翌朝。
「タックミさん朝ヨ〜」
声がする。
目を開けると、ニルスがもう着替えていた。
窓の外も明るい。
昨日は田中の家から帰ったあと、少し飲んで、そのまま早めに寝た。
前の日みたいな疲れもない。
「……おはよ」
「オハヨ!」
起き上がって顔を擦る。
ニルスが上着を着ながら聞いてきた。
「なんか食い行くカ?」
「飯?」
腹は減っている。
昨日の夜から何も食ってない。
何がいいかな、と考えて。
「あ!」
思い出した。
「そうだ! イカ食いたい!」
「イカ?」
「うん! 生のやつ!」
初めてこの国に来た時に食った、あのイカ。
半透明で、こりこりして、甘かった。
思い出したら急に食いたくなった。
ニルスが笑う。
「オー、イイね! 近くの定食行くカ!」
「行く!」
◇
ニルスに連れて行かれたのは、家からそれほど離れていない店だった。
大きくはない。
でも朝から人が入っている。
作業着みたいな服の人。
年寄り。
家族らしい客。
観光客向けというより、完全に近所の飯屋だ。
店に入ると、魚の匂いがした。
嫌な匂いじゃない。
焼いた魚と、汁物の匂い。
腹が鳴る。
ニルスが店の人と何か話す。
俺の方も指さした。
「イカ、あるって!」
「やった!」
席に座って待つ。
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
白い飯。
魚の汁。
それから、何種類かの刺身が一緒に乗った皿。
白身。
銀色の皮がついた魚。
赤っぽい身。
そして。
「イカ!」
薄く切られた半透明のイカが並んでいる。
小皿には、前にも食べた醤油に似たタレ。
少し柑橘の匂いがする。
「これこれ!」
イカをつけて食べる。
こりっ、とする。
甘い。
「うまっ!」
「朝、魚いいネ!」
「この国、魚だけは本当に強いな」
「だけ?」
「あ、いや」
「ジョーダン!」
ニルスが笑った。
刺身も食う。
飯も食う。
汁もうまい。
しばらく夢中で食べていた。
それから。
ふと、ニルスの方を見る。
昨日も泊めてもらった。
その前の晩も飯を食わせてもらった。
買い物も、酒も。
なんだかんだ、こっちへ来てからニルスにかなり世話になっている。
「……なあ」
「ウン?」
「そういえばさ」
箸を止める。
「ずっとニルスに飯出してもらってるじゃん」
「イイヨ!問題ナイヨ!」
即答だった。
「いや、いいって言われても、さすがにちょっと悪いって」
ニルスは気にしてない顔をしている。
俺は財布を思い出した。
カルヴェンの金は持っていない。
今あるのはセグルの紙幣だけだ。
「今日の飯代くらい俺出そうか? 俺、今セグルの金しかないけど……」
「セグルのお金?」
「うん。これ、セグルの金だといくらくらい?」
俺たちの前にある料理を指さす。
ニルスが皿を見る。
少し考える。
「ん〜〜〜……」
指を折るみたいにしながら、もう一度料理を見る。
「このお刺身定食なら、セグルのお金だと〜〜〜……五百タサルくらいカナ〜?」
「…………」
「?」
「五百タサル?」
「ウン。だいたいネ!」
「…………五百タサル」
何かが引っかかった。
五百。
刺身。
イカ。
魚の汁。
飯。
俺は箸を置いた。
「…………」
頭の中に、前に来た時の光景が浮かぶ。
港の近く。
布を張っただけの屋台。
古い木の台。
年配の店主。
俺はセグルの千タサル札を一枚出した。
『これ、使える?』
店主は札を見て。
それから。
俺の手元に残っていた、もう一枚を指した。
『ソレ、二まい。ゼンブならオッケ』
「…………」
二千タサル。
あの時出てきたのは。
白い飯。
焼き魚。
魚の頭と骨の汁。
それから、生のイカ。
俺は確か。
『これで二千タサルなら、観光地の割に妥当じゃん!』
とか思って。
満足して帰った。
「…………ニルス」
「ウン?」
「この国って、都市部だけめちゃくちゃ高いとかある?」
「ナイヨ?」
即答。
「……だよな」
「どうした?」
「俺さ」
嫌な予感しかしない。
「初めてこの国来た時、港の屋台で朝飯食ったんだよ」
「ウン」
「イカの刺身と、焼き魚と、魚の汁と、飯」
ニルスが頷く。
「オー。普通の朝ご飯ネ」
「二千タサル取られた」
