第11話 二十年後には絶対かっこいい!

野外調査の契約を終えた翌朝。

俺たちは研究所で、今回の報酬を受け取った。

一か月近く山を歩き回っただけあって、袋はそれなりに重い。

「結構あるな」

「よかったねぇ~」

オスカーさんも嬉しそうに、自分の報酬袋を持ち上げた。

だが、研究所の建物を出た瞬間。

「オスカー」

待っていた男が、オスカーさんへ手を出した。

どうやら、借金取りには研究所から報酬の支給日が連絡されるようになっているらしい。今回で四回目ともなれば、向こうもすっかり勝手が分かっている。

「はいはい~」

オスカーさんは慣れた様子で、今受け取ったばかりの袋をそのまま渡した。

男は中身を確認すると、硬貨をほんの少しだけ取り出してオスカーさんへ返す。

「二日分だ。飯だけ食え」

「もう少しくれてもいいんじゃない?」

「競馬に使うだろ」

「増えるかもしれないよ~」

「だから渡さねぇんだよ」

男は残りの金を全部持って去っていった。

「……今の何です?」

「借金取り」

「給料、ほとんど持っていかれましたけど」

「うん。今月分の返済~」

オスカーさんは、二日分の食費しか残っていない財布をしまった。

「まあ、なくなったらまた働けばいいしねぇ」

この人は、本当に何も気にしていなかった。

そのまま俺たちは、セラキア帝国の乗合馬車の窓口へ向かった。

セグルへ戻る馬車を予約しようとしたのだが、最短の便は三日後だった。

今回の仕事は、いつ検体が揃うか事前に分からない。契約終了日が決まっていない以上、帰りの馬車も終わってからでなければ取れなかったのだ。

幸い、待機中の宿代は研究所が負担してくれる。

ただし、食費や遊ぶ金は自腹だった。

「行こっか、競馬場!」

「競馬か……」

「賭けなければ、お金は減らないよ~」

「オスカーさんが言うと、全然説得力ないですね」

「僕は賭けるけどね」

オスカーさんは笑いながら、腰の小袋を叩いた。

中に入っているのは、乾燥蛆を売って得た金だ。

腐った鹿の中へ手を突っ込み、竜が出るかもしれない森で一晩中焚き火を見張って、ようやく手に入れた臨時収入。

それを一日で競馬へ使うらしい。

「本当に全部賭けるつもりですか?」

「勝てば増えるよ~」

「負けたら?」

「その時考えよ」

何も考えていない人間の答えだった。

◇

セラキア帝国の競馬場は、想像していたよりずっと大きかった。

楕円形の走路と巨大な観客席が作られている。色とりどりの旗が風にはためき、正面門から続く通りには、食べ物の屋台が何十軒も並んでいた。

羊肉の串焼き。

香辛料を利かせた腸詰め。

豆と肉を煮込んだ熱いスープ。

蜜柑の蜜をかけた揚げ菓子。

「競馬場って、こんなに食べ物があるんですね」

「最近は、家族連れも多いからねぇ」

串焼きを頬張りながら、オスカーさんが答えた。

賭け事さえしなければ、かなり楽しい場所だった。

俺は串焼きを二本食べ、揚げ菓子を買い、蜜柑を搾った冷たい飲み物まで飲んだ。

久しぶりのまともな娯楽だ。

蛆も腐った鹿も、俺を噛む猪もいない。

目の前を走る馬は、ちゃんと生きている。

「佐藤くん、どの馬がいいと思う?」

オスカーさんが出走表を見せてきた。

「俺、馬なんて分かりませんよ」

「顔で選んでいいよ」

「馬の顔で選ぶんですか?」

「僕はいつもそうしてる」

だから借金をしているのではないだろうか。

オスカーさんは出走前の馬を一頭ずつ眺め、やがて七番の栗毛を指さした。

「あの子にする」

「理由は?」

「さっき目が合ったから」

「やめた方がいいと思います」

「これは運命だよ~」

運命は、大体ろくなことをしない。

七番の馬は、倍率がかなり高かった。

つまり、それだけ勝つと思われていない馬だ。

オスカーさんは乾燥蛆で得た金を、全額七番へ賭けた。

「せめて半分残したらどうです?」

「半分だけ賭けた時に勝ったら、残り半分を賭けなかったことを後悔するでしょ?」

