名前を聞いた後も、ダグは何事もなかったように辛い麺を食べ続けた。
俺は揚げた川魚を齧りながら、改めて隣に座る巨体を見上げる。
ダグワドルジ。
いかにも強そうな名前だった。牛の頭に太い角、分厚い首、俺の胴ほどもある腕。実際、三日間ずっと俺より重い桶を運び続けても、弱音一つ吐かなかった。
そんな男に、俺は毎晩抱かれて泣いていた。
「……他の奴には言うなよ」
「どのことだ」
「俺が泣いてたこと」
「宿舎にいた全員が知っている」
「じゃあ抱いて寝たこと」
「それも全員見ていた」
「全部忘れろ!」
「無理だ」
ダグは麺を啜った。
言いふらす気はなさそうだが、忘れてくれる気もなさそうだった。
食事を終え、俺たちは夜市を歩いた。
金曜の夜市は、単なる屋台の集まりではなかった。
料理や菓子を売る店の間に、衣服、香り、装身具、遊び道具、毛繕い、按摩、短時間の抱擁まで、まるで関係のない商売が詰め込まれている。
料理の札には、主な材料、量、辛さ、骨や殻の有無まで書かれていた。
『ベジタリアン向け』
『労働種一食分』
『家畜不使用』
『甲殻あり・丸呑み禁止』
そこまで書かないと食事もできないのかと思ったが、目の前を馬の男と、俺の腰ほどしかない猫の女が並んで歩いていくのを見て、必要なのだと分かった。
「金曜は毎週こうなのか?」
「ああ。友人や家族と飯を食って、買い物をする」
「祭りみたいだな」
「祭りでもある」
「毎週祭りやってるの?」
「理由があれば、別の日にもやる」
通りの奥には、小さな店が何十軒も並んでいた。
どれも一坪ほどしかない。棚と売台を置けば、店主一人が立つ場所しか残らないような店ばかりだった。
「この辺には、一か月単位で借りられる小さな店舗が並んでる。 暇つぶしにちょうどいい。」
そのうちの一軒が、鉢植えで埋め尽くされていた。
蔓の伸びた植物が棚や柱へ絡みつき、丸い葉を広げている。しかし肝心の花は、どれも固く閉じていた。
『朝顔専門店』
「……朝顔?」
「朝顔ですにゃ♡」
棚の奥から、小柄な猫の男が顔を出した。
「花、咲いてないけど」
「朝になったら咲きますにゃ」
「夜市で売ってるのに?」
「朝はとっても綺麗ですにゃ♡ こちらに絵がありますにゃ」
店主は、満開の朝顔を描いた紙を見せてくれた。
「今、実物を見せろよ」
「朝顔さんにも眠る時間がありますにゃ~♡」
「売る気あるの?」
「ありますにゃ!」
客は俺たち以外に一人もいなかった。
だが店主は楽しそうに、花の色や蔓の巻き方について説明を始めた。
隣の店では、青い紐だけを太さ別に売っていた。
その隣は、左の角に付ける飾りの専門店だった。右角用はないらしい。
さらに隣では、店主が川原で拾ったという丸い石が、布の上へ丁寧に並べられていた。
「こんなの売れないだろ」
「そうかもしれないな」
「止める奴はいないのか?」
「賃料を先に払っている。借金もしていない。月末には全部片づける。それなら、何を売っても本人の自由だ」
「自由にも限度があるだろ」
「誰にも迷惑をかけていない」
朝顔の店主が、閉じた花へ水をやっている。
本人は満足そうだった。
「商売って、売れないと意味ないんじゃないの?」
「店をやりたかったのだろう」
「それだけ?」
「それだけでも、一か月分を払えるなら構わない」
セグルの制度は、厳しいのか甘いのかよく分からない。
売れる見込みのない店を出すことは許す。その代わり、来月の自分へ借金を残すことは許さない。
商品が一つも売れないのも自由。
ただし、月末には必ず撤収。
