肉まんを食べ終えたロロは、俺の肩へ頭を預けたまま聞いてきた。
「たっくん、ここに来てもう長いにゃ?」
「ここって、この街?」
「セグルにゃ~」
「長くはないな。来てすぐ仕事を始めて、そのあとセラキアの森へ行ってたから」
「じゃあ、来たばっかりにゃ?」
「まあ、そうなるのかな」
この街で知っている場所といえば、ヴァルの会社、安い屋台、接触店、共同宿くらいだ。
並べてみると、ろくな場所を知らない。
ロロは俺の肩から顔を上げ、黄緑色の目を輝かせた。
「じゃあ、僕がいいところ案内してあげるにゃ~♡」
「お前が?」
「僕、この街のこといっぱい知ってるにゃ」
確かに、俺よりは詳しいだろう。
ロロはこの街で働き、暮らしている。気分屋ではあるが、道案内くらいならできるはずだ。
「どこへ連れていってくれるんだ?」
「いいところにゃ♡」
「だから、どんなところだよ」
「明るくなったら決めるにゃ」
「今は決めてないのかよ」
「その時に行きたいところへ行くのが一番楽しいにゃ~♡」
計画性はまったくなさそうだった。
だが、俺も仕事を休んでいる身だ。明日の予定などない。
「まあ、いいけど」
「じゃあ明日は朝から遊ぶにゃ~! 十時に起こしに来てほしいにゃ~♡」
「案内する側が起こしてもらうの?」
「僕、朝は起きられないにゃ」
「じゃあ朝から遊べないだろ」
「たっくんが起こしてくれたら起きられるにゃ♡」
すごく当然のことを言っているような顔だった。
◇
翌朝。
ロロから教えられた住所を頼りに、俺は街の住宅地を歩いていた。
時刻は十時。
朝から遊ぶと言っていたが、十時は朝から遊ぶ人間の集合時間としては、かなり遅い気がする。
それでも、ロロにとっては十分に早いのだろう。
教えられた住所には、大勢で暮らすためのシェアハウスがあった。
入口で呼びかけると、中から一人の住民が顔を出した。
「ロロを起こしに来たんだけど」
「ああ、人間さんにゃ。ロロなら奥で寝てるにゃ~」
初対面の人間が住民を起こしに来たというのに、特に警戒もされなかった。
「入っていいの?」
「いいにゃ。起こせるなら起こしてほしいにゃ」
あっさり中へ通される。
案内された先には、部屋の大部分を寝具が占める共有寝床があった。
敷物や枕、丸められた毛布が重なり、巨大な巣のようになっている。
平日のこの時間だからか、寝ているのはロロだけだった。
毛布の山から、赤茶色の猫耳と、ふさふさした尻尾の先だけが出ている。
「ロロ」
返事はない。
「十時だぞ。起こしに来た」
毛布がわずかに動いた。
中から、眠そうな声がする。
「……たっくんにゃ?」
「そうだよ。朝から遊ぶんだろ」
毛布の隙間から、ロロが顔を出した。
赤茶色の髪は寝癖だらけで、大きな猫耳も横へ寝ている。黄緑色の目は半分も開いていなかった。
「たっくん、ちゃんと来たにゃ~♡」
「来てほしいって言ったのはお前だろ。ほら、起きろ」
「うん。起きるにゃ……」
ロロは毛布から片腕を出した。
起き上がるために手を貸せということだろう。
俺がその手を掴むと、ロロは両腕で俺の腕へしがみついた。
「ちょっと待て」
「たっくんも寝るにゃ~♡」
「俺はお前を起こしに来たんだよ!」
腕を引かれる。
ロロに俺を引き倒せるほどの力があるわけではない。
だが、寝床の端へ足を取られた。
「うわっ!」
俺は毛布の山へ倒れ込んだ。
ロロがすぐに身体を寄せてくる。腕を抱え、俺の胸元へ頭を押しつけた。
ふさふさした尻尾が腹の上へ乗る。
「離せ。遊びに行くんだろ」
「少しだけにゃ」
「絶対起きないやつじゃん」
「起きるにゃ~……」
声がどんどん小さくなる。
ロロの身体は温かかった。
柔らかな髪と猫耳が、俺の顎へ触れている。
共有寝床は、見た目以上に寝心地がよかった。何人もの住民が使っているためか、毛布も敷物も身体へ馴染むように重なっている。
別に眠くはない。
俺はちゃんと朝に起きて、ここまで歩いてきたのだ。
