第10話 蛆虫を拾えば競馬ができる!

調査を始めて、四週目に入った。

噛まれた腿の傷はもう塞がっている。押せば少し痛むものの、歩くのに支障はない。

あれだけ騒いでいた俺に、ベルンは一度だけ傷を見せろと言い、鼻を鳴らした。

「治っとるだろうが」

「でも、まだちょっと痛いんですけど」

「なら押すな!!」

正論だった。

検体も順調に集まっていた。

木の根に張りつくもの。濡れた落ち葉の下で薄い膜になるもの。小動物の骨を糸でつないで、這うように動かすもの。

どれも気持ち悪かったが、最初に見た腐った鹿を超えるものはなかった。

俺も少しは、この仕事に慣れてきたのかもしれない。

残る検体は、死骸移動型の末期個体だけだった。

宿主の全身へ原生生物が入り込み、湿地の近くまで死骸を運んだ個体らしい。

エルマによれば、これがなかなか見つからないのだという。

「宿主が途中で崩壊する。大型の死骸を確保できても、湿地へ到達する前に動けなくなる例が大半だ」

「じゃあ、見つからない方が普通なんですね」

「そうだ。だから価値がある」

エルマはそう言っていた。

その目は、絶対に見つけるつもりの目だった。

◇

火曜日の昼過ぎ。

ベルンが、突然足を止めた。

「臭うな」

「え?」

「黙れ」

ベルンが鼻を鳴らし、風上へ顔を向ける。

俺にも、少し遅れて臭いが届いた。

甘いような、酸っぱいような、生温かい腐敗臭だった。

「うっ……」

思わず鼻を押さえる。

「近いぞ」

ベルンは地面へしゃがみ込み、濡れた落ち葉を指で払った。

そこに、白い蛆が一匹落ちていた。

少し先にも一匹。

さらにその先には、数匹が固まって蠢いている。

道しるべのように、蛆が森の奥へ続いていた。

「まさか」

エルマの声が震えた。

俺たちは蛆の跡を追った。

進むほど地面が柔らかくなり、靴の底が泥へ沈む。木々の隙間には薄い霧が溜まり、湿った苔が倒木を覆っていた。

「沼まで、どのくらいですか」

「八百歩ほどだ」

ベルンが答えると、エルマは興奮したように記録帳へ書き込んだ。

「湿地から一キロ圏内。条件は合っている」

その時、前方の茂みから、ばきり、と枝を踏む音が聞こえた。

ばき。

ずるり。

ばき。

やけに遅い。

最初に見えたのは、鹿の角だった。

立派な枝角が地面を引っ掻き、落ち葉を巻き込んで進んでくる。

次に頭。

首は完全に捻じれ、後頭部を泥へ擦りつけていた。

そして、その後ろから現れたものを見て、俺の頭は理解を拒んだ。

大きな鹿だった。

ただし、腹を上にして歩いている。

四本の脚のうち一本は、途中から腐ってなくなっていた。

残る三本は、本来なら曲がらない方向へ折れ曲がり、逆さになった胴体を支えている。関節が外側へ突き出し、蹄だけが地面を踏んでいた。

ばき。

ずるり。

一歩進むたびに、捻じれた脚の奥で骨が鳴る。

腹は腐敗ガスで大きく膨れ、一度破裂したのか、真ん中から裂けていた。開いた腹から黒ずんだ内臓が垂れ下がり、歩くたびに地面を引きずっている。

その内臓の隙間から、蛆がぼろぼろと零れていた。

「うっ」

臭いが鼻から喉へ突き刺さる。

胃がひっくり返った。

「おえええっ!」

俺はその場へ膝をつき、朝食を吐いた。

「見事だ……」

エルマが呟いた。

俺が吐いている横で、エルマは撮影機を構えていた。

「腹腔は完全に開放。筋組織の大半が崩壊しているにもかかわらず、三肢で移動を継続している。全身へ到達した末期群体だ」

撮影機の向こうで、エルマの目が輝いている。

「美しい……」

「どこがだよ……!」

「喋る暇があるなら立て! 回収するぞ!」

俺は口元を拭き、立ち上がった。

◇

鹿の進行方向へ吸収布と採取皿を広げる。

オスカーさんが手際よく器具を並べ、ベルンは周囲を警戒する。

俺は背負っていた忌避液のタンクを下ろし、噴射管を握った。

「まず脚部と背面へ散布しろ。低濃度でいい。外側の群体から排出させる」

「分かりました」

「検体へ吐くなよ」

「好きで吐いてるわけじゃないですよ!」

ゆっくりと近づく。

鹿は俺たちへ反応しなかった。

腹を上にしたまま、沼の方角へ進もうとしている。

ばき。

ずるり。

そのたびに、腹から内臓と蛆が揺れた。

息を止め、噴射管の引き金を握る。

茶色い忌避液が霧になり、鹿の脚と背中へ降りかかった。

数秒後。

腐った皮膚の下で、何かが蠢いた。

