翌日の夕方。
俺は昨日と同じ屋台で、昨日と同じ野菜入りの蒸し饅頭を二つ買った。
昨日と同じ広場へ行き、昨日と同じ長椅子の端へ座る。
別に意味はない。
この屋台が一番安く、この長椅子が空いていただけだ。
ロロが仕事帰りにいつもここを通ると言っていたこととは、何の関係もなかった。
鞄から、女神様に貰った教科書を取り出す。
これを持っていれば、一人で夕飯を食べているようには見えない。
勉強するために、わざわざ一人になっている人間に見える。
俺は最初の頁を開いた。
『第1章 時間資源と生体ロック』
視界の端で、赤茶色の耳が動いた。
顔を上げる。
通りを歩いていたのは、狐耳の女だった。
ロロではない。
「……別に待ってないけど」
誰に言うでもなく呟き、蒸し饅頭をかじった。
◇
十分経った。
ロロは来ない。
隣の卓へ座っていた家族連れが食事を終え、代わりに仕事帰りらしい犬の男たちが座った。
俺は教科書へ目を落とした。
別に、ロロが来るまでの暇つぶしではない。
俺は本を読みに来たのだ。
『小学校では、魔法について次のように学びました』
いきなり知らない話だった。
この世界の小学生は、古い物ほど魔法資源を多く持つこと、生きている生物は他者の魔法資源にできないこと、使用した資源は発動に失敗しても失われることを習うらしい。
「小学生でこれやるの……?」
俺は大学まで出ている。
名前を書けば入れるような大学だったが、大学は大学だ。
小学生向けの内容でつまずくわけにはいかない。
続きを読む。
魔法を成立させるには、三つのものが必要になる。
魔法へ変換できる資源。
起こしたい物質や現象についての知識。
必要となる資源量の見積もり。
「資源だけじゃないのかよ」
女神は、そこまで説明していなかった。
俺が聞く前にチート魔法の話を始めたからかもしれない。
教科書によると、魔法へ変換できる資源を、時間資源と呼ぶらしい。
時間資源のおおよその量は、その物質が生きた身体とつながっていた時間と、その物質の重さで決まる。
太い字で、式が書かれていた。
『時間資源量 ≒ 接触時間 × 質量』
ここまでは簡単だ。
長く身体の一部だった、重い物ほど多くの資源になる。
その下には、古い木と石の絵が並んでいた。
樹齢の高い大木は、長い間生きた身体としてつながっているため、多くの時間資源を持つ。
だが、百年間地面へ置かれていただけの石は、古いという理由だけでは時間資源を持たない。
「古ければ何でもいいわけじゃないのか」
危なかった。
適当に古そうな石を拾って魔法を使おうとしていたら、何も起きないまま石だけ失うところだった。
いや、時間資源がないなら、そもそも魔法へ投入できないのかもしれない。
その辺りは、まだ分からなかった。
次の頁には、人間の身体の絵が載っていた。
骨。
歯。
皮膚。
脂肪。
身体の中でも、すべての部分が同じ時間を持っているわけではないらしい。
骨や歯のように長期間残るものと、皮膚や脂肪のように作り替えられるものでは、身体とつながっていた時間が違う。
「……歯?」
南方で最初に入った借金清算所を思い出した。
『あなたの歯でしたら、前歯を数本残し、それ以外をすべていただければ清算できます』
天然歯なら借金を返せる。
麻酔代は、残す予定の前歯を一本追加。
あの時は、異世界人の歯が珍しいから高く売れるのだと思っていた。
違う。
長年、俺の身体とつながっていた天然歯だから、時間資源を持っていたのだ。
「だから歯を抜こうとしたのかよ!」
思わず大きな声が出た。
近くにいた馬の女が、驚いたようにこちらを見た。
俺は咳払いをし、教科書へ顔を近づけた。
別に一人で騒いでいたわけではない。
本に驚いただけだ。
◇
さらに三十分経った。
ロロはまだ来ない。
屋台で串肉を買った赤茶色の猫が広場へ入ってきたが、太った中年の男だった。
