第7話 短期・高給・同性とのえっちなし・糞なし!

金は、何もしなくても減る。

異世界へ来てから学んだことの中では、かなり上位に入る真理だった。

女神から貰った『中学校 魔法学――魔法のしくみと利用』を机代わりにして、残った紙幣を一枚ずつ並べる。

家賃は払った。

飯も食った。

夜市では、異世界でしか買えない珍しい物をいくつか買った。どれも今は部屋の隅に置いてある。

酒も飲んだ。

これはダグがいなくなった寂しさを紛らわせるためではない。新しい環境に適応するための、精神衛生上必要な出費だ。

その結果、金が減った。

「……働くか」

口に出すと、ものすごく嫌な決意に聞こえた。

しかし、このままでは次の家賃どころか、借金の返済分まで危うくなる。

俺は紙幣を財布へ戻し、その下に敷いていた教科書を閉じた。

勉強はした。

第五章の竜と鳳のところは、ほとんど読んだ。

途中にあった細かい注意書きは飛ばしたが、ああいうものは実際に必要になってから読んだ方が身につく。

効率的な学習というやつだ。

◇

「仕事をくれ」

ヴァルグレンの事務所へ入るなり、俺は言った。

机の向こうでは、ヴァルが暇そうに爪をヤスリでしゃりしゃり削っていた。机の上に書類は一枚もない。どうやら本当に暇らしい。

ヴァルは形のいい指先からゆっくり顔を上げたが、ヤスリを動かす手は止めなかった。

「挨拶より先にそれを言うってことは、もうお金なくなったんですにゃ?」

「まだある」

「じゃあ、なくなりそうなんですにゃ?」

「そうとも言う」

暇だから爪を整えているだけなのに、なんでこいつがやると優雅な午後の過ごし方みたいになるんだ。むかつく!

俺は爪切りしか使ったことないのに!生まれてきたときからイケメンなやつは行動まで違うのかよ!クソ!