「…………」
ニルスが止まった。
俺も止まる。
「セグルの金で」
「ニセン?」
「うん」
ニルスが少し考える。
俺の顔を見る。
「……高いヨ!」
「やっぱり!!!!」
店の中で声が響いた。
何人かがこっちを見る。
知るか。
「四倍くらいじゃん!!」
「たぶん、そのくらいネ〜」
「クソが!!!!」
思い出した。
あのジジイ。
俺の財布を見て、残ってる札まで確認して。
『ゼンブならオッケ』とか言ってた。
全部ならオッケじゃねえよ。
全部欲しかっただけじゃねえか。
「俺、めちゃくちゃ納得して払ったんだけど……」
「美味しかった?」
「めちゃくちゃ美味かった」
「じゃ、イイネ!」
「よくねえよ!!」
◇
店を出ても、まだ腹が立っていた。
「四倍……」
「タックミさん、まだ言ってるネ〜」
「言うだろ普通!」
朝飯一回で千五百タサル損した。
千五百タサル。
セグルなら普通に屋台で二回飯が食える。
しかも俺は、うまいうまいって喜んでいた。
思い出すたびに腹が立つ。
「もういい。忘れる」
「忘れる?」
「忘れたい!」
ニルスが笑った。
「じゃあ、なんか見るカ?」
「見る」
今日は仕事もない。
田中の家へ行く予定もない。
帰るまで、カルヴェンをぶらつくくらいしかやることがない。
「この辺、なんかある?」
ニルスが少し考えた。
「あー……鳳、見る?」
「鳥?」
「ウン。店あるヨ!」
「鳥の店?」
「仕事する鳳、いっぱいネ!」
仕事する鳥。
その言い方だけでちょっと気になる。
「行く」
「行こ!」
◇
ニルスについて通りを歩く。
朝の街はもうかなり動いていた。
魚籠を積んだ荷車。
貝殻の入った箱。
木箱を抱えた人。
店先で帳面を見ながら何か確認している商人。
セグルの商店街より、なんとなく数字と紙が多い気がする。
何を売るにも、何か書いてある札がくっついている。
「この国、みんな細かいよな」
「細かい?」
「値段とか、記録とか」
ニルスが頷く。
「真珠、間違えると大変ヨ!」
「まあ、あれ一個で何万スケルとかするもんな……」
昨日、一昨日と真珠を見すぎて感覚が麻痺している。
少し歩くと、通りの向こうから大声が聞こえた。
男が二人、荷車の前で言い合っている。
荷車には竹で編んだ籠が山ほど積まれていた。
片方が束を指さす。
もう片方は帳面を指さす。
何度も数え直している。
「何してんの?」
ニルスが見る。
「あー。数、違うってケンカしてるネ」
「こんだけあるのに全部数えるの?」
「数えるヨ?」
当然みたいに言われた。
「……几帳面だなあ」
何となくこの国が分かってきた。
その横を通り過ぎる。
しばらくすると、ニルスが一軒の店を指さした。
「ここネ!」
看板には鳥の絵が描いてある。
鳥というか、オウムみたいなやつ。
羽を広げて、その横に丸い粒みたいな絵まである。
「真珠?」
「ウン!」
扉を開けた。
「暑っ!」
思わず声が出た。
外は冬で、吐く息が白くなるくらい寒い。
なのに店の中だけ妙に暖かい。
むしろ暑い。
厚い上着を着たままだとすぐ汗をかきそうだ。
窓も大きい。
天井近くには何本も止まり木が渡してある。
壁際には籠。
奥にはもっと広い部屋があるらしく、鳥の声が何種類も聞こえてくる。
「なんでこんな暑いの?」
「鳳、寒いの苦手ヨ!」
「この国の鳥じゃないの?」
「南の方から来るヨ!」
なるほど。
店の中を見る。
色が派手なやつ。
灰色っぽいやつ。
嘴がでかいやつ。
小さいのもいる。
ただ、普通のペットショップっぽくはない。
籠の横に札がついている。
数字。
何かの記録。
人の名前みたいなもの。
訓練用らしい小さな箱や、色の違う札まで置いてある。
「これ、売ってるの?」
「売るのもある。仕事教えるのもあるヨ!」
「仕事って?」
「喋るヨ!」
ニルスが近くの灰色の鳳を指さした。
ヨウムっぽい。
赤い尾羽。
目だけ妙に賢そうだ。
「あ、タックミさん! この鳳、南方で訓練されてきた子ネ!」
「南方で?」
「ウン! 南方の言葉、少し喋るヨ!」
「へえ。じゃあ俺にも分かるのか」
「この鳳、古いの分かるヨ!」
「古い?」
「真珠。どっち年寄り、分かる」
「え、見ただけで?」
「ウン!」