ただ、ロロが目を覚ますまで待つだけなら、横になっていても問題はない。
五分くらいなら。
俺は目を閉じた。
◇
玉ねぎと肉を煮込んだ匂いがした。
腹の上で、ふさふさした尻尾が動く。
胸元に押しつけられていた猫耳が、ぴくりと立った。
「ご飯にゃ!」
ロロが跳ね起きた。
俺の肩を両手で揺する。
「たっくん起きるにゃ! ご飯にゃ! 食べて遊びに行くにゃ♡」
「……何時?」
「ご飯の時間にゃ~」
身体を起こし、部屋を見回す。
窓から差し込む光の位置が、さっきと違っていた。
「まさか昼?」
「お昼にゃ♡」
「俺、お前を十時に起こしに来たんだけど」
「うん。たっくん来たにゃ」
「それでなんで俺がお前に起こされてるんだよ!」
「僕がたっくんを起こしたにゃ~♡」
「そこを成功扱いするな!」
ロロはもう完全に目を覚ましていた。
大きな猫耳を立て、食事の匂いがする方へふさふさした尾を揺らしている。
朝はあれだけ起きなかったくせに、飯の匂いだけで起きるらしい。
「早く行くにゃ。なくなっちゃうにゃ~」
「俺の二時間は?」
「たっくんも気持ちよさそうに寝てたにゃ♡」
否定できなかった。
◇
共有の食堂では、大鍋いっぱいのミートソースが作られていた。
平日なので、家にいる住民は少ない。
それでも大鍋なのは、あとで帰ってくる住民の分もまとめて作っているかららしい。
茹で上がった大量のパスタが皿へ盛られ、その上から肉と野菜の入った赤いソースがかけられる。
「人間さんも食べるにゃ?」
「いいの?」
「いっぱいあるにゃ~」
俺の前にも皿が置かれた。
知らないシェアハウスへ友人を起こしに来て、一緒に寝たうえ、昼飯まで貰っている。
普通なら多少は遠慮するところだ。
だが、起きたばかりで腹が減っていた。
「いただきます」
一口食べる。
甘みのあるトマトソースへ、細かく刻んだ肉と野菜がよく馴染んでいた。
高級な料理ではない。
だが、誰かが大量に作った温かい飯は、一人で食べる野菜入り蒸し饅頭よりずっと美味かった。
ロロは俺の隣で、夢中になってパスタを食べている。
さっきまで寝ていたとは思えない。
ロロが、向かいで食事をしていた住民へ顔を上げた。
「テオ~、この人間さんはたっくんにゃ♡」
今度は俺を見て、向かいの住民を指す。
「たっくん、この猫さんはテオにゃ♡」
急に雑な紹介をされた。
焦げ茶色の猫耳と細い尻尾を持つ、青い目の少年だった。
テオは食事の手を止めて軽く会釈すると、それ以上何も聞かず、またパスタを食べ始めた。
そこへ、山盛りのパスタを載せた皿を持って別の住民がやって来た。俺たちと同じ卓の空いた席へ座る。
「ロロ、やっと起きたのかにゃ~」
「起きたにゃ♡」
テオが笑った。
「ロロが朝から起きたところなんて見たことないにゃ~。ロロはダメな猫さんにゃ~」
「僕は今日は起きれるって思ったにゃ~♡」
「思っただけじゃ起きられないにゃ」
「たっくんが起こしに来てくれたにゃ」
「それでたっくんまで寝てたにゃ?」
「一緒に寝たかったからにゃ~♡」
住民たちが笑う。
俺がロロと共有寝床から出てきたことについては、誰も不思議に思っていなかった。
気にされているのは、ロロが今日も朝から起きられなかったことだけだ。
「俺は巻き込まれただけだからな」
「でも、たっくんもぐっすりだったにゃ♡」
「毛布が寝やすかったんだよ」
「僕がくっついてたからにゃ~」
「それは関係ない」
ロロが嬉しそうに目を細めた。
否定したが、本当は少しくらい関係があったかもしれない。
認める必要はない。
◇
昼食を食べ終えると、ロロは急に遊びに行く気になった。
「たっくん、早く行くにゃ~♡」
「今から?」
「ご飯食べたから、いっぱい遊べるにゃ」
「朝から遊ぶ予定だっただろ」
「今からでも明るいにゃ♡」
本人の中では、何の問題もないらしい。
ロロが着替えるのを待ち、俺たちはシェアハウスを出た。
外はよく晴れていた。