俺はすぐに教科書へ目を戻した。
本当に待っているわけではない。
似た色が見えたから、確認しただけだ。
次は、生体ロックについての説明だった。
生きている生物の身体には、他者が時間資源として使用できない仕組みが働いている。
それが生体ロック。
動物だけではなく、植物、菌類、微生物にも同じ仕組みがある。
本人が許可しても、契約を結んでも、生体ロックが他人へ移ることはない。
「じゃあ、生きた奴をいきなり魔法で消したりはできないんだな」
少し安心した。
異世界の魔法使いが指を向けただけで、俺の身体を燃料に巨大な火球を撃つようなことはないらしい。
だが、生物が死んだ場合や、身体の一部が完全に切り離された場合、その部分の生体ロックは外れる。
抜けた毛。
抜いた歯。
切り落とした角。
伐採した枝。
生きた身体から外れた時点で、それまで蓄積した時間が固定され、独立した魔法資源になる。
「やっぱり歯じゃん……」
借金清算所の男は、一度も嘘をついていなかった。
歯を抜けば、俺の生体ロックから外れる。
時間資源を持った天然歯として利用できる。
価値があったのは俺自身ではなく、俺の口の中で長年育てた資源だった。
嫌な納得だった。
頁をめくる。
今度は、赤い枠で囲まれた注意書きがあった。
『自分自身の身体と生体ロック』
生物は、自分の生体ロックに属する身体を、自ら魔法資源として指定することができる。
「自分なら使えるのか」
これを利用すれば、魔力が足りない時に髪や爪を使えるかもしれない。
そう思って続きを読む。
身体が物理的につながっている間、魔法はその身体全体を一つの対象として扱う。
自分の腕だけを資源にするつもりでも、腕が身体につながっていれば、腕だけを独立した資源として指定することはできない。
全身が一つの対象となり、すべて消費される危険がある。
「怖っ!」
俺は教科書から手を離した。
両腕を見る。
ちゃんとある。
脚もある。
まだ何も指定していないのだから、消えるわけがない。
それでも念のため、自分の身体を資源にして魔法を使おうとは絶対に考えないことにした。
爪一本のつもりで全身が消えたら、笑い話にもならない。
教科書にも、興味や遊びで試してはいけないと書かれている。
「こんなの中学生に教える前に、使えないようにしとけよ……」
誰も答えなかった。
◇
日が沈み、屋台に灯りがともり始めた。
仕事帰りの獣人が増え、屋台通りが混み始める。
俺が買った蒸し饅頭は、とっくに食べ終わっていた。
ロロは来ない。
「遅くない?」
言ってから、すぐに首を振った。
何が遅いのか。
俺は待ち合わせをしていない。
ロロは、仕事帰りにいつもここを通ると言っただけだ。
何時に仕事が終わるかも聞いていない。
そもそも、俺がここにいることをロロは知らない。
だから、遅いも何もなかった。
「まあ、まだ本の途中だし」
俺は続きを読む。
魔法は、術者が一つの対象として指定した物体を、一つの変換単位として認識する。
一本の枝を指定すれば、その枝が持つ資源はすべて投入される。
一割だけ使って、残りの九割を枝のまま返してもらうことはできない。
少量だけ使いたければ、魔法を使う前に切る。
分解する。
粉にする。
量る。
必要な部分を選ぶ。
「面倒くさ……」
魔法使いというより、料理か工場の作業に近い。
さらに、投入した資源は結果にかかわらず全部失われる。
必要量より少なければ、魔法は不発。
投入した分だけ小さな魔法へ変わることもなく、資源だけが消える。
必要量より多ければ、指定した魔法は発動する。
ただし、余った分で威力や範囲が増えるわけではない。
余剰分も全部消える。
太い字で書かれていた。
『魔法には、釣銭や残高という仕組みはありません』
「……これ」
どこかで、同じ話を聞いた。
南方の森。
猪に太腿を噛まれ、ベルンに傷を閉じてもらった時だ。
