翌朝、俺は人間専門接触店《月白館》へ向かった。
白い石造りの建物には、宿屋とも診療所ともつかない清潔な玄関があった。中へ入ると、灰色の猫耳を持つ女が受付に座っている。
彼女の首にも、細い革の首輪が巻かれていた。俺のものより柔らかそうな革で、金具には細かな装飾が施されている。中央には、俺の首輪と同じ紋章が刻まれていた。
ああ、なるほど。社員証みたいなものか。
俺の首輪が安っぽいのは、短期契約の人間用だからだろう。人間だけに首輪をつけて喜ぶ変な会社ではなかったらしい。
「佐藤様ですね。ヴァルグレン様から契約書をお預かりしていますにゃ」
受付の女は俺の署名を確認すると、施術用の白い服と部屋の鍵を渡した。
「お客様が嫌がる行為はなさらないでくださいにゃ。佐藤様も、途中で嫌になったことがあれば、いつでも中止できますにゃ。何かあれば壁の呼び鈴を押してくださいにゃ」
「分かりました」
ずいぶん丁寧なマッサージ店だ。
案内された個室には、大きな寝台と低い卓、身体を洗うためらしい小部屋まで付いていた。騙されて泊まった宿よりはるかに豪華だ。
こんな部屋で猫耳美少女を揉んで、ひと月もせず借金を完済できる。
やはり異世界転生はこうでなくてはならない。
しばらくして、扉が勢いよく開いた。
「あの時の人間さんにゃ~!」
入ってきた大男が、両腕を広げて俺へ突進してきた。
「うわっ!」
そのまま抱き締められる。
淡い金色の髪から垂れた大きな犬耳。背は俺より頭一つ高く、厚い胸板の後ろでは太い尾が音を立てそうな勢いで左右へ振られている。
昨日、街へ入った時にこちらを見ていた犬の男だった。
「月白館に新しい人間さんが入るって聞いて、絶対あの人だと思ったにゃ♡ すぐ予約したにゃ~。また会えたのは運命にゃ♡」
「そ、そうですか」
獣人も外国人のようなものだ。外国人は挨拶でよく抱き合うと、テレビで見たことがある。
たぶん普通なのだろう。
「人間さん、お名前を教えてほしいにゃ♡」
「佐藤拓海です」
「サトウタクミさん?」
「佐藤が名字で、拓海が名前」
「じゃあ、タクミさんにゃ♡ 僕はルカにゃ。よろしくにゃ~♡」
ルカはようやく腕を解いたが、尾はまだ激しく揺れていた。
最初の客が男だったのは残念だ。しかし予約はすでに入っていたのだから仕方がない。こいつを終えれば、次は猫耳美少女かもしれない。
◇
「肩、かなり硬いですね」
「大きな患者さんを動かすことが多いにゃ。昨日も夜勤だったにゃ~」
「看護師さんなんですか?」
「そうにゃ♡ 今日はお給料も入ったから、人間さんにいっぱい癒やしてもらうにゃ♡」
上着を脱いで寝台へうつ伏せになったルカの背中は、見た目どおり広かった。
俺は両手に体重を乗せ、肩から背中へ順番に揉んでいく。前の会社で上司にやらされていた時より力が必要だったが、丈夫にしてもらった身体なら問題ない。
「そこにゃ~♡ タクミさん、上手にゃ♡」
大きな尾が寝台を何度も叩く。
客から面と向かって褒められるのは、思った以上に気分がよかった。
三十分ほど揉むと、ルカは満足そうに身体を起こした。
「タクミさん、お仕事は今日が初めてにゃ?」
「そうですけど」
「やっぱり緊張してるにゃ~。僕ばっかり気持ちよくしてもらったから、今度はお返しするにゃ♡」
「お客さんにやってもらっていいんですか?」
「もちろんにゃ♡」
断る理由もない。
俺が寝台へ座ると、ルカは後ろから肩へ大きな手を置いた。
指が首筋から肩へゆっくり沈む。
ただ揉まれているだけなのに、触れられた場所から温かさが染み込み、身体の奥に溜まっていた疲れまで溶けていくようだった。
「看護師って、マッサージも習うんですか?」
「身体の扱い方は慣れてるにゃ。力を抜いていいにゃ~♡」
言われるまま目を閉じる。
女神に丈夫にしてもらってから身体の不調など感じていなかったが、それでも気持ちのいいものは気持ちがいい。
「気持ちいいにゃ?」
「……気持ちいいです」
「よかったにゃ♡ じゃあ、もっと気持ちいいことするにゃ♡」
肩から手が離れた。
身体を起こすと、正面へ回ったルカに再び抱き締められる。
大きな身体に包まれ、背中をゆっくり撫でられた。
この国の獣人は本当に抱きつくのが好きらしい。
「タクミさん、いい匂いするにゃ♡」
ルカの鼻先が頬へ触れる。
そのまま顔が近づいてきた。
「……ちょっと待ってください」
「どうしたにゃ?」
「なんで、そんなに顔を近づけてるんですか?」
「キスするからにゃ♡」
「なんで!?」
「この後えっちするからにゃ♡」
「しないですよ!?」
「なんでにゃ!?」
俺はルカの胸を押し、寝台の端まで逃げた。
ルカも追ってはこなかった。ただ、大きな犬耳と尾が一緒に垂れ下がった。