昼を過ぎているが、店を見て回る時間は十分にある。
「それで、最初はどこへ行くんだ?」
「接触店にゃ♡」
「接触店!?」
思わず声が大きくなった。
つい先日、ミアちゃんの店で十二万タサルを使ったばかりだ。
次に行くなら、もっと長いコースを選びたい。
だが、今の残金で接触店へ行くのは無理だった。
「金ないぞ」
「大丈夫にゃ。そんなに高くないにゃ~♡」
「安い接触店もあるの?」
「あるにゃ」
知らなかった。
俺が行った店が高級店だっただけで、庶民向けの接触店もあるらしい。
考えてみれば当然だ。
すべての店が十二万タサルもするなら、普通の労働者は利用できない。
「どんな店?」
「疲れた時に行くお店にゃ♡」
「なるほど」
仕事帰りの客を癒やす店。
値段も安い。
それなら、若くて可愛い女の子が、短い時間だけ抱き締めたり撫でたりしてくれる店かもしれない。
性的なことまではなくてもいい。
今の俺には金がないし、見るだけでも街を知ることにはなる。
「いい店知ってるじゃん」
「僕のお気に入りにゃ~♡」
ロロは上機嫌に俺の手を取り、通りの先へ歩き始めた。
◇
着いたのは、昼間から開いている小さな路面店だった。
華やかな看板はない。
入口の脇には、膝枕と撫で接触の料金が書かれていた。
三千タサル。
確かに安い。
ただし、店内に若い女の子は一人もいなかった。
受付に座っているのは、白髪のおばあちゃん。
奥から顔を出したのも、おばあちゃん。
壁には、優しく笑う何人ものおばあちゃんの紹介札が並んでいる。
「ロロ」
「何にゃ?」
「接触店って、ここ?」
「そうにゃ♡」
「おばあちゃんしかいないけど」
「おばあちゃんのお店にゃ~♡」
「先に言えよ!」
「たっくん、おばあちゃん嫌いにゃ?」
「嫌いじゃないけど、接触店って聞いたら普通は若い女の子を想像するだろ!」
「僕はおばあちゃんのお店に行くって思ってたにゃ」
ロロは一度も嘘をついていない。
ただ、必要なことを説明しなかっただけだ。
「帰る」
「入らないにゃ?」
「若い女の子がいないなら意味ないだろ」
「たっくん、疲れてるにゃ。ここのおばあちゃん、なでなですごく上手にゃ~♡」
「撫でるだけ?」
「膝枕もしてくれるにゃ」
俺はもう一度、入口の料金表を見た。
高くはない。
ミアちゃんの店へ払った金と比べれば、誤差みたいなものだ。
ここまで歩いてきて、何もせず帰るのも損をした気がする。
「……一番短いので」
「自分で払うにゃ♡」
「分かってるよ!」
店へ入ると、ロロは真っ先に受付へ駆け寄った。立っていた猫耳も、尻尾の先も嬉しそうに揺れている。
「今日は僕のばぁばいるにゃ?♡」
受付にいた猫のおばあちゃんは、手元の予定表を確かめてから首を横に振った。
「今日はお休みにゃあ」
「そうにゃ……」
ロロの猫耳がぺたりと伏せられ、尻尾まで床へ垂れた。
俺を連れてきたついでに、自分もお気に入りのおばあちゃんへ撫でてもらうつもりだったらしい。
「わかったにゃ~……また来るにゃー……たっくんだけ、なでなでされてくるにゃ~」
「そんなに落ち込むのかよ」
ロロはしょんぼりしたまま、待合の長椅子へ座った。
俺は受付で三千タサルを払い、一人で奥の部屋へ通された。
◇
部屋には長椅子と、小さな卓が置かれていた。
担当は、小柄な猫のおばあちゃんだった。
白髪の間から、灰白色の三角耳が覗いている。同じ色の細長い尻尾が、長椅子の脇へゆったり垂れていた。
皺の刻まれた顔も、手足も、人間のおばあちゃんとほとんど変わらない。俺と目が合うと、嬉しそうに目尻が下がり、垂れていた尻尾の先まで何度か小さく弾んだ。
おばあちゃんは長椅子へ腰を下ろすと、自分の膝を軽く叩いた。
「おいでにゃあ。ここへ頭を置いてごらん」
「本当に膝枕だけなんですね」
「そうにゃあ。あとは、ゆっくり撫でてあげるにゃ」
若い女の子ならともかく、おばあちゃんの膝へ頭を乗せるのは少し恥ずかしい。
だが、もう金を払っている。