そう言って、ニルスは嘴の横を指で示した。
「鳳、時間見るヨ」
「時間?」
言い方はざっくりしてるけど。
多分、魔法資源としてどれくらい時間が溜まってるか分かるってことだ。
俺は昨日の養殖場を思い出した。
規格外真珠。
年数が推定になってるやつ。
田中用に百個買ったやつ。
「あー……」
ようやく繋がった。
「だから真珠の国で鳥飼ってんのか」
「そうヨ!」
ニルスが嬉しそうに頷く。
店の奥から店員らしい女の人が来た。
ニルスが何か話す。
俺を指さす。
女の人が笑った。
それから、小さな皿を持ってきた。
皿の上には、真珠が三粒。
どれも同じくらいの大きさに見える。
女の人が灰色の鳳の前に置く。
鳥が首を傾けた。
一粒を見る。
次。
もう一粒。
それから、一番端の粒を嘴で軽くつついた。
「お」
店員が何か言う。
ニルスが訳す。
「これ、一番古いって!」
「マジで?」
店員は札を見せた。
俺には読めない。
でも三枚あって、それぞれ数字が違う。
一番大きい数字の札を、さっきの真珠の横に置いた。
「当たってんじゃん」
「すごいネ!」
「いや、すごい」
普通に感心した。
鳳は俺たちなんかどうでもよさそうに羽繕いを始めている。
店員がもう一度、別の粒を並べた。
今度は四粒。
鳳が見る。
「――ゴジュウ!」
「喋った!」
「ゴジュウ!」
ニルスが笑う。
「数字言うヨ!」
「五十年ってこと?」
「たぶんネ!」
店員が真珠を確認する。
それから鳳を見る。
何か言った。
鳳。
「ゴジュウ!」
店員が首を振る。
「ゴジュウ!」
また言った。
「……違うの?」
ニルスが店員に聞く。
少し話す。
「本当は三十くらいって」
「嘘ついてんじゃん!」
鳳がこっちを見る。
「ゴジュウ!」
「お前絶対分かってて言ってるだろ!」
店員がため息をついて、餌の入った小皿を見せた。
鳳の頭がぴくっと動く。
「……あ」
「この鳳、今おやつ欲しいネ」
「人間が騒ぐと餌出てくるの覚えてるじゃん」
店員も呆れた顔をしている。
でも怒ってはいない。
むしろ慣れてる。
鳳はもう一度言った。
「ゴジュウ!」
「分かったから!」
結局、店員が小さい餌を一つ渡した。
鳳は満足そうに食った。
「賢いけど性格悪いな……」
「頭いい鳳、わがまま多いヨ!」
「なんでそんな得意げなんだよ」
ニルスは笑っている。
店の奥を見ると、別の鳳の横には人が座っていた。
同じ真珠を何度か置き直している。
鳥の反応を見て、帳面に書く。
また並べる。
また書く。
「一回見て終わりじゃないんだ」
「ウン。何回も見るヨ!」
「鳥なのに信用されてないな」
「鳳も間違うヨ!」
「まあ、さっき嘘ついてたしな」
人間の計量。
帳面。
鳥の感覚。
全部合わせてやっと鑑定になるらしい。
この国、真珠一粒にどんだけ手間かけるんだ。
でも、一粒が高いんだから当然か。
店の中をしばらく見て回った。
奥には暖かい部屋があって、日が入る大きな窓まである。
止まり木。
水浴び用らしい浅い器。
遊ぶための木片や紐。
なんか、下手な人間の家より設備がいい。
「こいつら金かかりそうだな」
「高いヨ!」
「鳥も?」
「鳥も、暖房も、餌も、先生も!」
「先生?」
「教える人!」
「ああ、調教師」
仕事ができるようになるまで何年もかかるらしい。
しかも、担当する人が変わると上手くいかないこともあるという。
「鳥なのに職人じゃん」
「仕事の相棒ネ!」
その言い方が、この国では普通なんだろう。
店を出る。
外の冷気が一気に顔へ当たった。
「寒っ!」
さっきまで暑かったせいで余計に寒い。
上着を閉じる。
その時。
上から甲高い声がした。
「ギャアッ!」
反射的に見上げる。
屋根の上に、白と灰色の鳥が何羽かいる。
「…………」
見覚えがある。
「ニルス」
「ウン?」
「……あいつらも鳳?」
「ウン」
「店のやつと同じ?」
「違うヨ。あっちは泥棒」
即答だった。
「鳥に職業差あるんだ……」
屋根の一羽と目が合った。
嫌な予感がする。
鳥が首を傾げる。
俺も警戒する。
「……バーカって言わねえだろうな」
「?」
「いや、なんでもない」
鳥は何も言わなかった。
代わりに、隣の屋根へ飛んでいった。