「負けた時のことも考えてくださいよ」

「負けると思って賭ける人はいないよ~」

競走開始を告げる鐘が鳴った。

十頭の馬が、一斉に走り出す。

「行けえええ! 七番! 七番! そこだあああ!」

オスカーさんが立ち上がった。

借金のかたに犬歯を抜かれた男とは思えないほど、元気な声だった。

七番は、最初こそ集団の真ん中にいた。

だが、一周目の曲がり角で遅れ始める。

前との差が開き、二周目に入る頃には、誰が見ても最下位だった。

「まだだ! ここからだよ~!」

「もう無理じゃないですか?」

「最後にすごい追い込みがあるかもしれない!」

なかった。

七番は、そのまま最下位でゴールした。

オスカーさんはしばらく立ったまま、遠ざかる馬を見つめていた。

一時間かけて拾った蛆。

一晩かけて乾かした蛆。

腐った鹿の臭いに耐えて得た金が、数分で消えた。

「負けましたね」

「負けちゃったねぇ~」

オスカーさんは座席へ腰を下ろした。

少しは落ち込むのかと思ったが、すぐに顔を上げた。

「負けちゃったし、飲みに行こう~!」

「なんで!?」

「こういう日は飲まないと」

「蛆の金、全部なくなったんですよね?」

「今日のご飯代があるでしょ~」

「それ、借金取りから渡された飯代ですよね?」

「なくなったら、また働けばいいよ」

この人は、こうやって歯まで失ったのだ。

◇

一軒目の酒場で、俺たちは蜂蜜酒を飲んだ。

店員は、目尻に薄い皺のある四十代くらいの女性だった。

酒を置いたあと、俺の顔を見て笑う。

「あら、綺麗な顔ねぇ」

「そうですか?」

俺は少し背筋を伸ばした。

セグルでは、周囲に美形の愛玩種が多すぎて、俺の顔はあまり目立たない。

だが、ここはセラキア帝国だ。

ようやく転生ボーナスが正当に評価され始めた。

「二十年後には、絶対かっこよくなるわよ」

「二十年後?」

「今からちゃんと働けば、将来楽しみね」

店員は、子供を褒めるように俺の肩を叩いて去っていった。

今はどうなのだろう。

二軒目では、近くの席にいた女性二人組から声をかけられた。

「お兄さん、イケメン!」

「ありがとうございます!」

「亀、飼ってる?」

「亀?」

「何匹? 一番上はいくつ?」

「いや、一匹も飼ってないですけど」

二人の女性が同時に黙った。

「一匹も?」

「はい」

「その歳で?」

「そんなに変ですか?」

「今からでも一匹くらい買いなさいよ。二十年育てれば、それなりの資産になるから」

「二十年……」

「顔もいいし、ちゃんと亀を増やせば、四十代にはモテるわよ」

また未来の話だった。

二人は、少し離れた席にいた灰色の髪の男へ目を向ける。

「あの人、素敵じゃない?」

「指輪も古そう。亀、何匹持ってるのかしら」

どう見ても俺より二十歳ほど年上だった。

だが、女性たちの視線は完全にそちらへ移っている。

「南方って、おじさんの方がモテるんですか?」

「一番人気なのは、四十代から五十代だねぇ」

オスカーさんが酒を飲みながら答えた。

「仕事も安定して、長年物の資産も増えて、亀も育ってる頃だから」

「オスカーさんは、亀を飼ってないんですか?」

「昔は三匹いたよ~」

「いるじゃないですか。何歳です?」

「一番上は、二十八年だったかなぁ」

さっきの女性たちが、驚いてこちらを見た。

「二十八年もの!?」

「すごいじゃない!」

「昔は、ね」

「今は?」

「全部売って競馬に使ったよ~」

女性たちは、俺を見る時より明らかに冷たい目でオスカーさんを見た。

「二十八年ものを売ったの……?」

「三匹とも?」

「うん。全部負けた」

女性たちは席を移動した。

「南方人が一番やっちゃいけないことをしたんじゃないですか?」

「その時は勝てると思ったんだよ~」

この人は、セラキア帝国で最もモテるはずの年齢なのに、自分から全てを台無しにしていた。

◇

三軒目へ入った頃には、俺もかなり酔っていた。