何もせず帰る方がもったいない。
俺は靴を脱ぎ、長椅子へ横になった。
おばあちゃんの膝へ、恐る恐る頭を預ける。
柔らかい。
すぐに、温かい手が髪へ触れた。
皺の刻まれた手が視界の端を横切り、掌が額へ触れる。
額から頭頂部へ。
同じ速さで、何度もゆっくりと撫でられる。
「力、入ってるにゃあ」
「そうですか?」
「ずっと頑張ってきた子の頭だにゃあ」
「子って、俺もう大人ですよ」
「おばあちゃんから見たらみんな子供にゃ」
「そういうものですか」
「そういうものにゃあ」
適当だった。
それでも、手は気持ちよかった。
指が髪を梳き、耳の後ろから首筋へ下りる。
身体へ入っていた力が、少しずつ抜けていく。
「今日は、何を頑張ってきたにゃ?」
「竜の糞を運んだり、南方の森へ行ったりです」
「まあまあ。怪我はしなかったかにゃ?」
「猪に噛まれましたけど、もう治りました」
「怖かったにゃあ」
「別に、それくらい――」
おばあちゃんの獣耳が少しだけ伏せられた。
尻尾が長椅子の端をゆっくり撫で、温かい手が俺の額へ戻る。
「大丈夫、大丈夫。もう全部終わったから、怖くないにゃ」
「いや、俺はもう大人で……」
「おばあちゃんがいるからにゃあ」
子供へ言い聞かせるような声だった。
薄く目を開ける。
おばあちゃんは嬉しそうに目尻を下げていた。伏せていた獣耳はもうゆるみ、尻尾の先が小さく揺れている。
本当に孫を膝へ乗せているような顔だった。
こんなもの、金を払って聞かされているだけだ。
おばあちゃんが俺を知っているわけでもない。
きっと、そういう顔をするのが上手いのだ。
「もう何にも怖くないにゃ。よく頑張ったにゃあ」
否定しようとした。
だが、口を開くと違うものまで出てきそうで、俺は目を閉じた。
「いい子、いい子にゃ」
ゆっくり、優しく撫でられる。
頭を撫でられながらそう言われると、胸の奥に溜まっていたものが少しずつほどけていった。
目の奥が熱くなる。
俺は慌てて顔を横へ向けた。
「どうしたにゃ?」
「何でもないです」
「そうかいにゃあ」
おばあちゃんは追及しなかった。
伏せていた獣耳をゆっくり起こし、ただ同じ速さで頭を撫で続けた。
異世界へ来て、金を払って、おばあちゃんの膝の上で泣きそうになっている。
何をしているんだ、俺は。
そう思ったが、起き上がる気にはならなかった。
◇
「はい、今日はここまでにゃ」
おばあちゃんの手が止まった。
だが、すぐには離れず、名残惜しそうにもう一度だけ俺の髪を梳いた。
「もう?」
「一番短い時間だからにゃあ」
前にも、同じようなことを言った気がする。
短い時間でも、十分に身体の力が抜けていた。
「また疲れたらおいでにゃ。今度もいっぱい撫でてあげるにゃあ」
「……はい」
おばあちゃんは満足そうに目尻を下げ、最後にもう一度、俺の頭を撫でた。
俺は長椅子から起き上がり、靴を履いた。
店の待合には、ロロがいた。
受付のおばあちゃんと並んで座り、貰ったらしい蜜柑を一房ずつ口へ放り込んでいる。
俺を見ると、大きな猫耳を立て、嬉しそうに近寄ってくる。
「たっくん、元気になったにゃ?」
「まあ、悪くはなかった」
「ちょっと泣いてたにゃ?」
「泣いてない」
「お目々赤いにゃ~♡」
「寝起きだからだよ」
「さっきもいっぱい寝たにゃ」
「うるさい」
ロロは楽しそうに笑った。
「ここ、いいお店にゃ~♡」
「最初におばあちゃんの店だって言え」
「言ったら、たっくん来なかったにゃ?」
「……来なかったかもしれない」
「じゃあ、言わなくてよかったにゃ♡」
「よくない」
店を出る。
昼の日差しはまだ明るかった。
頭が軽い。
財布の中身は減ったが、普通の按摩へ行ったと思えば高くはない。
接触店にも、いろいろあるらしい。
「次はどこへ行くんだ?」
「次も僕の好きなところにゃ~♡」
ロロが俺の手を取り、通りの先へ歩き始めた。
俺はこの時、ロロの好きなところが何軒あるのか聞かなかった。