なんとも変な国だった。
夜市の端には、大きな掲示板があった。
求人、住居、商品の仕入れ、荷物の運搬、夜市の出店者募集まで、色の違う紙が隙間なく貼られている。
ダグは足を止め、一枚ずつ眺め始めた。
「仕事を探してるのか?」
「今の仕事は終わったからな」
「家に帰らないの?」
「家はない」
「……ホームレスじゃん」
「仕事中は雇い主の宿舎へ泊まる。仕事のない期間は共同宿を使う」
「それをホームレスって言うんだよ」
「お前も同じだろう」
「俺は明日から部屋がある!」
「まだ契約していない」
「九時に行けばあるんだよ!」
そう言った時には、俺も明日の予定を覚えていた。
その後、果実酒を飲み、焼き菓子を食べ、輪投げで一度も輪が入らず、尻尾用の飾りを人間へ売ろうとする狐の店主と口論した。
夜市を出る頃には、午前九時の約束など完全に忘れていた。
◇
帰還者用の共同宿は、夜市から少し離れた場所にあった。
浴室、食堂、荷物置き場が一つの建物へまとめられ、寝室は身体の大きさごとに分かれている。
ダグについて入った部屋には、寝台というより、部屋の端から端まで続く巨大な台があった。
そこで横になっているのは、牛や馬の顔をした、全身毛皮の大柄な獣人ばかりだった。それぞれ自分の場所へ毛布を敷き、思い思いの格好で休んでいる。
俺には人間用の寝台が用意されていた。
そのはずだった。
「俺はまだ寝ないぞ」
食堂で水を飲みながら、ダグへ宣言した。
「そうか」
「三日間ずっと働いてたんだ。せっかく金も入ったし、明日からしばらく遊ぶ」
「住居の手続きがあるのだろう」
「分かってるって。九時だろ」
「なら、早く寝た方がいい」
「異世界に来てまで早寝早起きとか、何が楽しいんだよ。俺はもう会社員じゃないんだぞ」
「何の話だ?」
「こっちの話」
そこから先は、よく覚えていない。
自分がいかに前の仕事で苦労していたか。
本当はもっと評価されるべき人間だったこと。
次に生まれた世界では大活躍する予定だったのに、犬耳の大男に貞操を奪われかけた挙げ句、巨大な竜の糞を洗うことになったこと。
ダグはほとんど相槌を打たなかったが、俺は一人で喋り続けた。
そして、喋り疲れて寝た。
目を覚ますと、牛や馬の獣人たちが使っていた巨大な共同寝台にいた。
右側には、ダグの腹。
左側には、知らない馬の男の背中。
俺は二人の巨体の間へ挟まれ、毛布を首まで掛けられていた。
「……なんで俺、ここで寝てるの?」
「食堂で寝たから運んだ」
すでに起きていたダグが答えた。
「人間用の寝台あっただろ」
「遠かった」
「面倒だっただけじゃねえか」
「よく眠っていたから、どこでも同じだと思った」
間違ってはいない。
身体を起こす。
よく眠れた。竜の糞の臭いも、昨日までの辛さも、もうほとんど気にならない。
腹が減っていた。
「朝飯は?」
「もう昼だ」
「……昼?」
外から、時刻を知らせる鐘が聞こえた。
俺は何か大切なことを忘れている気がした。
午前九時。
完全個室。
ヴァルグレン。
「やべ! そういえばヴァルが呼んでた!!!」
共同寝台から飛び降りた。
◇
「現在、十一時四十分ですにゃ」
「時計持ってないんだよ!」
「共同宿では、一時間ごとに鐘が鳴りますにゃ」
「異世界の鐘なんか、何回鳴ったか分かるわけないだろ!」
「人間さんの故郷では、鐘を数える習慣がないのですかにゃ?」
「そういう言い方やめろ!」
ヴァルグレンは机の向こうで、いつもの笑顔を浮かべていた。
怒ってはいない。
その代わり、二時間四十分の遅刻を記録板へきっちり書き込んでいた。
