ダグを見送った後、俺は一人で部屋へ戻った。
寝台。
棚。
灰色の壁。
昨日までと何も変わっていない。
そもそもダグは、身体が大きすぎて入口から先へ入れなかった。部屋の中から何かがなくなったわけではない。
それなのに、前より静かだった。
寝台へ腰を下ろす。
これから何をしようか考えた。
ダグがいた一週間は、昼まで寝て、街を歩き、夜になったら合流して飯を食った。共同宿の食堂で喋り、眠くないと言い張って、気づけば巨大な共同寝台へ運ばれていた。
今日は、合流する相手がいない。
「別に、一人でも困らないけどな」
声に出すと、余計に部屋が静かになった。
俺は自由になったのだ。
飯を食う時間も、寝る時間も、誰かに合わせる必要はない。早く寝ろとも、金を使い切るなとも、契約書を理解しろとも言われない。
最高ではないか。
夕方まで寝台で過ごし、腹が減ったので外へ出た。
一人で屋台を回り、焼いた魚と固いパンを買った。
魚には細かい骨が多く、パンは顎が疲れるほど固かった。
ダグなら、もっとましな店を知っていただろう。
ついでに果実酒を一本買った。
ダグがいなくなったから飲むわけではない。
昨日は送別の酒だった。
今日は、一人暮らしを始めた祝いだ。
◇
部屋には机も椅子もない。
寝台へ座り、棚へ酒瓶を置いた。
一杯目を飲む。
甘い。
二杯目を飲む。
少し酸っぱい。
三杯目を飲む頃には、味はどうでもよくなっていた。
「ひと月って、別に長くないからな」
誰に言うでもなく呟いた。
手紙も送ると言っていた。
みかんも送ると言っていた。
仕事が終われば、またどこかで会える。
そもそも、友達はダグ一人ではない。
ヴァルがいる。
あれは友達ではない気がする。
ゴロゴロドラゴンくんの洗い場にいた奴らもいる。
名前を知らない。
共同宿の牛や馬の獣人たちも、俺が寝ていれば毛布を掛け、朝食を分けてくれた。
名前を知らない。
「……友達って、名前を知らないとなれないのか?」
酒を飲む。
考えるのが面倒になった。
ダグは今頃、南部へ向かっている。
旅行鞄を持ち、知らない奴らと歩き、知らない土地で働く。毎年会っている果樹園の連中と再会して、俺がいなくても普通に飯を食って、普通に眠るのだろう。
「薄情者」
酒を飲む。
「みかん男」
酒を飲む。
「牛だけど」
酒を飲む。
瓶が空になった。
横になる。
服を脱ぐのも、水を飲むのも面倒だった。
目を閉じる。
すぐに眠った。
◇
俺は、コンビニ弁当の袋を持って横断歩道に立っていた。
見覚えのある道だった。
信号が青になる。
歩き出す。
クラクションが鳴った。
足が止まる。
振り返りたくなかった。
何がいるのか、もう知っていた。
もう一度、クラクションが鳴る。
走った。
背後から、巨大なエンジン音が迫ってくる。
横断歩道を渡り切ったはずなのに、向こう側へ着かない。白い線だけが、どこまでも続いている。
道路脇に細長い建物が現れた。
扉を開け、飛び込む。
中は、俺の借りた集合住宅に似た灰色の廊下だった。
これでトラックは入ってこられない。
そう思った直後、背後で壁が砕けた。
大型トラックが、廊下の幅へ車体を無理やり押し込みながら追ってくる。
「なんで入れるんだよ!」
走る。
廊下はどこまでも続いている。
トラックは壁と天井を削りながら、それでも速度を落とさない。
「いや、ここをトラックが走れるわけないだろ!」
口に出した瞬間、気づいた。
これは夢だ。
俺はもう一度、トラックに轢かれるはずがない。
なぜなら、こっちの世界に来てから車なんて見ていない。
夢だと分かった。
だから消えろと念じた。
トラックは消えなかった。
「明晰夢って、何でもできるんじゃないの!?」
廊下の左右には、扉が並んでいた。
一番近い扉を開ける。
竜の洗い場だった。
山のような糞が崩れ、こちらへ流れてくる。
閉める。
次の扉を開ける。
みかん畑だった。
遠くでダグがみかんを採っている。
「ダグ! 助けろ!」
ダグは振り返らない。
腹が立ったので閉める。
クラクションが、すぐ後ろで鳴った。
次の扉。
開かない。
その次。
物置。
その次。
灰色の独房。
俺の部屋だった。
「役に立たねえ!」
トラックのライトが背中を照らす。
廊下の端に、地味な白い扉があった。
札が掛かっている。
『転生者生活相談窓口』
取っ手を掴み、扉を開け、身体を滑り込ませる。
すぐに閉めた。
扉の向こうから、激しい衝突音が響く。
思わず頭を抱えた。
だが、扉は壊れなかった。
やがて、エンジン音もクラクションも消えた。
「……助かった」