ベルンは目盛りのついた細長い資材を取り出し、傷を一度見ただけで、その端をほんの少し切った。
切り取った資材は光って消え、裂けた皮膚が薄い膜で貼り合わされた。
それを見たオスカーさんは、自分なら心配で倍は使うと言った。
エルマも、閉鎖量に対して余剰がほとんどないと感心していた。
『同じ術に倍突っ込んでも、余った分が消えるだけだ!!』
ベルンの怒鳴り声まで思い出した。
「ああ……」
ようやく分かった。
ベルンは、俺の傷を見ただけで、閉じるために必要な資源量を見積もった。
少なければ、傷は閉じない。
使った資材も全部なくなる。
多く使っても、痛みが消えたり、筋肉まで治ったりするわけではない。
ただ余った分が消える。
失敗しないぎりぎりの量を、その場で切り取ったのだ。
「だから、みんな感心してたのか……」
あのおっさん、魔法は上手かったのか。
ずっと怒鳴っていたし、傷を塞いだ翌日も俺を山へ連れていったので、ただの乱暴な現場監督だと思っていた。
実際、乱暴な現場監督ではある。
魔法が上手いことと、噛まれた俺へ優しくしなかったことは別問題だ。
「でも、痛みくらい何とかしてくれてもよかっただろ」
俺は一人で呟いた。
ベルンがここにいれば、また怒鳴られていたかもしれない。
◇
教科書の後半には、生命の境界について書かれていた。
臍帯で母体とつながる胎児。
接ぎ木された植物。
地下茎でつながる植物。
群体で生きる生物。
どこまでを一つの身体として生体ロックが守るのかは、現在も研究が続いているらしい。
「これはいいや」
中学生が覚えておくべきなのは、生きた身体の連続性を基準にするという部分だけだった。
俺は細かい例を読み飛ばし、章のまとめへ進んだ。
時間資源は、生きた身体とつながっていた物質に蓄積される。
量は、つながっていた時間と重さでおおよそ決まる。
身体から外れれば、それまでの時間が固定される。
生きた身体は、生体ロックで他人からの変換を防いでいる。
魔法は指定された物体全体を一つの変換単位として扱う。
少なくても、多くても、投入した資源は全部なくなる。
「だいたい分かった」
章末には、確認問題が八問あった。
一問目。
時間資源量を決める主な二つの要素。
「時間と重さ」
二問目。
百年間地面に置かれていた石が、古いというだけでは多くの時間資源を持たないのはなぜか。
「生き物とつながってないから」
三問目。
生体ロックとは何か。
「生きてる身体を他人が勝手に使えなくするやつ」
四問目。
生きた木から枝を切った場合、枝と残った木の生体ロックはどうなるか。
「枝だけ外れる。木はそのまま」
ここまでは簡単だった。
五問目。
一度身体から外した物を再び取り付けた場合、接触時間はどのように数えられるか。
「……何だっけ」
前の頁へ戻る。
外す前の期間と、付け直したあとの期間は、別の履歴として扱われる。
「別々」
六問目。
必要量より少ない資源で魔法を発動した場合。
「失敗して、全部なくなる」
七問目。
必要量より多い資源を投入しても、威力が自動的に増えないのはなぜか。
「そういう仕組みだから」
理由としては弱い気がしたが、だいたい合っているだろう。
八問目。
変換単位という言葉を使い、事前に資源を切断したり計量したりする理由を説明しなさい。
「指定した変換単位が全部なくなるから、先に必要な分だけ切る」
答えられた。
ほとんど全部。
「俺、普通に頭いいじゃん」
中学生向けの問題だということは、今だけ忘れることにした。
顔を上げる。
広場には、屋台の明かりが並んでいた。
空はすっかり暗くなっている。
仕事帰りの客は何度も入れ替わった。
赤茶色の大きな猫耳も、ふさふさした尻尾も、最後まで現れなかった。
「……帰るか」
別に、待っていたわけではない。
一章を全部読めたのだから、無駄な時間でもなかった。
俺は教科書へ紙切れを挟み、鞄へしまった。