脚の裂け目から、半透明の紐が何本も這い出してくる。

筋肉や腱へ絡みついていた粘液の束が、液を嫌うように身をよじり、採取皿へ落ちた。

「排出開始! オスカー、右脚部を回収!」

「はいよ~」

オスカーさんは素早く粘液を掬い、蓋つきの容器へ入れていく。

鹿の右脚から支えが消えた。

ぐしゃり、と音を立て、胴体が傾く。

裂けた腹から、腐った内臓と体液が一気に流れ出した。

その中にいた蛆まで、泥の上へ広がっていく。

「おえっ!」

「顔だけ向こうへ向けろ! 検体にかけるな! 液はかけ続けろ!!」

「無茶言うなって……おええっ!」

俺は首だけ横へ向けて吐きながら、噴射管を握り続けた。

エルマは俺など見ていない。

腐った鹿の変形を撮影しながら、呼吸を忘れたように観察している。

「予想以上だ。腹腔深部にも群体が残っている。散布を止めろ。濃度を一段階上げて、次は腹部だ」

「まだやるんですか!?」

「当たり前だ! 全身に回っていると言っただろう!」

オスカーさんが新しい採取皿を並べてくれた。

「大丈夫~? もう吐くもの残ってないんじゃない?」

「それは大丈夫って言わないんすよ……」

二度目の散布を始める。

忌避液が、裂けた腹の奥へ流れ込んだ。

垂れ下がっていた内臓が、内側から押された。

ずるり。

何か太いものが、腹の底から這い出してくる。

一瞬、大蛇かと思った。

俺の胴回りほどもある、灰白色の長い塊だった。

だが、よく見ると一本の生物ではない。

無数の粘液の紐と薄い膜が絡み合い、一本の太い束になっている。

それが腐った内臓を押し分け、蛆を巻き込みながら地面へ落ちた。

「大型群体排出! 状態を維持したまま誘導しろ!」

エルマの声が裏返った。

「すごい……これほど成長したものは記録にも少ない。美しい。なんて美しいんだ……!」

「気持ち悪いんだよ!!」

大蛇のような群体が、吸収布の上でゆっくり広がっていく。

鹿の腹から支えがなくなり、残っていた肋骨が内側へ潰れた。

ぶしゅっ、と腐敗ガスが漏れる。

今までとは比べものにならない臭いが、空気ごと俺の顔へぶつかった。

「おごっ……!」

もう何も出なかった。

胃液だけを吐き、涙と鼻水を垂らしながら噴射を続ける。

「あと一回だ! 頭部と残りの関節!」

「まだあんの!?」

「末期個体だぞ! 途中で終われるか!」

三度目の散布で、眼窩と口から細い膜が溢れた。

外れた顎の隙間からも、髪の毛のような粘液が何百本も這い出してくる。

残る二本の脚から群体が抜けると、鹿はとうとう形を保てなくなった。

骨が崩れ、皮が裂け、腐った肉と内臓が泥の上へ平たく広がった。

その隙間から、最後の蛆が波のように溢れ出す。

忌避液を浴びた蛆は、しばらく激しく蠢いたあと、次々と動かなくなった。

俺は噴射管を放り出しそうになった。

「管を下へ向けるな! 残液が漏れる!」

「もう無理……」

「あと十秒!」

「さっきもあと一回って言ったじゃないですか!」

「九、八、七!」

俺は泣きながら散布を続けた。

◇

検体を容器へ収め、封をする。

採取皿を洗浄し、撮影記録と容器の番号を照合する。

オスカーさんは最後まで手を止めなかった。

いつもの柔らかな雰囲気とは裏腹に、オスカーさんは迷いのない手つきで器具を次々と片づけていった。

エルマが全ての容器を確認し、記録帳へ印をつけた。

「必要数を確認。末期個体の採取、完了」

そして、はっきりと宣言した。

「作業終了!」

その瞬間だった。

オスカーさんが背負い袋から、小さな網と木箱を取り出した。

泥へしゃがみ込み、忌避液で死んだ蛆を掬い始める。

作業が早い。

流れ出した内臓を棒で持ち上げ、その下に溜まっている蛆まで、丁寧に網へ入れていく。

「何してるんっすか!?」

「蛆を集めてるんだよ~」

「それは見れば分かりますよ!」

オスカーさんは腐った鹿の腹へ手を入れた。

ぐちょぐちょと死体をかき回し、中に残っていた蛆を掻き出す。

「洗って乾かすと、魔法資材として売れるんだよ。これだけ集めれば、一回競馬ができる!」

「競馬のために!?」

「佐藤くんも一緒に拾おうよ! 半分ずつにしよう!」

本当に善意で誘っている顔だった。

俺は再び吐いた。

もう何も出ないので、泥へ唾液が落ちただけだった。

「浅ましい……」

エルマが冷たい目でオスカーを見ている。