「管理会社の担当者には、こちらから謝罪しておきましたにゃ。次回からは、約束の時間までにお越しくださいにゃ」
「次はない」
「そう言う人間さんほど、何度も遅れますにゃ」
机の上へ、住居契約書が置かれた。
契約期間は一か月。
賃料は前払い。
寝具と棚付き。水場、浴室、便所は共用。室内での火気使用は禁止。外部の人間を長期間住まわせることも禁止。
俺は最後に書かれた賃料を見た。
「高くない!?」
「保証人不要、短期契約、家具寝具つき、人間さん専用、即日入居可能ですにゃ♡」
「部屋を見てから決めたい」
「見てから断る場合、管理会社の案内費用が発生しますにゃ」
「見るだけで金取るの!?」
「担当者を動かすのですから当然ですにゃ」
結局、見ずに契約した。
俺は、学習しない人間ではない。
契約書は一応、最後まで読んだ。
ヴァルグレンから鍵を受け取り、案内された建物へ向かう。
契約代行社から二本裏の通りにある、細長い集合住宅だった。
人間用に作られているため、入口も廊下もセグルの建物にしては小さい。部屋の扉を開ける。
寝台があった。
棚があった。
以上だった。
寝台と壁の間には、人一人が横向きで歩ける程度の隙間しかない。窓は天井近くに小さいものが一つ。壁も床も灰色で、飾りは何もなかった。
清潔ではある。
埃もない。毛布は洗濯され、部屋に変な臭いもしない。
だからこそ、余計に監獄らしかった。
「これ、部屋じゃなくて独房だろ」
「外側から鍵は掛かりませんにゃ♡」
「そういう問題じゃない!」
「短期滞在用として必要な設備はすべて揃っていますにゃ」
「机も椅子もないんだけど」
「寝台へ座れますにゃ」
「料理は?」
「夜市と食堂をご利用くださいにゃ」
「生活する場所じゃなくて、本当に寝るだけじゃん」
「佐藤さんには十分だと判断しましたにゃ」
俺の荷物は、着替えと、ゴロゴロドラゴンくんの冊子と、仕事でもらった紙だけだった。
棚へ冊子を置く。
着替えを寝台の端へ置く。
引っ越しが終わった。
「……早いな」
「荷物が少なくてよかったですにゃ~♡」
ヴァルグレンは鍵の使い方と共同水場の場所を説明し、さっさと帰っていった。
灰色の部屋へ一人残される。
しばらく寝台へ座ってみた。
静かだった。
別に、一人では眠れないわけではない。
今すぐ眠る気もなかった。
それに、せっかく異世界で初めて友達ができたのだ。こんな灰色の部屋で一人で過ごすより、もっと一緒に飯を食って、いろんな場所へ行って、遊んだ方がいいに決まっている。
俺は部屋を出て、ダグを探しに行った。
◇
共同宿でダグを見つけ、部屋を見せるためにそのまま連れて帰った。
正確には、入口まで来た。
角を傾けて頭を入れようとしたが、肩が扉につかえて止まった。
「狭いな」
「高いんだぞ、この部屋」
「なぜ高い金を払って狭い場所にいる?」
「ヴァルに聞け」
「お前が契約したのだろう」
「細かいこと気にするなよ」
「契約は細かいことを気にするためにある」
ダグは室内へ入ることを諦めた。
立っているだけで廊下を塞いでいる。
「俺の共同宿の方が広い」
「共同だろ。俺は完全個室だからな」
「寝台と棚しかない」
「完全個室!」
「そうか」
ダグはそれ以上言わなかった。
たぶん、俺が満足していると思ったのだろう。
満足はしていない。
ただ、今さら失敗を認めたくなかった。
それから一週間、俺は働かなかった。
三日間も竜の糞を洗ったのだ。
しばらく休む権利くらいある。
昼近くまで寝て、食堂や屋台で飯を食い、街を歩き、夜になるとダグと合流した。