ヴァルはようやくヤスリを置き、愛想のいい笑顔を浮かべた。

「希望はありますかにゃ?」

「短期、高給」

「いつも人気の条件ですにゃ」

「同性とのえっちなし」

「普通は求人条件に入れなくても大丈夫ですにゃ」

「前は大丈夫じゃなかっただろ!」

「ルカさんは正規の料金を払って接触士を予約しただけですにゃ。佐藤さんに何も悪いことしてないですにゃ」

「俺の心には深い傷が残った」

「ルカさんの方が傷ついてると思いますにゃ」

でかい犬男の顔が脳裏に浮かんだ。

あいつは最後まで困ったような顔をしていた。だが、今はどちらが被害者だったかを議論している場合ではない。

「あと、糞なし」

「それも普通は指定しない条件ですにゃ」

「重要なんだよ!」

「竜糞を洗ったのも一回だけですにゃ」

「一回で十分だ!」

ヴァルは少し考えてから、机の横にある棚へ手を伸ばした。

何冊かの綴じ書類を抜き、題名を確かめていく。

「短期、高給、同性とのえっちなし、糞なし……」

「できれば簡単で、危なくなくて、楽しい仕事」

「条件を増やさないでくださいにゃ」

ヴァルが一冊の書類を机へ置いた。

表紙には、『セラキア帝国立魔法生態研究所 野外採取補助員募集』と書かれている。

「これなら全部満たしてますにゃ」

「野外採取?」

「魔法性原生生物の生体試料を集める仕事ですにゃ。研究員の指示に従って、器具や採取した試料を運ぶ補助員ですにゃ」

「原生生物って、あれだろ。ものすごく小さいやつ」

「種類によりますけど、だいたいはそうですにゃ」

竜よりは小さい。

間違いなく小さい。

「簡単そうだな」

「その結論になるの、早くないですかにゃ?」

「俺、魔法生物については勉強したから」

「いつの間に?」

「女神から教科書を貰った」

鞄から『中学校 魔法学』を取り出し、表紙を見せた。

ヴァルは教科書と俺の顔を見比べた。

「あー……はは、女神……。それで全部読んだんですかにゃ?」

「必要なところは」

「何章まで?」

「第五章」

「最初から第五章まで?」

「第五章を」

「……まあ、補助員なら専門知識までは求められませんにゃ」

ヴァルはそれ以上追及せず、募集要項を俺の前へ滑らせた。

勤務地は、セラキア帝国とセグルの間に広がる森林地帯。

竜圏外縁部。

その文字を見た瞬間、俺は身を乗り出した。

「竜がいるのか?」

「生息圏には入ってますけど、しょっちゅう現れる場所ではないですにゃ。確認された場合は調査中止ですにゃ」

「会える可能性はあるんだな?」

「会わないための監視員が同行しますにゃ」

竜なら、すでに見たことがある。

サイルのゴロゴロドラゴンくん。

翼も角もあり、寝返り一つで大地を揺らす、本物の超大型竜だった。初めて見た時は、確かに感動した。

ただし、安眠期に入っているので、俺が見たのは寝ているところと寝返りだけだ。

それに太かった。

ものすごく太かった。

今となっては、あの雄大な姿を思い出そうとしても、三日間洗い続けた糞の臭いまで一緒に蘇ってくる。

子供向けの冊子によれば、若いゴロゴロドラゴンは空を飛んで世界中を旅するらしい。教科書には、種ごとに異なる魔法を使う竜も載っていた。

今度は、空を飛んだり魔法を使ったりする、もっと格好いい竜を見てみたい。

できれば、でぶでぶしていないやつを。

そんな俺の顔を見て、ヴァルが念を押した。

「竜を探す仕事じゃないですにゃ」

「分かってる」

「会ったら逃げるんですにゃ」

「分かってるって」

募集要項をめくる。

契約期間は、規定数の生体試料を確保するまで。最長三か月。

「三か月!?」

「過去の調査では、だいたい一か月前後で終わってますにゃ」

「じゃあ一か月だな」

「最長三か月って書いてありますにゃ」

「でも普通は一か月なんだろ?」

「過去の平均はそうですにゃ」

「なら一か月だ」

都合の悪い可能性まで考えていたら、何もできない。

報酬は日当制で、森林内での作業日には危険手当がつく。交通費、宿泊費、予防接種費、調査中の食費は研究所持ち。

提示された額は、命懸けの大冒険を想像すれば少ない。

だが、無資格の俺が一か月働いて受け取る金としては悪くなかった。

仕事中に生活費がほとんどかからないことまで含めれば、帰ってきた翌月の家賃と食費を確保し、借金を返しても、まだ少し遊べる。

「やる」

「まだ二ページ目ですにゃ」

「大事なところは読んだ」

「今度こそちゃんと全部読んでくださいにゃ」

どこかで聞いた台詞だった。

書類には、森林内での野営、泥濘地での作業、動物遺体への接近、生体試料の運搬、感染症、竜出現時の契約中断などについて細かく書かれていた。

動物の死骸を扱う可能性はあるらしい。

糞ではない。

条件には反していない。

「性的接触は?」

「ありませんにゃ」

「同性と二人きりで寝るとか」

「野営班の構成までは選べませんけど、就寝場所は個別ですにゃ」

「本当に?」

「そもそも公的研究所の野外調査ですにゃ。どうして業務中にえっちすると思ってるんですかにゃ?」

「用心だよ、用心」

「糞の採取も業務に含まれてませんにゃ」

「よし」

俺は最後のページへ署名した。

ヴァルは契約書を受け取ると、署名欄を確認し、控えを一部こちらへ返した。

「出発は三日後ですにゃ。セラキア帝国の研究所までの馬車は、向こうが手配してくれますにゃ」

「仕事が終わったら、ここへ戻ってくればいいんだよな?」

「部屋の契約は残ってますから、好きにすればいいですにゃ」

「帰ってきたら、もっといい仕事を頼む」

「その台詞、毎回言ってますにゃ」

◇

数日後、俺はセラキア帝国の城壁都市にいた。

研究所は、城壁の内側にある。

石造りの大きな建物で、外から見た限りでは役所か学校のようだった。魔法生物を研究している施設なら、檻や巨大な水槽くらいあると思っていたが、それらしいものは見当たらない。

