならない」
作業現場は、都市の外れにある排泄指定地だった。
高い土塁に囲まれた広場の中央に、黒々とした山ができている。
遠くからでも、羊毛らしき白い塊や、折れた骨が混じっているのが見えた。
「……でかくない?」
「超大型竜だからな」
監督官が合図を出す。
門が開いた。
臭いが来た。
「ぶっ――」
目の奥を直接殴られたような衝撃だった。
腐った肉。濡れた毛。獣の脂。酸っぱい泥。鉄のような臭い。
それらを全部煮詰め、何日も蒸らしてから顔へ叩きつけられたようだった。
鼻で息ができない。
反射的に口を開く。
舌の上へ、臭いが乗った。
「味がする……!」
船で隣に座っていた人間の言葉は、大袈裟ではなかった。
俺は牛の男から渡された桶へ吐いた。
「だから言っただろう」
「こんなの……糞の臭いじゃないだろ……!」
「竜の糞だ」
牛の男は桶を受け取り、背中を一度さすってから作業場所へ向かった。
逃げたい。
しかし帰りの金がない。
俺も涙目のまま後を追った。
太い革管から水が放たれ、糞の山を崩していく。
牛や馬の獣人たちが長い鉄の鉤で塊を砕き、桶と荷車へ移す。水と混ざった汚泥は傾斜を流れ、何段にも重ねられた洗浄籠へ注ぎ込まれた。
俺に割り当てられたのは、崩れた糞を掬って運搬桶へ入れる仕事だった。
一杯目から重い。
二杯目はもっと臭い。
三杯目には、羊毛と一緒に半分溶けた何かがついてきた。
見ないことにした。
身体は動いた。
女神に丈夫にしてもらったおかげで、腕も腰もまだ平気だった。
だが鼻と心には、何の加護もなかった。
「これ、光ってないか!?」
洗浄籠の底から、青く光る小石が出てきた。
俺が拾い上げると、監督官がすぐに番号付きの箱を差し出した。
「こちらへ」
「見つけた人への手当は?」
「ありません」
「一個くらい――」
「契約時に説明を受けていますね?」
「……受けました」
小石を箱へ入れる。
ドラゴンの財宝を見つけたのに、俺の物にはならなかった。
遠くで、超大型竜の寝息が響いた。
ゴロゴロという低い音に合わせ、洗浄水の表面が細かく揺れる。
冊子の中では可愛かった音が、今は腹立たしかった。
◇
一日目の作業が終わった頃には、日が沈んでいた。
防護具を洗い、身体を三度洗った。
それでも鼻の奥から臭いが消えない。
夕食として羊肉の煮込みが出されたが、見るだけで昼間の光景が蘇った。
俺はパンだけ食べた。
宿舎には寝台が隙間なく並んでいた。
横になって目を閉じる。
水音が聞こえる。
鉄の鉤で崩れた塊が、頭の中へ浮かぶ。
臭いがする。
実際には洗ったはずなのに、まだ顔の周りを漂っている気がした。
「……帰りたい」
声に出した瞬間、涙が出た。
情けない。
仕事はあと二日ある。
身体はまだ動く。
だから余計に、明日も働けてしまう。
「泣いているのか」
隣の寝台から、牛の男がこちらを見ていた。
「泣いてない。臭いが目に残ってるだけだ」
「そうか」
否定もされなかった。
牛の男は自分の寝台へ少し場所を空け、太い腕を広げた。
「眠れないなら来い」
「なんでだよ」
「明日も働く仲間を、眠れないままにはしておけない」
「男に抱かれて寝る趣味はない」
「趣味で抱くんじゃない」
「金は?」
「取らない」
「契約は?」
「いらない」
本当に、ただ心配しているらしい。
「嫌なら触らない。だが、眠れないまま現場へ出れば危ない」
牛の男は、それ以上勧めなかった。
俺はしばらく自分の寝台で粘った。
眠れなかった。
臭いが消えない。
明日の糞の山が、目を閉じるたび大きくなっていく。
「……少しだけだからな」
牛の男の寝台へ移る。
大きな腕が、俺の背中へ回された。
胸板も腕も硬いのに、包まれると妙に温かかった。
一定の速さで背中を叩かれる。
「もうやりたくない、でも借金があって、逃げられない……」
「そうか」
「あと二日もある……」
「二日終えれば帰れる」
「無理かもしれない」
「今日、最後まで働いた」
「身体は動くんだよ。心が無理なんだよ……」
「なら今は寝ろ。心は寝ている間に休ませればいい」
また涙が出た。
牛の男の胸へ顔を押しつける。
低い鼓動を聞いているうちに、いつの間にか眠っていた。
◇
翌朝、目を覚ますと、まだ牛の男の腕の中だった。
周囲の労働者たちは、すでに朝食の支度を始めている。