一度夜市に行ってみたが、金曜に比べて屋台が少なかった。
ダグは毎日、違う仕事へ行った。
荷車の積み下ろし。
市場の屋根の組み立て。
運河倉庫の清掃。
工房から駅までの資材運搬。
朝に仕事を選び、その日の夕方には賃金を受け取る。
「同じところで働かないのか?」
「季節ごとに人手の要る場所が変わる。毎年戻る仕事もある」
「毎回、新しい仕事を覚えるの、面倒じゃない?」
「知らない仕事を覚えるのも、いろいろな仲間と働くのも好きだ」
「仕事が好きなのか?」
「好きだ。同じことだけを続けるより、俺には合っている」
ダグの持ち物は、大きな旅行鞄一つへ収まっていた。
着替え、仕事道具、裁縫道具、食器、紙の束。それだけ持って、仕事のある土地を移動する。
毎日働き、借金もなく、金を使う様子もない。俺よりよほど金を持っているはずなのに、部屋は借りない。
俺よりよほど生活能力があるのに、決まった住所もない。
世の中は不公平だ。
一人で寝る夜もあった。
独房の寝台でも、横になれば普通に眠れた。
ただ、ダグと食事をして、共同宿の食堂で騒ぎ、まだ眠くないと言い張った後に力尽きる日もあった。
そういう朝は、決まって牛や馬の獣人たちが使う、あの巨大な共同寝台で目を覚ました。
「なんでまたここにいるんだよ」
「お前が寝たからだ」
「起こせよ」
「起こした。自分で歩くと言った」
「歩いた?」
「三歩で寝た」
「じゃあ運ぶしかないな」
「ああ」
ダグは俺を責めなかった。
周囲の人々も、誰も笑わなかった。
「今日もよく眠れたようでよかったな」
そう言って、朝食のパンまで分けてくれた。
この国の人は、他人を甘やかしすぎだと思う。
◇
一週間後の金曜。
俺が部屋を出ると、廊下の端にダグが立っていた。
相変わらず大きい。
あまりに大きいので、近所の住人たちが横を通れず、反対側の階段を使っていた。
「夜市へ行くぞ」
「また奢ってくれるの?」
「今日はお前にも金があるだろう」
「友達になったのに冷たくない?」
「先週は仕事を完遂した祝いだ」
「今週は?」
「普通の金曜だ」
夜市は、先週と同じ場所なのに、半分ほど店が変わっていた。
朝顔専門店はまだあった。
花は、やはり閉じていた。
隣の青い紐専門店は消え、代わりに子供用の小さな椅子だけを並べた家具店が入っていた。
「紐屋は?」
「やめたのだろう」
「一週間しか見てないぞ」
「飽きるのも自由だ」
「朝顔屋は残ってるのに!」
朝顔の店主が、今日も嬉しそうに水をやっていた。
ダグは食べ物の並ぶ通りへ入ると、迷わず一軒の店舗へ向かった。
「先に米を買う」
「おかずは?」
「米だ」
「米をおかずにするの?」
「先月からマルチーズがやっている、柔らかい白米の専門店だ。先月は毎日売り切れて、今月も借り直したらしい。絶品だから、おかずの前に買いに行く」
「白飯だけの店が二か月も続いてるの!?」
店の看板には、本当に、
『柔らかお米専門店』
とだけ書かれていた。
店内には大きな炊飯釜がいくつも並び、白い湯気が上がっている。
白い長毛と垂れ耳を持つ、小柄な犬の女が、踏み台の上から木の器へ白米を盛っていた。
料理はそれだけだった。
漬物もない。
汁物もない。
白米だけ。
「ダグさん、今週もありがとうございますにゃ~♡」
「俺に大盛りを二つ。こいつに普通盛りを一つ頼む」
「はいですにゃ♡ 今日は少しだけ水を多くしてありますにゃ」
「楽しみだ」
白米の水加減を楽しみにする牛獣人を、俺は初めて見た。
器を受け取る。