◇
さらに翌日の夕方。
俺はまた、同じ屋台通りへ来ていた。
昨日一章を読み終えたのだから、もう教科書を持ってくる必要はない。
だが、二章がどんな内容か少しくらい確認してもいい。
別に、昨日来なかったロロが今日なら通るかもしれないと思ったわけではなかった。
「今日は違う物にするか……」
野菜入りの蒸し饅頭には、さすがに飽きた。
屋台を見て回る。
肉まんは、野菜だけの物より少し高い。
買えないほどではない。
だが、一度贅沢を許すと、次もいいような気がしてしまう。
俺は悩んだ末、今日も野菜入りを二つ買った。
いつもの長椅子へ座り、教科書を開く。
『第2章 術式と記述法』
表題だけを読んだところで、聞き覚えのある声がした。
「たっくんにゃ~♡」
顔を上げる。
ロロがいた。
明るい赤茶色の大きな猫耳。
狐のようにふさふさした尾。
今日はビールではなく、湯気の立つ肉まんを持っている。
俺を見ると、黄緑色の目を細め、当然のように隣へ座った。
「たっくん、今日もお勉強してるにゃ? 偉いにゃ~♡」
「お前、昨日来なかっただろ」
「昨日?」
「ここ通らなかっただろ」
「昨日はお休みだったにゃ♡」
「休み?」
「お昼まで寝て、ご飯食べて、また寝たにゃ」
「じゃあ、最初からここを通るわけなかったのかよ!」
「お仕事帰りはいつも通るにゃ。でも昨日は、お仕事行ってないにゃ」
ロロは何も間違っていないという顔で、肉まんをかじった。
確かに、仕事帰りに通ると言っていた。
毎日通るとは言っていない。
「たっくん、昨日もここにいたにゃ?」
「違う!」
反射的に否定した。
「別にお前を待ってたわけじゃない。俺は本を読みに来てただけだ」
「そうなのにゃ?」
「一章全部読んだ」
「全部?」
「ああ。時間資源と生体ロック。確認問題までやった」
俺は教科書を開き、第一章の終わりを見せた。
ロロが大きな黄緑色の目で頁を覗き込む。
「たっくん、すごいにゃ~♡」
「まあな」
「僕、学校の時そこ嫌いだったにゃ。字がいっぱいあるにゃ」
「中学生向けだぞ」
「嫌いなものは嫌いにゃ」
ロロは肉まんを半分ほど食べたところで、残りを見た。
次に、俺が持っている野菜入りの蒸し饅頭を見る。
「たっくんの、それお肉入ってないにゃ?」
「野菜だけの方が安いんだよ」
「おいしい?」
「普通」
ロロは少し考え、自分の肉まんを二つに割った。
片方を俺へ差し出す。
「お勉強したご褒美にゃ♡」
「いいの?」
「いいにゃ。僕、たっくんと半分こしたい気分にゃ」
受け取る。
正確には半分ではなかった。
ロロの手元に残った方が、少し大きい。
だが、気にしないことにした。
肉まんをかじる。
温かい肉汁が口へ広がった。
昨日から野菜ばかり食べていたせいか、ものすごく美味かった。
「うまい」
「僕が選んだからにゃ♡」
「お前が作ったわけじゃないだろ」
「でも僕が買ったにゃ」
ロロは満足そうに耳を立て、俺の肩へ身体を寄せてきた。
ふさふさの尻尾が、長椅子の後ろで揺れる。
「たっくん、昨日僕に会えなくても、お勉強できたからよかったにゃ」
「だから、会いに来たんじゃないって」
「うんうん。読書にゃ♡」
「分かればいい」
ロロの手が、俺の頭へ伸びた。
髪を二度、三度と撫でる。
「一章全部読んだたっくん、偉いにゃ~♡」
「子供扱いするなよ」
「大人でも、偉い時はなでなでするにゃ」
どこかで同じようなことを聞いた気がした。
ミアちゃんだ。
ただし、あちらは十二万タサル。
こちらは肉まん半分つきで無料だった。
もちろん、比べるようなものではない。
ミアちゃんは恋人になるかもしれない相手で、ロロは仕事帰りに近寄ってくる変な猫だ。
俺は残った肉まんを食べた。
昨日ロロを待っていたわけではない。
今日、ロロが来て少し嬉しかったわけでもない。
肉まんが美味かっただけだ。
たぶん。
