調査を始めて、四週目に入った。
噛まれた腿の傷はもう塞がっている。押せば少し痛むものの、歩くのに支障はない。
あれだけ騒いでいた俺に、ベルンは一度だけ傷を見せろと言い、鼻を鳴らした。
「治っとるだろうが」
「でも、まだちょっと痛いんですけど」
「なら押すな!!」
正論だった。
検体も順調に集まっていた。
木の根に張りつくもの。濡れた落ち葉の下で薄い膜になるもの。小動物の骨を糸でつないで、這うように動かすもの。
どれも気持ち悪かったが、最初に見た腐った鹿を超えるものはなかった。
俺も少しは、この仕事に慣れてきたのかもしれない。
残る検体は、死骸移動型の末期個体だけだった。
宿主の全身へ原生生物が入り込み、湿地の近くまで死骸を運んだ個体らしい。
エルマによれば、これがなかなか見つからないのだという。
「宿主が途中で崩壊する。大型の死骸を確保できても、湿地へ到達する前に動けなくなる例が大半だ」
「じゃあ、見つからない方が普通なんですね」
「そうだ。だから価値がある」
エルマはそう言っていた。
その目は、絶対に見つけるつもりの目だった。
◇
火曜日の昼過ぎ。
ベルンが、突然足を止めた。
「臭うな」
「え?」
「黙れ」
ベルンが鼻を鳴らし、風上へ顔を向ける。
俺にも、少し遅れて臭いが届いた。
甘いような、酸っぱいような、生温かい腐敗臭だった。
「うっ……」
思わず鼻を押さえる。
「近いぞ」
ベルンは地面へしゃがみ込み、濡れた落ち葉を指で払った。
そこに、白い蛆が一匹落ちていた。
少し先にも一匹。
さらにその先には、数匹が固まって蠢いている。
道しるべのように、蛆が森の奥へ続いていた。
「まさか」
エルマの声が震えた。
俺たちは蛆の跡を追った。
進むほど地面が柔らかくなり、靴の底が泥へ沈む。木々の隙間には薄い霧が溜まり、湿った苔が倒木を覆っていた。
「沼まで、どのくらいですか」
「八百歩ほどだ」
ベルンが答えると、エルマは興奮したように記録帳へ書き込んだ。
「湿地から一キロ圏内。条件は合っている」
その時、前方の茂みから、ばきり、と枝を踏む音が聞こえた。
ばき。
ずるり。
ばき。
やけに遅い。
最初に見えたのは、鹿の角だった。
立派な枝角が地面を引っ掻き、落ち葉を巻き込んで進んでくる。
次に頭。
首は完全に捻じれ、後頭部を泥へ擦りつけていた。
そして、その後ろから現れたものを見て、俺の頭は理解を拒んだ。
大きな鹿だった。
ただし、腹を上にして歩いている。
四本の脚のうち一本は、途中から腐ってなくなっていた。
残る三本は、本来なら曲がらない方向へ折れ曲がり、逆さになった胴体を支えている。関節が外側へ突き出し、蹄だけが地面を踏んでいた。
ばき。
ずるり。
一歩進むたびに、捻じれた脚の奥で骨が鳴る。
腹は腐敗ガスで大きく膨れ、一度破裂したのか、真ん中から裂けていた。開いた腹から黒ずんだ内臓が垂れ下がり、歩くたびに地面を引きずっている。
その内臓の隙間から、蛆がぼろぼろと零れていた。
「うっ」
臭いが鼻から喉へ突き刺さる。
胃がひっくり返った。
「おえええっ!」
俺はその場へ膝をつき、朝食を吐いた。
「見事だ……」
エルマが呟いた。
俺が吐いている横で、エルマは撮影機を構えていた。
「腹腔は完全に開放。筋組織の大半が崩壊しているにもかかわらず、三肢で移動を継続している。全身へ到達した末期群体だ」
撮影機の向こうで、エルマの目が輝いている。
「美しい……」
「どこがだよ……!」
「喋る暇があるなら立て! 回収するぞ!」
俺は口元を拭き、立ち上がった。
◇
鹿の進行方向へ吸収布と採取皿を広げる。
オスカーさんが手際よく器具を並べ、ベルンは周囲を警戒する。
俺は背負っていた忌避液のタンクを下ろし、噴射管を握った。
「まず脚部と背面へ散布しろ。低濃度でいい。外側の群体から排出させる」
「分かりました」
「検体へ吐くなよ」
「好きで吐いてるわけじゃないですよ!」
ゆっくりと近づく。
鹿は俺たちへ反応しなかった。
腹を上にしたまま、沼の方角へ進もうとしている。
ばき。
ずるり。
そのたびに、腹から内臓と蛆が揺れた。
息を止め、噴射管の引き金を握る。
茶色い忌避液が霧になり、鹿の脚と背中へ降りかかった。
数秒後。
腐った皮膚の下で、何かが蠢いた。