誰も笑っていなかった。
「ちゃんと眠れたようでよかったな」
向かいの寝台にいた労働者が、穏やかに笑った。
「違うからな。別に抱かれたかったわけじゃないからな」
「うん。眠れてよかった」
「その優しい顔やめろ!」
二日目も、臭いはまったく軽くならなかった。
慣れたのは、吐くまでの時間が少し伸びたことだけだった。
身体が丈夫なせいで、午後には一番処理量の多い組へ回された。
働けば働くほど報酬は増える。
それだけを考えて、俺は糞を掬い続けた。
夜になると、また涙が出た。
牛の男は何も言わず、寝台の上で腕を広げた。
「今日は泣いてない」
「そうか」
「目が痛いだけだからな」
「分かった」
俺は自分から腕の中へ入った。
三日目の朝は、現場へ向かう前から泣いた。
それでも仕事はした。
牛の男と並んで運搬桶を持ち、洗浄籠を何度も往復した。
「泣いてるのに、よく動くな」
「身体だけは丈夫なんだよ!」
夕方、最後の洗浄籠から何も出なくなった。
監督官が俺の作業札へ完遂印を押す。
「三日間、ご苦労さまでした」
「終わった……?」
「終わりです」
「もう糞を洗わなくていい?」
「次回の募集へ応募されない限りは」
「絶対に来ない!」
宿舎へ戻った俺は、自分の寝台を通り過ぎ、そのまま牛の男の隣へ行った。
牛の男が布団を持ち上げる。
「今日で最後だからな」
「分かっている」
「泣いてもない」
「それも分かっている」
俺は泣きながら、三日目も抱かれて眠った。
周囲の誰かが、
「今日もちゃんと眠れそうでよかった」
と小さく言った。
◇
帰りの馬車と船では、ほとんど眠っていた。
行きにあれほど夢中で読んでいた冊子は、荷物の底へしまった。
ただ、捨てはしなかった。
セグルへ戻ったのは金曜の夕方だった。
契約代行社で完遂証明を提出すると、ヴァルグレンは報酬から交通費、食費、宿泊費、防護具の貸与料を引き、契約で定められた返済分が引かれ、残りが拓海へ支払われた。
「三日間、すべて完遂されていますにゃ。おめでとうございますにゃ~♡」
「二度とやらないからな」
「同じ時期に来年も募集される可能性がありますにゃ」
「絶対に教えるな」
借金は大きく減っていた。
それでも完済には遠い。
「それから、今夜は帰還者用の共同宿を一晩だけ利用できますにゃ。明日の午前九時、今後のお住まいについて手続きがありますので、もう一度こちらへ来てくださいにゃ」
「住むところ、用意してくれたのか?」
「保証人不要、人間さん専用の、清潔で安全な完全個室ですにゃ♡」
「最初からそれを用意しろよ」
「お支払い能力を確認できない方にはご案内できませんにゃ。今の人間さんなら契約可能ですにゃ」
「じゃあ今日やってくれよ」
「管理会社の受付時間は終了していますにゃ。明日の午前九時、遅れずにお越しくださいにゃ」
「分かったよ。九時な」
会社を出ると、牛の男が待っていた。
「夜市へ行くぞ」
「なんで?」
「最後まで働いた祝いだ。奢ってやる」
「いいのか?」
「俺には借金がない」
少し腹が立ったが、奢ってもらえるなら断る理由はない。
金曜の夜市は、最初にこの国へ来た時よりも賑わっていた。
通りの両側へ明かりが連なり、料理、菓子、衣服、香り、遊び道具を売る屋台がどこまでも続いている。
牛の男は、羊肉を避けて屋台を選んでくれた。
揚げた川魚と辛い麺、それに冷たい果実水を二人分買う。
広場の長椅子へ座り、ようやく人心地がついた。
「牛さん」
「なんだ」
「そういえば、名前なんていうの?」
牛の男が、麺を持ったまま動きを止めた。
「今、聞くのか?」
「聞く暇なかっただろ」
「三日間、毎晩俺の腕で泣いて眠る時間はあった」
「それとこれは別だろ!」
「俺はお前の名前を知っているぞ。胸に名札を下げていたからな、拓海」
「そういえばそうだった」
牛の男は呆れたように息を吐いた。
「ダグワドルジだ」
「だ……ダグワ……?」
「ダグでいい、みんなそう呼ぶ」
「じゃあ、改めてよろしく。ダグ」
「牛さんのままでも構わない」
「名前を聞いた意味ないだろ」
ダグは少しだけ笑った。
俺が異世界へ来て初めてできた友人は、猫耳美少女ではなかった。
三日間一緒に竜の糞を洗い、毎晩泣く俺を抱いて寝てくれた、巨大な牛の男だった。