「これだけ?」
「食べてみろ」
「白飯なんて、どこで食っても同じだろ」
一口食べた。
柔らかい。
ただ柔らかいだけではない。米粒は潰れず、噛むと甘みが出る。湯気と一緒に、懐かしい匂いが鼻へ抜けた。
「……うまっ」
「そうだろう」
「なんで異世界に来て、一番うまいのが白飯なんだよ」
「米はうまいからな」
犬の店主が得意そうに尻尾を振っている。
店の前には列ができていた。
誰も白米だけで食事を終える気はない。米を買った客たちは、そのまま周囲の屋台へ散り、それぞれ好きなおかずを買っていく。
白飯しか売らない店。
普通なら、そんなものが売れるとは思わない。
だが、何十軒もの屋台から料理を選べる夜市では、一番うまい白飯だけを作る店が成立する。
朝顔専門店と同じ一坪で、こちらは売り切れ寸前だった。
「この国、何が当たるか分からないな」
「だから毎週来る」
俺たちは白米を持って、おかずを探した。
ダグは家畜肉を使った屋台を避け、野生鹿の煮込みと、川魚の香草焼きを選んだ。
「牛だから、牛肉を食わないの?」
「牛肉だけではない。家畜の肉は食べない」
「羊も豚も?」
「ああ」
「魚は食うじゃん」
「魚は川で勝手に生きていた。鹿も森で生きていた」
「何が違うの?」
ダグは少し考えてから答えた。
「人間に飼われ、働かされ、殺されるために増やされたものは食べない。俺と、言葉を持たない牛に何の違いがあるのか、まだ答えが出ていないからだ」
「でも鹿は殺されてるだろ」
「鹿は森で自分のために生き、狩人に負けた。狩人も森で獣に負ければ死ぬ。俺は、その肉なら食える」
「考えすぎじゃない?」
「お前は考えなさすぎだ」
「失礼だな!」
「契約書を読まず、竜の糞を牛糞だと思っていた」
「契約書は読んだ!」
「内容を理解していなかった」
反論できなかった。
俺たちは広場の長椅子へ座った。
柔らかい白米へ鹿肉の煮込みを乗せる。
うまい。
悔しいが、ダグの選んだ店に外れはなかった。
半分ほど食べた頃、ダグが言った。
「明日の朝、ここを出る」
「どこ行くの?」
「南部の果樹園だ。みかんの収穫が始まる」
「ふうん」
白米を食べる。
少しして、言葉の意味が頭へ入ってきた。
「……いつ戻ってくるの?」
「収穫が終わるまでだ。ひと月ほどかもしれない」
「終わったら戻る?」
「次の仕事があれば、別の土地へ行く」
「じゃあ、いつ会えるの?」
「分からない」
箸が止まった。
「分からないって何だよ」
「まだ次の仕事を決めていないからな」
「決めとけよ!」
「今決める必要はない」
「あるだろ! 俺が困る!」
「なぜお前が困る」
「だって――」
異世界へ来て、初めてできた友達だった。
一週間、毎日一緒に飯を食った。
夜市を歩いた。
俺が寝落ちするたび、共同寝台まで運んでくれた。
それが明日からいなくなる。
「農園では、まだ収穫人を募集している」
ダグが言った。
「一緒に来るか?」
「嫌だよ! 異世界まで来て、一か月もみかん採るだけなんて!」
「なら、ここで別れるしかない」
「それも嫌だ!」
「どちらかを選べ」
「ダグがみかんを諦めればいいだろ!」
「契約した」
「解約しろよ!」
「理由がない」
「俺が寂しい!」
口に出してから、恥ずかしくなった。
俺は酒を買いに行った。
◇
一杯目は、送別の乾杯だった。
二杯目は、柔らかい白米がうまかった記念。
三杯目は、俺がみかんに負けた記念。
四杯目からは、よく覚えていない。
「や”だぁあああああああ!!!」
気づけば、俺はダグの胴へしがみついて泣いていた。