脚の裂け目から、半透明の紐が何本も這い出してくる。
筋肉や腱へ絡みついていた粘液の束が、液を嫌うように身をよじり、採取皿へ落ちた。
「排出開始! オスカー、右脚部を回収!」
「はいよ~」
オスカーさんは素早く粘液を掬い、蓋つきの容器へ入れていく。
鹿の右脚から支えが消えた。
ぐしゃり、と音を立て、胴体が傾く。
裂けた腹から、腐った内臓と体液が一気に流れ出した。
その中にいた蛆まで、泥の上へ広がっていく。
「おえっ!」
「顔だけ向こうへ向けろ! 検体にかけるな! 液はかけ続けろ!!」
「無茶言うなって……おええっ!」
俺は首だけ横へ向けて吐きながら、噴射管を握り続けた。
エルマは俺など見ていない。
腐った鹿の変形を撮影しながら、呼吸を忘れたように観察している。
「予想以上だ。腹腔深部にも群体が残っている。散布を止めろ。濃度を一段階上げて、次は腹部だ」
「まだやるんですか!?」
「当たり前だ! 全身に回っていると言っただろう!」
オスカーさんが新しい採取皿を並べてくれた。
「大丈夫~? もう吐くもの残ってないんじゃない?」
「それは大丈夫って言わないんすよ……」
二度目の散布を始める。
忌避液が、裂けた腹の奥へ流れ込んだ。
垂れ下がっていた内臓が、内側から押された。
ずるり。
何か太いものが、腹の底から這い出してくる。
一瞬、大蛇かと思った。
俺の胴回りほどもある、灰白色の長い塊だった。
だが、よく見ると一本の生物ではない。
無数の粘液の紐と薄い膜が絡み合い、一本の太い束になっている。
それが腐った内臓を押し分け、蛆を巻き込みながら地面へ落ちた。
「大型群体排出! 状態を維持したまま誘導しろ!」
エルマの声が裏返った。
「すごい……これほど成長したものは記録にも少ない。美しい。なんて美しいんだ……!」
「気持ち悪いんだよ!!」
大蛇のような群体が、吸収布の上でゆっくり広がっていく。
鹿の腹から支えがなくなり、残っていた肋骨が内側へ潰れた。
ぶしゅっ、と腐敗ガスが漏れる。
今までとは比べものにならない臭いが、空気ごと俺の顔へぶつかった。
「おごっ……!」
もう何も出なかった。
胃液だけを吐き、涙と鼻水を垂らしながら噴射を続ける。
「あと一回だ! 頭部と残りの関節!」
「まだあんの!?」
「末期個体だぞ! 途中で終われるか!」
三度目の散布で、眼窩と口から細い膜が溢れた。
外れた顎の隙間からも、髪の毛のような粘液が何百本も這い出してくる。
残る二本の脚から群体が抜けると、鹿はとうとう形を保てなくなった。
骨が崩れ、皮が裂け、腐った肉と内臓が泥の上へ平たく広がった。
その隙間から、最後の蛆が波のように溢れ出す。
忌避液を浴びた蛆は、しばらく激しく蠢いたあと、次々と動かなくなった。
俺は噴射管を放り出しそうになった。
「管を下へ向けるな! 残液が漏れる!」
「もう無理……」
「あと十秒!」
「さっきもあと一回って言ったじゃないですか!」
「九、八、七!」
俺は泣きながら散布を続けた。
◇
検体を容器へ収め、封をする。
採取皿を洗浄し、撮影記録と容器の番号を照合する。
オスカーさんは最後まで手を止めなかった。
いつもの柔らかな雰囲気とは裏腹に、オスカーさんは迷いのない手つきで器具を次々と片づけていった。
エルマが全ての容器を確認し、記録帳へ印をつけた。
「必要数を確認。末期個体の採取、完了」
そして、はっきりと宣言した。
「作業終了!」
その瞬間だった。
オスカーさんが背負い袋から、小さな網と木箱を取り出した。
泥へしゃがみ込み、忌避液で死んだ蛆を掬い始める。
作業が早い。
流れ出した内臓を棒で持ち上げ、その下に溜まっている蛆まで、丁寧に網へ入れていく。
「何してるんっすか!?」
「蛆を集めてるんだよ~」
「それは見れば分かりますよ!」
オスカーさんは腐った鹿の腹へ手を入れた。
ぐちょぐちょと死体をかき回し、中に残っていた蛆を掻き出す。
「洗って乾かすと、魔法資材として売れるんだよ。これだけ集めれば、一回競馬ができる!」
「競馬のために!?」
「佐藤くんも一緒に拾おうよ! 半分ずつにしよう!」
本当に善意で誘っている顔だった。
俺は再び吐いた。
もう何も出ないので、泥へ唾液が落ちただけだった。
「浅ましい……」
エルマが冷たい目でオスカーを見ている。