顔を上げる。
真っ白な空間だった。
壁も床も天井も、どこまで続いているのか分からない。
中央には、事務机が一つ。
その向こうに、空の椅子がある。
見覚えがあった。
「ここ、最初に来た場所じゃないか?」
しかし、女神はいなかった。
机の上には、小さな呼び鈴と、一枚の札だけが置かれていた。
『御用の方は、一度だけ鳴らしてください』
呼び鈴を押す。
ちん。
待つ。
誰も来ない。
もう一度押す。
ちん。
やはり来ない。
「御用あるんだけど!」
ちん。ちん。ちん。
「おい!」
ちんちんちんちんちんちんちん。
「相談窓口なんだろ! 早く来いよ!」
ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん。
「一回で聞こえとるわ!!!」
白い空間の奥から、女神が現れた。
腰まで届く銀色の髪。白い服。背中には淡く光る輪。
死んですぐ会った女神だった。
女神は大股で机まで歩いてくると、呼び鈴を手のひらで押さえつけた。
「一度だけ鳴らせと書いてあるやろが!」
「だったら一回で来いよ!」
「相談内容を頭の中で整理するための待ち時間や!」
「絶対いま考えた言い訳だろ!」
女神は椅子を引き、乱暴に腰を下ろした。
俺を見るより先に、どこからか煙草を取り出して咥える。
指先で火をつけ、深く煙を吸った。
「……で。どこが壊れた」
「態度」
「お前のか?」
「お前のだよ!」
女神が煙を吐く。
「身体は動くか?」
「動くけど」
「見え方や聞こえ方に異常は?」
「ないけど」
「転生直後から、理由の分からん痛みはあるか?」
「ない」
「ほな正常や。帰れ」
「待てよ! 相談窓口だろ!」
俺は入ってきた扉を指さした。
扉の内側にも、『転生者生活相談窓口』と書かれている。
「書いてあるやろ」
「あるなら最初に教えろよ!」
「書類に書いた」
「あれ、本当に大事なこと書いてあったの!?」
「大事やから読め言うたんや!」
女神が机を叩いた。
「そもそも、俺がこの世界へ来てからどれだけ酷い目に遭ったと思ってるんだ!」
「知らん。言うてみ」
「犬耳の大男へ貞操を奪われかけた!」
「包括接触可に署名して、接触店で接触されただけや」
「巨大な竜の糞を三日間も洗わされた!」
「契約したやろ」
「完全個室が、ほとんど監獄なのに高い!」
「それも契約したやろ」
「初めてできた友達が、俺を置いてみかんを採りに行った!」
「季節労働や」
「ひと月だぞ!」
「収穫期なら普通や」
「戻ってくる日も決めてないんだぞ!」
「お前も一緒に行けばよかったやろ」
「一か月みかんを採り続けるのは嫌だ!」
「ほな待て」
「嫌だ!」
「知らんがな!」
女神が何もない空中へ灰を落とす。灰は床へ着く前に消えた。
「ええか。前に、転生特典で新しい足をつけた奴がおった」
「急に何の話だよ」
「右足を出そうとしたら左足が出て、左足を出そうとしたら右足が出た。そういうのを不具合と言うんや!」
「それは不具合だな」
「私様の調整ミスやから、私様が直した。お前の身体は正常。翻訳も動いてる。生活もできてる。お前のは全部、ただのクレームや!」
「でも相談窓口だろ!」
「相談なら答えたる。友達がみかん採っとる間に働け。友達が一人しかおらんのなら増やせ。手紙が来る言うとるなら待て」
「俺は寂しいって相談してない!」
「昨日、本人に泣きながら言うたんやろ」
「なんで知ってるんだよ!」
「私様の世界やぞ!」
女神は煙草をポイと捨てて2本目に火をつけた。
吸い殻はやはり床に着く前に消える。
「ほかに何かあるか。ないなら帰れ」
「ある!」
ずっと気になっていたことを思い出した。
「顔のいい獣人は、なんでみんな『にゃ』なんだよ!」
女神の眉が寄る。
「何の話や」
「猫なら分かる! でも狐も、犬も、みんなにゃって言うんだよ! ヴァルも、白米屋のマルチーズも、朝顔屋の猫も! 見た目と語尾が合ってないから、脳がバグる!」
「ああ、愛玩種の獣訛りか」
「愛玩種?」
「お前が顔がええ言うてる、人間に近い顔へ耳と尻尾がついとる連中や。猫だけやない。犬も狐もおる」
「ダグは?」
「あれは労働種や」
「何が違うの?」
「いろいろや。今は発音の話やろ」
女神は煙を吐いた。
「愛玩種は、人間に好まれやすいように顎や口が小さくなっとる。そのせいで、南方語を話すと共通した訛りが出るんや」
「それが、にゃ?」
「実際ににゃと言うとるわけやない。お前の頭へ日本語で通す時、一番近いものへ置き換えられとる」
「南方語を話せるようにしてくれたんじゃなかったの?」
