ドンドンドンドン!!
「うわっ!?」
突然、玄関がものすごい勢いで叩かれた。
さっきまで三人で笑っていた空気が、一瞬で吹き飛ぶ。
外から誰かが何か叫んでいる。
カルヴェン語だ。
当然、俺には分からない。
「なになになに!?」
田中が立ち上がった。
さっきまで笑っていた顔が、一気に険しくなる。
戸の向こうへ何か怒鳴り返した。
外から返事。
田中の顔が引きつった。
「――――!?」
何か叫ぶ。
ものすごく嫌そうな顔だ。
手に持っていた煙草を見て、それから玄関を見る。
「ニルス! 何!? 何があった!?」
「急ぎ! 人、ケガ!」
「怪我!?」
田中が煙草を乱暴に消した。
そのまま玄関へ向かう。
俺も慌てて立ち上がった。
なんだ。
頭がふわっとする。
急に立ち上がったせいか?
そんなことを考えている間に、戸が開いた。
冷たい空気と一緒に、数人の男がなだれ込んできた。
真ん中に、人がいる。
いや。
運ばれている。
「うわっ!?」
血。
上着も、腕に巻かれた布も、真っ赤だった。
男が苦しそうに叫んでいる。
「なにこれ!? 事故!? 血めっちゃ出てるじゃん!!」
田中は運んできた男たちとものすごい勢いでカルヴェン語を交わしている。
全然分からない。
一人が腕を指さす。
田中が包帯みたいに何重にも巻かれた布を見る。
また何か聞く。
相手が答える。
田中の眉間の皺が深くなった。
「ニルス! どういうこと!?」
「仕事! 港! ワイヤー、切れた! 腕、切った!」
「病院は!?」
「タックミさん!」
ニルスが俺の肩を掴んだ。
「田中先生お医者さん!!!!」
「はぁ!? 医者!? こいつ!?」
田中がこっちを睨んだ。
たぶん今のは伝わってない。
でも絶対なんか失礼なことを言われたって顔をしている。
そんなことを気にしている場合じゃなかった。
患者がまた大きく叫んだ。
体を捩る。
運んできた男たちが必死に押さえる。
田中が床を指さして何か怒鳴った。
すぐに患者が下ろされる。
「おいおいおい、本当にここでやるの!?」
田中は返事もしない。
腕の布に手をかける。
巻かれた布を一気には外さず、何か確認しながら少しずつほどいていく。
血の臭いが濃くなった。
「うっ……」
俺まで気持ち悪くなってきた。
布の下から見えた腕は、思っていたよりずっと酷かった。
上腕の内側が深く裂けている。
皮膚だけじゃない。
中の肉まで見えている。
「うわ、うわうわ……」
患者がまた暴れた。
田中が怒鳴る。
ニルスも俺を見る。
「タックミさん! そこ!! 押さえてって!」
「え!? 俺!?」
「早く!!」
「どこ!?」
「肩! 体! 動かないシテ!!」
言われるまま患者の反対側へ回り込んだ。
肩と胸のあたりを押さえ込む。
「うわっ!!」
力強っ!!
痛いから当たり前なんだろうけど、患者が本気で逃げようとする。
「無理無理無理!! めっちゃ暴れる!!」
「押さえる!!」
「押さえてるよ!!」
患者の絶叫が耳に刺さる。
田中はその横で傷口を見ていた。
布を少し外す。
血がすぐに滲んでくる。
田中が何か言うと、運んできた男の一人が腕の付け根に近いところを強く押さえた。
血の勢いが弱くなる。
田中が傷の中へ指を入れた。
「えっ!?」
触ってる。
血管みたいなものを直接触ってる。
「なんで触ってんの!?」
もちろん通じない。
田中は傷口の中を覗き込みながら、切れたものの端を指で確かめている。
患者がまた跳ねた。
「うわあああ!! 動く動く!!」
「タックミさん! 離さない!」
「離してない!!」
田中が一度、手を止めた。
傷を見る。
じっと見る。
それから。
動かなくなった。
「……え?」
田中は黙っている。
患者は叫んでいる。
俺は押さえている。
ニルスも何か田中に叫んでいる。
でも田中は返事をしない。
傷口を見たまま、完全に考え込んでいる。
「おい」
まだ動かない。
「田中?」
患者がまた体を捩った。
「うわっ!!」
必死に体重をかける。
「田中!!」
動かない。
いや。
目は傷口を見ている。
でも何もしてない。
「なんで止まった!? 早く治してやれよ!!」
当然、通じない。
「ニルス!!」
「先生、考えてる!!」
「見りゃ分かるよ!! なんで今なんだよ!!」
長い。
ものすごく長い。
何秒経った?