腐って裏返った鹿を見て「美しい」と言った人間に、ここまで軽蔑されるのは相当だ。
「一時間だけだ……」
ベルンが低い声で言った。
「え?」
「一時間だけ拾わせてやる。日が傾いたら、残っていても帰るぞ」
「ありがとうございます、ベルンさん!」
オスカーさんが嬉しそうに頭を下げた。
「なんで許すんですか」
「初めての時に置いて帰ると言ったら、こいつは俺の脚にしがみついて二時間泣きやがった」
「待ってくださいって、ちゃんと土下座もしましたよ~」
「自慢するな!!」
ベルンの怒鳴り声が森へ響いた。
オスカーさんは気にせず、また蛆を集め始めた。
「鹿の角の方が、高く売れるんじゃないですか?」
「角や骨や皮は、持ち出し禁止なんだ。自然環境の保全と、国の資源管理があるからね~」
「じゃあ蛆は?」
「規則に書いてないよ」
「通常、持ち帰ろうとする者がいないからな」
エルマが吐き捨てた。
一時間後。
オスカーさんの木箱には、濡れた蛆の死骸がぎっしり詰まっていた。
◇
小屋へ戻ると、オスカーさんは真っ先に木箱を抱えて中へ入ろうとした。
「それを小屋へ持ち込むな!!」
エルマとベルンの声が重なった。
「検体と機材が汚染される!」
「寝床で蛆を煎るつもりか、貴様!!」
「外で乾かしますよ~」
オスカーさんは小屋の裏へ回り、小さな焚き火を作った。
火の上へ網を渡し、洗った蛆を薄く広げていく。
ベルンは額に青筋を浮かべながら、細かく場所を指定した。
「小屋の裏から離れるな! 火は低く保て! 笛が鳴ったら、蛆も網も火も捨てて中へ入れ!」
「分かりました~」
「竜が出ても、その箱を抱えて逃げるなよ!」
「それは、まあ、状況を見て――」
「捨てろ!!」
「はい~」
本当に分かっているのだろうか。
その夜、用を足すために外へ出ると、腐敗臭とも焼けた肉とも違う、嫌な臭いが漂っていた。
小屋の裏では、オスカーさんが一人で焚き火の前へ座っている。
竜がいつ現れるかも分からない暗い森の中で、網の上の蛆を一本の棒で丁寧に裏返していた。
「まだやってるんですか」
「うん。重ならないようにしないと、中まで乾かないからね~」
「それ、いくらになるんです?」
「たぶん、銀貨1枚くらいかな」
たったそれだけの金のために、この男は竜圏の夜に小屋の外へ出て、死んだ蛆を一匹ずつ裏返している。
「そこまでして競馬したいんすか」
「競馬、楽しいよ~」
オスカーさんは幸せそうに大口を開けて笑った。
片方の歯が抜けた口が、焚き火に照らされる。
俺は何も言わず、小屋へ戻った。
この人は、やっぱりどこかおかしい。
翌朝には、蛆はすっかり乾いていた。
オスカーさんはそれを布袋へ詰め、満足そうに何度も重さを確かめていた。
◇
金曜日。
俺たちは、最後の検体を集合地点で引き渡した。
容器を確認した研究所の職員が書類へ署名し、帰還する俺たちを荷馬車へ乗せる。
約一か月ぶりに、森が遠ざかっていった。
もう重いタンクを背負わなくていい。
腐った死骸を探して山を歩かなくていい。
蛆が降ってくる鹿も、噛みついてくる猪も、全回復してくれない回復魔法もない。
城壁が見えた時、俺は本気で泣きそうになった。
研究所で検体の受領が完了し、契約は正式に満了となった。
給料は、ほぼ一か月分。
来月の生活費と、借金の返済分。
それに、少しくらいなら遊べる金も残る。
思っていたほどの大金ではない。
だが、宿代も食費も調査中は研究所持ちだったため、手元にはそれなりの額が残った。
オスカーさんは帰り道に魔法資材屋へ寄り、乾燥蛆の袋を売った。
「いやぁ~、思ったより高く売れたよ~」
銀貨を受け取り、にこにこと笑っている。
「その金、本当に借金の返済に使わないんですか?」
「これは臨時収入だから、競馬用だよ~」
「臨時収入も収入ですよ」
「大丈夫。次は勝つから」
駄目な人が必ず言う言葉だった。
「佐藤くんも行く? 一緒に賭けようよ!」
「絶対に嫌です」
一か月前。
俺は短期、高給、同性とのえっちなし、糞なしという条件で、この仕事を選んだ。
確かに短期だった。
給料も悪くない。
同性とのえっちもなかった。
糞を洗う仕事でもなかった。
条件は、全部守られていた。
それでも、一か月の感想は一つしかない。
もう最悪だった。