腐って裏返った鹿を見て「美しい」と言った人間に、ここまで軽蔑されるのは相当だ。

「一時間だけだ……」

ベルンが低い声で言った。

「え?」

「一時間だけ拾わせてやる。日が傾いたら、残っていても帰るぞ」

「ありがとうございます、ベルンさん!」

オスカーさんが嬉しそうに頭を下げた。

「なんで許すんですか」

「初めての時に置いて帰ると言ったら、こいつは俺の脚にしがみついて二時間泣きやがった」

「待ってくださいって、ちゃんと土下座もしましたよ~」

「自慢するな!!」

ベルンの怒鳴り声が森へ響いた。

オスカーさんは気にせず、また蛆を集め始めた。

「鹿の角の方が、高く売れるんじゃないですか?」

「角や骨や皮は、持ち出し禁止なんだ。自然環境の保全と、国の資源管理があるからね~」

「じゃあ蛆は?」

「規則に書いてないよ」

「通常、持ち帰ろうとする者がいないからな」

エルマが吐き捨てた。

一時間後。

オスカーさんの木箱には、濡れた蛆の死骸がぎっしり詰まっていた。

◇

小屋へ戻ると、オスカーさんは真っ先に木箱を抱えて中へ入ろうとした。

「それを小屋へ持ち込むな!!」

エルマとベルンの声が重なった。

「検体と機材が汚染される!」

「寝床で蛆を煎るつもりか、貴様!!」

「外で乾かしますよ~」

オスカーさんは小屋の裏へ回り、小さな焚き火を作った。

火の上へ網を渡し、洗った蛆を薄く広げていく。

ベルンは額に青筋を浮かべながら、細かく場所を指定した。

「小屋の裏から離れるな! 火は低く保て! 笛が鳴ったら、蛆も網も火も捨てて中へ入れ!」

「分かりました~」

「竜が出ても、その箱を抱えて逃げるなよ!」

「それは、まあ、状況を見て――」

「捨てろ!!」

「はい~」

本当に分かっているのだろうか。

その夜、用を足すために外へ出ると、腐敗臭とも焼けた肉とも違う、嫌な臭いが漂っていた。

小屋の裏では、オスカーさんが一人で焚き火の前へ座っている。

竜がいつ現れるかも分からない暗い森の中で、網の上の蛆を一本の棒で丁寧に裏返していた。

「まだやってるんですか」

「うん。重ならないようにしないと、中まで乾かないからね~」

「それ、いくらになるんです?」

「たぶん、銀貨1枚くらいかな」

たったそれだけの金のために、この男は竜圏の夜に小屋の外へ出て、死んだ蛆を一匹ずつ裏返している。

「そこまでして競馬したいんすか」

「競馬、楽しいよ~」

オスカーさんは幸せそうに大口を開けて笑った。

片方の歯が抜けた口が、焚き火に照らされる。

俺は何も言わず、小屋へ戻った。

この人は、やっぱりどこかおかしい。

翌朝には、蛆はすっかり乾いていた。

オスカーさんはそれを布袋へ詰め、満足そうに何度も重さを確かめていた。

◇

金曜日。

俺たちは、最後の検体を集合地点で引き渡した。

容器を確認した研究所の職員が書類へ署名し、帰還する俺たちを荷馬車へ乗せる。

約一か月ぶりに、森が遠ざかっていった。

もう重いタンクを背負わなくていい。

腐った死骸を探して山を歩かなくていい。

蛆が降ってくる鹿も、噛みついてくる猪も、全回復してくれない回復魔法もない。

城壁が見えた時、俺は本気で泣きそうになった。

研究所で検体の受領が完了し、契約は正式に満了となった。

給料は、ほぼ一か月分。

来月の生活費と、借金の返済分。

それに、少しくらいなら遊べる金も残る。

思っていたほどの大金ではない。

だが、宿代も食費も調査中は研究所持ちだったため、手元にはそれなりの額が残った。

オスカーさんは帰り道に魔法資材屋へ寄り、乾燥蛆の袋を売った。

「いやぁ~、思ったより高く売れたよ~」

銀貨を受け取り、にこにこと笑っている。

「その金、本当に借金の返済に使わないんですか?」

「これは臨時収入だから、競馬用だよ~」

「臨時収入も収入ですよ」

「大丈夫。次は勝つから」

駄目な人が必ず言う言葉だった。

「佐藤くんも行く? 一緒に賭けようよ!」

「絶対に嫌です」

一か月前。

俺は短期、高給、同性とのえっちなし、糞なしという条件で、この仕事を選んだ。

確かに短期だった。

給料も悪くない。

同性とのえっちもなかった。

糞を洗う仕事でもなかった。

条件は、全部守られていた。

それでも、一か月の感想は一つしかない。

もう最悪だった。

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