三十秒?
五分?
もっと?
患者はずっと叫んでいる。
俺の腕もだんだん疲れてきた。
「いつまで!?」
「ズット!!!!!!」
「ずっとって何だよ!!!!」
その時、田中が動いた。
急に。
棚の方へ手を伸ばす。
小さな箱を開けた。
「あ」
さっきニルスが渡した、あの真珠の箱だ。
中から白い粒を取り出す。
三つ。
田中はそれを手に持った。
また傷を見る。
一瞬だけ目を閉じる。
それから、傷口へ手をかざした。
何かが起きた。
最初に、裂けていた太い血管の端が形を変えた。
潰れていたところが整う。
次の瞬間、その間に赤い薄い組織が生まれた。
ほんの少し。
そして。
境目が消えた。
「…………え?」
一本になった。
本当に。
さっきまで切れていたものが、最初からそうだったみたいに繋がっている。
田中が何か言った。
腕の付け根を押さえていた男が、恐る恐る力を緩める。
血が流れる。
でも。
噴き出さない。
「……止まった?」
田中がさらに確認する。
指先で血管を触る。
しばらく見てから、大きく息を吐いた。
その瞬間、顔が露骨に嫌そうになった。
傷口を見て何か言う。
「今なんて?」
ニルスが聞いて、俺を見る。
「キモいって言ったヨ!」
「医者が言うなよ!!」
田中がこっちを睨んだ。
今度はニルスが笑う余裕すらない。
田中はまだ処置を続けている。
血は止まった。
でも腕の肉は大きく裂けたままだ。
田中は今度は紙と鉛筆を引き寄せた。
傷を見る。
紙に数字を書く。
何か式を書く。
また傷を見る。
「……急に計算し始めた」
さっき真珠を三つまとめて使った時とは全然違う。
田中はしばらく紙に数字を書き足すと、棚から細長い木片を取り出した。
表面には、細かい目盛りが刻まれている。
紙を見る。
傷を見る。
木片の目盛りを指でなぞる。
それから、小さな刃物で途中を切った。
「今度は何してんだ?」
田中は切り取った分だけを手に持ち、裂けた筋肉の一部を繋げた。
また傷を見る。
紙に式を書く。
木片を切る。
また繋げる。
一気にはやらない。
少しずつ。
俺には何をどう計算してるのか全然分からない。
でも、肉の裂け目が少しずつ元の形に戻っていく。
「なあニルス」
「ウン?」
「なんで今、そんな細かく計算して切ってんの?」
ニルスが田中に聞く。
田中が短く答えた。
ニルスがこっちを見る。
「さっき、死ぬ。急ぐ。真珠、足りない、ダメ」
「うん」
「今、死なない。時間ある。これ、安い」
ニルスが目盛りのついた木片を指さす。
「使う魔法の物、お金、患者払う。だから先生、必要だけ使う」
「……あ」
そういうことか。
「あぁ……そっか。そりゃそうか」
別に無限に使えるわけじゃない。
使った物には値段がある。
さっきは死にそうだったから、細かい計算をしている時間がなく、確実に足りるように買ってきたばかりの真珠を三つ使った。
規格外でも、一個五万タサルくらいするって言ってたやつだ。
今は急がないから、安い資源を必要な量だけ計算して切っている。
田中は相変わらず嫌そうな顔で傷を処置していた。
でも手は止まらない。
筋肉。
その上。
さらにその上。
必要なところを確認して、そのたびに計算して、木片を切って、繋げていく。
患者の叫び声も、少しずつ弱くなってきた。
俺はまだ押さえている。
「……なあ」
ニルスを見る。
「もういいんじゃない?」
「まだ!」
「まだ!?」
田中が最後に傷口を確認した。
何か言う。
ニルスが頷く。
運んできた男たちも頷いた。
患者はぐったりしている。
腕の傷は、最初に見た時とは比べものにならないくらい閉じていた。
でも顔色は悪い。
田中が患者の顔を見て、また何か指示する。