オスカーさんは、もっと酔っている。

それでも酒を注文しようとするので、俺が止めた。

「もう明日の飯代に手をつけてるんですよね?」

「あと一杯だけ~」

「さっきも言ってましたよ」

「じゃあ、今度こそ最後の一杯」

その時だった。

「ねえ」

女の声がした。

振り向く。

すぐ後ろの席に、一人の女性が座っていた。

三十代後半くらいだろうか。

艶のある赤褐色の髪をゆるくまとめ、体の線に沿う深緑色の服を着ている。首元には、真珠の首飾りが光っていた。

目元は柔らかいが、姿勢がいい。

色気があるのに、仕事のできる人間特有の隙のなさもあった。

「あなた、すっごいイケメンね」

「え?」

「年下かわいい~♡」

女性は楽しそうに笑った。

今までの女性とは違う。

二十年後ではない。

今の俺を褒めている。

オスカーさんが、俺の肩を叩いた。

「おっ、佐藤くん。あのお姉さん、若い子が好きみたいだよ~」

「なんで分かるんです?」

「僕じゃなくて、ずっと佐藤くんを見てるから」

オスカーさんは自分の抜けた歯を見せながら笑った。

「やったね! やっぱり顔がいいと違うね!」

「そんなに珍しいんですか?」

「セラキアだと、若い男が好きな人は少ないからねぇ。行っておいでよ」

女性が、自分の隣の椅子を軽く叩いた。

「こっち来なさいよ。お姉さんが奢ってあげる」

俺はオスカーさんを見た。

「僕は大丈夫。まだ一人で飲めるから~」

大丈夫ではなさそうだった。

だが、俺は女性の隣へ移った。

「俺、拓海っていいます」

「私はオリヴィア。よろしくね、拓海君」

オリヴィアは、大きな魔法資材商会で一部門を任されているらしい。

酒も料理も、俺が値段を気にする前に注文した。

「好きなもの食べていいのよ」

「いいんですか?」

「若い子が遠慮しないの」

オリヴィアが俺の頭を撫でる。

酔っていたせいもある。

一か月間、山を歩き、腐った死体を探し、猪に噛まれ、ベルンに怒鳴られ続けた俺には、その手があまりにも優しかった。

「セグルから来たの?」

「そうなんです。借金もあって、仕事を探してて……」

「まあ。大変だったのねぇ」

「それで、森で一か月も検体を探したんですよ。重いタンクも、ほとんど俺が背負って」

途中から背負わされた理由は言わなかった。

「猪にも噛まれて」

「かわいそうに」

オリヴィアは俺の頬へ手を添えた。

「こんなに綺麗な顔なのに、苦労してるのね」

胸の奥が熱くなる。

俺は、この人に会うために異世界へ来たのかもしれない。

「亀は飼ってる?」

「一匹も」

「あら、本当に何も持ってないのね」

オリヴィアの目が、ますます優しく細められた。

「今日はお姉さんが、全部出してあげる♡」

運命だった。

絶対に運命だった。

◇

その後、俺はオリヴィアの家へ行った。

広い部屋だった。

寝室だけで、俺がセグルで借りている部屋より広い。

浴室には湯があり、酒は瓶の形からして高そうだった。

オリヴィアは俺を風呂へ入れ、柔らかい寝間着を貸し、寝る前にも食べ物を出してくれた。

「これ、お小遣い」

そう言うとオリヴィアはベッドサイドの机に銀貨を二枚置いた。

「オリヴィアさん……」

「お姉さん、でいいわよ♡」

夜は長かった。

オリヴィアは、一日中働いたあととは思えないほど元気だった。

俺が眠りかけるたびに、

「若いんだから、まだ大丈夫でしょ♡」

と笑った。

女神にもらった丈夫な体が、初めて正しいことに使われている気がした。

この人についていこう。

セグルへ帰らず、セラキア帝国で暮らすのも悪くない。

オリヴィアのおかげで、働かなくても生きていけるかもしれない。

そう考えながら、俺は眠った。

◇

翌朝。

目を覚ますと、朝食が用意されていた。

焼いたパンに卵、果物、温かい茶。

オリヴィアはすでに着替えを済ませ、書類へ目を通している。

仕事のできる大人の女だった。

俺は決心した。

「オリヴィアさん」