ちょっと安心した。
「店の中だと先生で、外だと泥棒か……」
「そうネ!」
ニルスは何でもないことみたいに言う。
この国では、それで普通らしい。
◇
そのあとも、ニルスと街をぶらぶら歩いた。
特に目的はない。
店先を覗いて、知らないものがあれば俺が聞く。
ニルスが分かる範囲で答える。
ニルスがセラキア語で詰まったら、身振り手振りが増える。
それでも大体なんとかなった。
魚を干している店。
貝殻を山ほど積んだ店。
真珠じゃない普通の装飾品を売っている店。
菓子屋の前では、昨日の田中を思い出した。
「……この国、ケーキ高いんだよな?」
「高いヨ!」
「昨日あいつ、三つ食ってたな……」
「先生、ケーキ好きネ!」
「知ってる」
店の窓越しに並んだ菓子を見る。
うまそうではある。
でも値段を聞いたら腹が立ちそうなので、やめた。
昼を過ぎても、まだ歩いた。
途中で温かい飲み物を買って、道端で飲んだ。
港の方まで行くと、船が何隻も出入りしていた。
荷物を積む人。
下ろす人。
帳面を持って行ったり来たりする人。
遠くでは白い煙を吐く船まで見える。
「この国、やっぱ船多いな」
「海あるからネ!」
「まあ、そうなんだけど」
当たり前の返事に笑う。
少し前まで、カルヴェンといえば俺の中では。
寒い。
鳥がうるさい。
イモクイに食われかける。
真珠のために毎日ケツの穴を見られる。
変な大魔術師が大麻吸ってる。
そんな感じだった。
ろくでもない。
でも。
今日一日歩いてみると、普通に飯を食って、働いて、買い物して、鳥に仕事を教えて、帳面の数が違うって喧嘩している人たちがいるだけだった。
当たり前だけど。
ちゃんと、普通に人が暮らしている国だった。
「……なんだかんだ、結構楽しかったな」
「今日?」
「今日も。この国も」
ニルスが笑う。
「良かったネ!」
「イモクイ以外はな」
「イモクイも美味しいヨ!」
「食う側ならな!」
また笑った。
それから少し歩いて。
ふと、思い出した。
「……あ」
「どうした?」
「俺、明日帰るんだ」
口にしてから、少し変な感じがした。
帰りの予定があるのは、ずっと分かっていた。
チケットだってある。
でも田中に会ったり、ニルスの家に泊まったり、今日は朝から街を歩いたりしていたせいで、なんとなく忘れていた。
「明日、セグルに帰る」
「ウン」
ニルスも覚えていたらしい。
普通に頷いた。
「……もうちょっといてもよかったかもな」
言ってから、自分でも少し意外だった。
最初にこの国へ来た時は、仕事が終わったらさっさと帰るつもりだった。
今回だって、嵐の後片付けをして帰るだけのはずだった。
それが、変な日本人に会って。
ニルスと飯を食って。
酒を飲んで。
今日は普通に遊んでいる。
「帰りたくない?」
「いや。帰らなきゃ」
家賃もある。
ヴァルに仕事の金も精算してもらわないといけない。
俺の生活はセグルにある。
「でも、また来てもいいかなとは思う」
「オー!」
ニルスが嬉しそうに笑った。
「また来るヨ!」
「次は仕事じゃない時がいいな」
「イモクイ仕事あるヨ!」
「絶対やらねえよ!!」
「美味しいヨ!」
「だから食う側ならな!!」
◇
夕方、ニルスの家へ戻った。
晩飯を食って、少しだけ酒を飲んだ。
昨日みたいに遅くまでは飲まなかった。
明日は帰る。
荷物もまとめないといけない。
といっても、持ってきた物なんて大した量じゃない。
服を畳んで、財布を確認する。
田中にもらった名刺も入っている。
なくさないように、少し奥へ入れ直した。
ニルスがそれを見ていた。
「先生、電話するネ!」
「まあ、そのうちな」
「先に電話ヨ!」
「分かってるよ」
田中にも念押しされた。
勝手に来るな。
次は電話してから来い。
そこだけは忘れない。
布団に入る。
明日はセグルへ帰る。
そう考えると、少しだけ名残惜しい。
でも。
また来ようと思えば来られる。
田中の連絡先もある。
ニルスの家も知っている。
今度は、イモクイにも真珠にも関係なく来ればいい。
「タックミさん、おやすみ!」
「おやすみ」
部屋の明かりが消える。
カルヴェンで過ごす最後の夜は、何も起きなかった。
それが一番よかった。