「何て?」
「病院、行く」
「え? 治ったんじゃないの?」
「血、いっぱい無くなった。腕、治した。でも体、まだダメ」
「ああ……」
そりゃそうか。
流れ出た血まで戻ったわけじゃない。
運んできた男たちが患者を持ち上げる準備を始めた。
田中がこっちを見て何か言った。
俺も見る。
「なに?」
田中がもう一度言う。
分からない。
「ニルス?」
「あ」
ニルスが俺の腕を叩いた。
「タックミさん、もう離していいヨ!」
「早く言えよ!!!!」
慌てて患者から手を離した。
腕が痛い。
ずっと力を入れていたせいで、肩までだるい。
運んできた男たちが、ぐったりした患者をもう一度担ぎ上げる。
その前に、一人が田中へ何か言った。
深く頭を下げる。
別の男も続く。
患者まで青い顔のまま、田中を見て何か言った。
「……なんて?」
「みんな、先生、ありがとうって」
「ああ……」
そりゃそうだよな。
さっきまであれだけ血が出ていた腕を、ここまで治したんだから。
田中は感謝されても全然嬉しそうじゃなかった。
むしろ、まだ機嫌が悪そうだ。
何かを思い出したみたいに顔をしかめると、帰ろうとしていた男たちを呼び止めた。
それからカルヴェン語で、かなり強い口調で何か言い始める。
一度じゃない。
指を立てて、何かを念押しする。
さらに両手を広げて、また何か言う。
「……なんだ?」
術後の注意か?
ちゃんと病院へ行けとか、安静にしろとか。
そんな感じだろうか。
言われた男たちは一瞬だけ目を丸くした。
でもすぐ、何度も頷いた。
一人なんか笑いながら胸を叩いている。
「ニルス、あれ何て?」
「ウン。もちろん、もちろん、って」
「ふーん……」
田中はそれでも足りないみたいに、もう一度何か強く言った。
男たちはまた揃って頷く。
それから今度こそ、患者を連れて出ていった。
玄関が閉まる。
急に静かになった。
床には血の跡が残っている。
甘い煙の匂いより、今は血の臭いの方が強い。
田中は疲れた顔で眼鏡を押し上げた。
俺はその顔を見る。
さっきまで一緒に中学生みたいな英語で笑ってた奴だ。
東大だったって聞いて驚いた。
大魔術師だって聞いてはいた。
でも。
今のは。
「……なあ」
田中が俺を見る。
「お前、医者だったの?」
「……?」
あ。
そっか。
日本語じゃ通じないんだった。
「えっと……」
さっき使った英語を思い出す。
「……アー、ユー、ドクター?」
田中の顔が、一瞬で歪んだ。
「NO!!!!」
そこだけは、ものすごくよく分かった。
そして、そのまま田中がものすごい勢いで喋り始めた。
「I’m not a doctor! I don’t do this because I want to! It’s disgusting, it smells, there’s blood everywhere, and I hate having to touch people when they’re torn open! But if somebody dies right in front of me, I’ll remember it exactly for the rest of my life! I’d rather do this than carry that memory forever!」
「…………」
長い。
また長い。
しかもめちゃくちゃ怒ってる。
NO以外、ほとんど分からない。
とりあえず医者ではないらしい。
「お……おう……」
田中はまだ何か言いたそうな顔をしている。
俺は少し考えて、知っている英語を絞り出した。
「……アイム ソーリー……」