受付で名前を告げると、最初に診療棟へ回された。

身体測定、採血、視力、聴力、関節の動き。

丈夫にしてもらった身体は、こういう時には便利だった。

「健康状態に問題はありません」

診察を担当した医師が、問診票へ印をつけていく。

「常用薬なし。既往症なし。手術歴なし。次に予防接種ですが、接種証明書を」

「持ってません」

「紛失しましたか?」

「いや、貰ったことないです」

医師のペンが止まった。

「予防接種を受けたことがない?」

「前の世界ではあると思いますけど、こっちへ来てからはないですね」

「前の……?」

「ああ、前にいた国」

危ない。

危うく異世界転生者だと口走るところだった。

医師は少しの間、俺を見ていた。

「魔法破傷風の接種歴は?」

「ないです」

「一度も?」

「たぶん」

医師が問診票へ視線を戻す。

それから、確認するようにもう一度俺の顔を見た。

奥で器具を片づけていた看護師まで、手を止めてこちらを見ている。

「野外採取班の補助員ですよね?」

「そうですけど」

「……四種とも接種歴なし、と」

医師は問診票の端へ、大きな赤い印を押した。

「接種後十日間は森林への入域禁止です。その間に事前講習を受けてもらいます」

「今日すぐ仕事じゃないんですか?」

「未接種の人を森へ入れられるわけがないでしょう」

怒られた。

なぜ怒られたのかは、よく分からない。

案内された処置室で、看護師が注射器を用意した。

「四種混合です」

「四本打つの?」

「一本です」

「痛い?」

「多少は」

多少ではなかった。

「いっっっ……!」

「動かないでください」

「こんなに奥まで刺す必要ある!?」

「あります」

注射が終わると、別室の椅子でしばらく待たされた。

周りにいる人間は、誰も騒いでいない。

俺だけが腕を押さえていた。

◇

翌日から、事前講習が始まった。

最初に渡されたのは、紙の束だった。

『竜圏外縁部における野外行動規則』

『魔法性原生生物の生体採取補助手順』

『魔法性細菌感染予防要領』

『感染性動物遺体の識別と取扱い』

『緊急撤退信号一覧』

『野外装備及び研究機材管理規則』

『予防接種後の注意事項』

小冊子、と呼ぶにはどれも厚い。

全部重ねると、女神から貰った教科書より分厚くなった。

「講習期間中に目を通してください」

担当者は簡単に言った。

「これ、全部?」

「全部です」

「補助員なのに?」

「補助員も同じ森へ入りますから」

もっともらしい。

だが、同じ内容が何度も書いてあるに違いない。危険を見つけたら近づくな、勝手に触るな、指示に従え。だいたいそんなところだろう。

俺はまず、『竜圏外縁部における野外行動規則』を開いた。

竜の足跡や爪痕の図が載っている。

面白い。

その次には、竜の糞を発見した場合の行動が書いてあったので飛ばした。

もう糞はいい。

講習は、朝から夕方まで続いた。

「魔法性細菌の中でも神経駆動型と呼ばれる系統は、感染した動物の神経系へ――」

講師の声が遠くなる。

昨日打った注射のせいか、朝から身体が重かった。

食事と寝床まで用意されている安心感もよくない。

「――死亡後は生体ロックの解除によって――」

少しくらい目を閉じても、声は聞こえる。

俺は寝ているわけではない。

耳から学習しているだけだ。

「――以上が、現場で死後運動を確認した場合の基本的な――」

「それでは昼休憩にします」

目を開けると、周囲の人間が席を立ち始めていた。

重要なところは、あとで冊子を読めばいい。

午後は魔法性原生生物についての講義だった。

「原生生物による死後運動は、細菌性のものとは異なり、頭部を破壊しても停止しません」

死後運動。

なんとも物騒な専門用語だ。

研究者というものは、滅多に起きない最悪の事態を大げさに説明するのが仕事なのだろう。

俺がやるのは、器具と小さな生物を運ぶだけだ。

専門家が同行するのだから、難しい判断はそちらに任せればいい。

「ここは大事ですから、必ず覚えてください」

俺は真面目な顔で頷いた。

◇

十日間の講習は長かった。

長かったが、覚えたこともある。

笛が短く三回鳴ったら集合。

長く一回なら作業中止。

竜を見つけても近づかない。

知らないものには触らない。

研究員の指示を聞く。

これだけ分かっていれば、補助員としては十分だろう。

最終日の夕方、担当者から森林への入域許可証を渡された。

「明朝、日の出前に東門へ集合してください。そこから森林地帯まで移動します」

「研究所から直接じゃないんですか?」

「ここは城壁都市の中ですよ」

「森の近くに研究所があるのかと思ってた」

担当者は、理解できないものを見るような顔をした。

「竜圏の近くに常設研究所を?」

「……ないな」

「ありません。現地には一時休憩用の小屋があるだけです。食料、薬品、寝具を含む必要物資は、すべて各自で携行してください」

「それ、講習で聞いたっけ?」

「初日に説明しました」

初日。

注射の翌日だ。

仕方がない。

あの日は体調が悪かった。

宿舎へ戻り、貰った冊子を鞄へ詰める。

ほとんど開いていないものもあったが、現地で必要になれば読めばいい。分からないことは研究員へ聞けばいいし、俺の仕事は指示された物を運ぶことだ。

短期。

高給。

同性とのえっちなし。

糞なし。

今度こそ、条件どおりの仕事だった。

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