「なあに?」

「俺、セグルへ帰るのやめてもいいです」

オリヴィアが書類から顔を上げた。

「ここで仕事を探します。だから、俺と付き合ってください!」

「はぁ~?」

予想していた反応と違った。

「何言ってるの? 遊びじゃん」

「遊び!?」

「そうよ」

「だって、俺のことイケメンって! かわいいって! 全部奢ってくれて!」

「顔がいいから遊んだのよ」

オリヴィアは、本気で俺が何を言っているのか分からない顔をしている。

「恋人にするなら、もう少し年上がいいわ。仕事も落ち着いて、亀も何匹か育ってるような人」

「じゃあ、なんで若い俺を……」

「若い子は元気だもの」

迷いのない答えだった。

「それに、苦労してる綺麗な男の子を甘やかすの、好きなのよねぇ」

「俺、甘やかされるために選ばれたんですか!?」

「他に何があるの?」

運命ではなかった。

ただの趣味だった。

俺が黙り込むと、オリヴィアは少し考えた。

「あー、お金が足りない感じ?」

「違います!」

「顔はかわいいし、頑張ってくれたから、多めに出しとくね」

オリヴィアが財布を開き、銀貨一枚を机へ置いた。

「だから金じゃなくて!」

「いらないの?」

「……いらないとは言ってません」

傷ついた心と金は別だ。

俺は銀貨を受け取った。

オリヴィアは、机の引き出しから小さな紙を取り出した。

商会の名前と、彼女の所属、手紙の宛先が書かれている。

「困ったら手紙を送りなさい」

「え?」

「セグルからでも届くでしょ。こっちへ来ることがあったら、また遊んであげる」

「じゃあ、いつかは付き合ってくれるんですか?」

「二十年後」

また二十年後だった。

「ちゃんと働いて、亀も増やして、いい男になってたら考えてあげる♡」

オリヴィアは俺の額へ口づけた。

「今でも十分かわいいけどね」

◇

宿へ戻ると、オスカーさんが食堂で水を飲んでいた。

顔色が悪い。

「おかえり~。どうだった?」

「付き合ってもらえませんでした……」

「えぇ? でも一晩一緒だったんでしょ?」

「遊びだったんですよ。若い男を甘やかすのが趣味なんですって」

「やったね! やっぱり顔がいいと違うね!」

「どこがやったんですか!」

「セラキアで若い男を選ぶ女性なんて、かなり珍しいよ~」

俺はオリヴィアからもらった宛先を見せた。

「困ったら手紙を送れって」

「宛先までくれたの? すごく気に入られてるじゃん!」

「でも恋人じゃないんですよ!」

「お金は?」

「……銀貨三枚、もらいました」

「大成功だよ~!」

オスカーさんは本気で祝福していた。

セラキア人の感覚では、俺は勝者らしい。

「そのお金があれば、今日も競馬に行けるね」

「行きませんよ」

「半分だけ貸してくれない?」

「絶対に嫌です!」

◇

三日後。

俺は、セグル行きの馬車へ乗った。

俺の財布には、一か月分の給料と、オリヴィアからもらった三枚の銀貨が入っている。

胸元には、彼女の宛先。

窓の外では、オスカーさんが手を振っていた。

「佐藤くん、本当に貸してくれない?」

「貸しません」

「そっかぁ。じゃあ元気でね~」

「オスカーさんも。もう競馬やめた方がいいですよ!」

「それは無理かなぁ~」

即答だった。

「獣人国にも競馬場あるかなぁ」

「来ないでください!」

「遊びに行くだけだよ~!」

馬車が動き出す。

オスカーさんの姿と、セラキア帝国の城壁が、少しずつ遠ざかっていく。

この国で学んだことは多い。

亀は早めに飼った方がいい。

四十代から五十代が一番モテる。

若い男は、二十年後に期待される。

そして、運命の出会いだと思っても、金を渡されたら大体は遊びだ。

俺はオリヴィアの宛先を、そっと荷物の奥へしまった。

二十年待つつもりはない。

だが、手紙くらいなら書いてもいいかもしれない。

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