「お前の頭へ南方語を一から入れたら、調整にどれだけ時間かかると思っとる。日本語へ翻訳して聞かせて、お前の日本語を南方語へ変換しとるんや」
「手抜きじゃん!」
「高性能自動翻訳や! 訛りまで保持しとるんやぞ!」
「保持しなくていいんだよ! 猫以外がにゃって言うと混乱するだろ!」
「お前の母語が英語なら、ブルックリン訛りくらいで済んだかもしれんな。日本語にはちょうどええ置き換え先がなかったんや!」
「だったら普通の日本語にしろよ!」
「訛りを全部消したら、相手の出身も身体的な特徴も分からんようになるやろ。翻訳として不完全や!」
「犬と狐がにゃって言う方が不完全だろ!」
「そんなに嫌なら、翻訳を切ったるわ!」
女神が指を鳴らした。
何かを言った。
音は聞こえた。
言葉であることも分かった。
だが、意味だけが一つも頭へ入ってこない。
「……え?」
女神がさらに何か言う。
聞いたことのない母音と子音が、途切れずに流れていく。
「待って。何言ってるか全然分からない」
女神は片方の眉を上げた。
俺の言葉も向こうへ通じていないのかもしれない。
両手を振り、口を指さし、それから指を鳴らす真似をする。
女神はしばらく俺を眺めていた。
わざとだ。
絶対に分かっている。
両手を合わせ、頭を下げた。
女神がようやく指を鳴らす。
「――分かったか?」
「分かった! にゃでいい! にゃでいいから戻して!」
「最初から我慢せえ!」
女神は完全に機嫌を悪くしていた。
だが、俺にはまだ言うべきことがあった。
「あと、魔法!」
「まだあるんか」
「俺、全然魔法使えないんだけど!」
「何を試した?」
「何を試せばいいのか分からない」
「術式は勉強したか?」
「してない」
「時間資源は用意したか?」
「してない」
「起こしたい現象について調べたか?」
「してない」
「普通に勉強しろ!!!!」
女神が立ち上がった。
背中の輪が激しく明滅する。
「でも俺、転生者だぞ! 感覚で火くらい出せるようにしてくれてもいいだろ!」
「現地の人間は学校へ通って、術式を覚えて、資源を用意して使っとる! なんでお前だけ勉強せずに使えると思っとるんや!」
「異世界転生って、普通そういうものだろ!」
「どこの普通や!」
「俺の知ってる異世界!」
「知らんわ!」
女神が机の引き出しを乱暴に開けた。
分厚い本を一冊取り出す。
「ほら!」
投げつけられた本を、両手で受け止める。
濃い青色の表紙に、白い文字で題名が書かれていた。
「中学校?」
「現地の中学生が使う教科書や」
「もっと実践的な本ないの?」
「これが基礎や! お前の魔法知識は小学生以下やぞ!」
「大学は出てるんだけど」
「ほな中学生の教科書くらい読めるやろ!」
女神は机を回り込み、俺の背中を押した。
「最初から全部読め! 分からん単語は本屋で辞書買え! それでも分からんなら、金払って教師に聞け!」
「魔法の一つくらい実演してくれても――」
「もう帰れ!」
入ってきた扉を開けられる。
扉の向こうには、灰色の廊下があった。
大型トラックのライトが、正面からこちらを照らしている。
「待て! まだトラックいるんだけど!」
「夢の中の問題まで私様に持ち込むな!」
「せめて消してくれよ!」
「自分で起きろ!」
背中を突き飛ばされた。
教科書を抱えたまま、廊下へ倒れ込む。
クラクションが鳴った。
「もう帰れ言うとるやろが!」
扉が閉まる。
大型トラックが迫る。
◇
「うわあああああ!」
目を開けた。
何か重いものが顔へ乗っている。
両手で掴み、持ち上げる。
青い表紙の本だった。
部屋を見回す。
灰色の壁。
寝台。
棚。
空になった酒瓶。
女神はいない。
「……夢じゃなかったの?」
頭が痛い。
口の中が乾いている。
胃も少し気持ち悪かった。
身体を起こし、教科書を開く。
最初のページには、この本を使って魔法の基礎を学ぶようにと書かれていた。
次のページは目次だった。
『第1章 時間資源と生体ロック』
難しそうだ。
『第2章 術式と記述法』
もっと難しそうだ。
『第3章 現象系・変換系・生成系』
少し格好いい。
『第4章 大規模術式と外部計算』
絶対に面倒だ。
『第5章 魔法生物と生得器官』
「これだろ」
第5章を開く。
魔法生物とは何か。
生得器官とは何か。
代表的な魔法生物である竜類と鳳類。
「やっぱり異世界といえば、こういうのだよな」
最初から読めと言われた気がする。
だが、興味のあるところから入った方が、勉強は頭へ入りやすい。
俺は学習しない人間ではない。
効率を重視する人間なのだ。