「僕のこと、嫌いだったにゃ……?」
「嫌いとかじゃなくて、男とはしません!」
「同性はみんな駄目にゃ?」
「当たり前だろ!」
「したことあるにゃ?」
「ないけど、しなくても分かる!」
「食べたことない料理を嫌いって言ってるみたいにゃ……」
「性行為を食わず嫌い扱いするな!」
俺の声が廊下まで響いたらしい。
扉が叩かれ、先ほどの受付係が入ってきた。
「失礼しますにゃ。問題が――ルカさん?」
彼女の猫耳が驚いたように立った。
「ルカさんと従業員が揉めていると聞いたのですが、どういうことですかにゃ?」
「タクミさんに嫌だって言われたにゃ……」
ルカは見るからにしょげている。
受付係は一瞬だけ俺へ疑わしそうな視線を向けたが、すぐ仕事の顔へ戻った。
「接触はここで中止しますにゃ。お二人とも、少し離れてお話しくださいにゃ」
「俺はマッサージの仕事だと聞いてたんです! なのに急にキスして、その後えっちするとか言い出して!」
「急ではないにゃ。タクミさん、気持ちいいって言ったにゃ」
「マッサージの話だよ!」
受付係は部屋に置かれた書類入れから、俺の契約書を取り出した。
「佐藤様の契約は、性別および種族の制限なし。口腔、性器を含む包括接触が可能となっていますにゃ」
「それは……あっ…!」
接触範囲は項目が多すぎて読むのが面倒で、一番上に書いてあった『包括接触可』へチェックを入れた覚えがある。
受付係の尾が一度だけ苛立たしげに揺れた。
「読み上げによる説明も辞退されていますにゃ」
そこまで記録されているのか。
「ですが、契約時に可能としていても、現在嫌なのであれば行う必要はありませんにゃ。今回はここで終了しますにゃ」
「僕、無理矢理しないにゃ」
ルカは慌てて言い、俺からさらに一歩離れた。
「マッサージは気持ちよかったにゃ。そこまでのお金はちゃんと払ってあげてほしいにゃ」
「もちろん規定どおり精算しますにゃ」
どうやら、本当に俺以外は誰も悪くないらしい。
「タクミさん、僕が嫌いなわけじゃないにゃ?」
「男が駄目なだけです」
「じゃあ、お友達にはなれるにゃ?」
「まあ、それくらいなら」
垂れていた尾が、すぐに持ち上がった。
「お友達から好きになることもあるにゃ♡」
「期待するな!」
◇
初仕事の報酬は、目を疑うほど少なかった。
実際に行った按摩分から、施術着の貸与料、衛生用品代、初回登録費を引くと、ほとんど残らない。
「接触を拒否したことによる減額はありませんにゃ。実施されなかった分の報酬が発生しないだけですにゃ」
受付係にそう説明され、俺はわずかな金を握ってヴァルグレン契約代行社へ戻った。
応接室では、すでに報告を受けたヴァルグレンが待っていた。
「契約書は読めるから説明不要だと、人間さんはおっしゃいましたにゃ」
「あんなもの、普通はマッサージの契約だと思うだろ!」
「僕は『マッサージも含まれる』と申し上げましたにゃ。『マッサージだけ』とは一度も言っておりませんにゃ」
「それに、普通の方は仕事内容についてもう少し質問しますにゃ」
何も言い返せない。
「とにかく、男相手は無理だ。女だけにしてくれ」
「契約の変更は可能ですにゃ。女性限定でも予約は埋まりますにゃ~♡」
「じゃあ、それでいいじゃないか」
「ただし、包括接触は一日二件までですにゃ」
「二件だけ?」
「人間さんは、一日に何回射精するおつもりですかにゃ?」
「若いし、三回か四回くらいなら……」
「一日だけの最高記録を聞いているのではありませんにゃ。週六日、予約された時刻に、初対面の相手と、毎回確実にできますかにゃ?」
「……無理かも」
「無理ですにゃ」
ヴァルグレンは女性限定に変更した場合の返済表を、卓の上へ置いた。
性交を含まない接触なら件数を増やせるが、その分単価が下がる。住居費と利息の返済を引けば、毎月元金へ回せる額はわずかだった。
「全然返せてないじゃないか!」
「ですから、性別を限定しない包括接触契約をお勧めしましたにゃ♡」
猫耳美少女を相手に楽しく働き、ひと月で借金を返す計画は、初日で消滅した。
「もっと別の仕事はないのか?」
「ございますにゃ」
「身体が丈夫なら誰でもできて、件数をこなすほど稼げて、性行為が絶対にない仕事!」
「汚れたり、臭かったり、危険だったりしてもよろしいですかにゃ?」
「歯を全部抜かれるよりましだ!」
ヴァルグレンは少し考え、求人票の束から一枚を抜き出した。
「わあ、人間さんは運がいいですにゃ♡」
「今度こそ本当だろうな?」
「竜都市サイルのゴロゴロドラゴンくんが、今年はとても快便ですにゃ♡」
「……何の話だ?」
「糞便洗浄員の求人が、大量に出ていますにゃ~♡」