夜市の真ん中だった。
周囲には大勢いる。
どうでもよかった。
「拓海、声が大きい」
「やっとぉ! 異世界でぇ! 友達できたのにぃいいい! なんでみがん採りに行ぐんだよぉおお!」
「収穫期だからだ」
「俺とみがん、どっちが大事なんだよぉ!」
「比べるものではないだろう」
「みがんなんか腐れぇええええ!」
「収穫しなければ腐る」
「屁理屈ぅううう!」
ダグの胸毛へ、涙と鼻水を擦りつける。
ダグは嫌がらなかった。
太い腕で俺を支え、倒れないようにしている。
「友人でなくなるわけではない。また会えばいい」
「どごでぇ!?」
「まだ決めていない」
「お手紙ぃーーーッ!」
「手紙?」
「お手紙おぐっでぇええええっ! 俺は部屋あるからぁあああああ”!」
「住所を知らない」
「ヴァルが知ってるぅうう! 灰色でぇ、狭くてぇ、高い部屋ぁああ!」
「それでは届かない」
「なんでだよぉおおおお!」
近くにいた獣人たちは、誰も笑わなかった。
「よほど別れが寂しいんだな」
「友達ができて、よかったな」
優しい顔で見守っている。
「その顔やめろぉ! 俺は子供じゃないぞぉおお!」
「誰もそんなことは言っていない」
ダグが俺の背中を叩いた。
「住所は明日、書いてもらう。手紙も送る」
「ほんどぉ?」
「ああ」
「毎日?」
「毎日は無理だ」
「や”だぁああああ!」
「仕事をする時間がなくなる」
「みがんやめろぉおお!」
「みかんも送る」
「みがんはいらないぃ! ダグが帰ってごいぃ!」
その後、俺は泣き疲れて眠った。
高い家賃を払った完全個室には帰らず、ダグに抱えられ、いつもの共同宿へ運ばれた。
◇
翌朝。
頭が痛かった。
喉が渇いている。
目を開けると、またダグの腕の中だった。
「……俺、昨日何か言った?」
「手紙を送れと言っていた」
「それだけ?」
「みかんを収穫するなとも言っていた」
「酔っぱらいの言うことだ。忘れろ」
「分かった」
「でも手紙は送れよ」
「分かっている」
「みかんも」
「いらないと言っていた」
「それは酔っぱらいの言うことだ」
ダグはすでに旅支度を終えていた。
大きな旅行鞄が、共同寝台の脇へ置かれている。
俺は一度自分の部屋まで走り、住居契約書を取ってきた。
住所が書かれた部分をダグへ見せると、ダグは小さな手帳を取り出し、角張った字で書き写した。
「本当に送るんだぞ」
「ああ」
「絶対だからな」
「ああ」
「俺が部屋を引き払ってたら、ヴァルのところへ送れ」
「一か月で引き払うのか?」
「家賃が高いんだよ」
「なら、もっと安いところを探せ」
「面倒だろ」
ダグは手帳を鞄へしまった。
共同宿の外には、南部へ向かう季節労働者たちが集まっていた。牛、馬、人間。荷車へ鞄を積み、出発を待っている。
ダグもその中へ加わる。
「ちゃんと飯を食え」
「子供扱いするな」
「金を使い切るな」
「分かってる」
「契約書は読め」
「読んでる!」
「内容も理解しろ」
「お前、最後だからって言いたい放題だな」
ダグが片手を差し出した。
俺はその手を握った。
大きすぎて、握手というより指を掴んでいるだけだった。
「また会おう、拓海」
「絶対だからな」
「ああ」
荷車が動き出す。
ダグは一度だけ振り返り、それから南へ向かう道を歩いていった。
追いかけようと思えば、まだ追いつけた。
みかんの収穫へ一緒に行くこともできた。
だが、一か月みかんを採り続けるのは嫌だった。
俺はその場に残った。
こうして、異世界で初めてできた俺の友達は、俺を置いてみかんを採りに行った。
