第13話 猫耳美少年に懐かれました!

予約の日まで、俺は毎晩ミアちゃんのことを考えていた。

髪を洗ってくれた指。

傷を心配してくれた声。

柔らかな胸に抱かれながら聞いた、おかえりなさい。

あれから何度も、店の注意書きを思い出した。

『本サービスにおける親愛表現は接客の一部であり、私的な交際を約束するものではありません』

分かっている。

接客なのは分かっている。

だが、接客だからといって、誰にでもあんな顔をするわけではないはずだ。

俺が泣いた時、ミアちゃんは本気で心配してくれた。

猪の傷へ触れないように気を遣ってくれた。

何より、一緒にいる時のミアちゃんは楽しそうだった。

つまり、仕事として優しくしてくれた部分と、俺だから優しくしてくれた部分がある。

そこを一緒にするほど、俺も馬鹿ではない。

◇

「拓海さん、また来てくれたんだにゃ♡」

店の奥から現れたミアちゃんは、今日も完璧に可愛かった。

艶のある黒髪。

大きな琥珀色の瞳。

頭の上でぴんと立った黒い猫耳。

俺を見つけると、細長い尻尾が嬉しそうに揺れた。

「会いたかった」

「私もにゃ♡」

ほら。

やっぱり俺だからだ。

「では、先に残りのお支払いをお願いします」

受付の女性が、机の向こうから声をかけてきた。

俺は財布を開き、一万タサル札を八枚出した。

予約した時に払った四万タサルと合わせて、十二万タサル。

紙幣が受付の手元へ消えていく。

ほんの一瞬で、南方の森を一か月歩き回って得た金のかなりの部分がなくなった。

「本日は包括接触の基本コースとなります。入浴、包括接触、その後は残り時間に応じて休息接触をご利用いただけます」

「休息接触?」

「抱擁や添い寝、撫でるなどの接触です」

「前にやってもらったやつか」

「はい。ただし、前回は初回無料券による最長コースでした。本日は最も短い基本コースとなります」

「十二万タサルで一番短いの!?」

「はい」

受付の女性は笑顔を崩さなかった。

「延長も可能ですが、追加料金が発生します」

料金表を示される。

見なかったことにした。

「拓海さん、今日はあんまりゆっくりできないけど、その分いっぱいくっつこうにゃ♡」

ミアちゃんが俺の腕へ抱きついた。

「そうだな!」

十二万タサルは高い。

だが、既に四万払っている。

それに、ミアちゃんが俺を待っていたのだ。

今さら帰れるわけがなかった。

◇

今日も最初は風呂だった。

前回と同じ浴室へ案内され、服を脱ぐ。

ミアちゃんは俺の太腿へ目を向けた。

「猪に噛まれたところ、もう痛くない?」

「覚えてたの?」

「もちろんにゃ。あんなに大きな傷だったもん」

やっぱり覚えている。

何人も客がいるだろうに、俺の傷を覚えている。

ミアちゃんは本当に俺を気にしてくれているのだ。

「もう平気。痕は残ってるけど」

「よかったにゃ♡」

椅子へ座ると、ミアちゃんが後ろから俺の髪を濡らした。

温かい湯が頭を流れる。

指が髪の間へ入り、頭皮を優しく揉んだ。

それだけで、身体の奥に入っていた力が抜けていく。

「気持ちいい?」

「すごく」

「今日もいっぱい頑張ってきたんだね」

「最近はそこまで働いてないけど」

「じゃあ、寂しかったにゃ?」

図星だった。

俺が黙ると、濡れた腕が後ろから首へ回された。

「今日は私がいるにゃ♡」

「うん」

もう少し、このままでいたかった。

だが、前回ほど時間をかけて髪や身体を洗ってはもらえなかった。

一緒に浴槽へ入っても、ミアちゃんの胸へ背中を預けたところで、すぐに声をかけられた。

「そろそろ次へ行こっか」

「もう?」

「今日は短いコースだからにゃ」

仕方がない。

風呂へ入りに来たわけではないのだ。

◇

寝室へ入ると、ミアちゃんは俺を寝台へ座らせた。

「今日は泣いてないね」

「毎回泣くわけじゃないよ」

「泣いてもいいんだよ?」

「さすがに恥ずかしい」

「ふふ。拓海さん、かわいいにゃ♡」

ミアちゃんの唇が重なった。

黒い尻尾が俺の腰へ絡みつく。

抱き締めると、柔らかな身体が腕の中へ収まった。

前回よりも慣れている。

ミアちゃんの耳へ触れても、もう本物かどうか驚いたりはしない。

指で根元を優しく撫でると、黒い耳が小さく震えた。

「そこ、気持ちいいにゃ」

「俺、上手くなった?」

「うん。すごく上手にゃ♡」

褒められると嬉しい。

俺たちはもう、初めて会った客と店員ではない。

二回目なのだ。

これから三回、四回と会っていけば、もっと特別な関係になれるかもしれない。

ミアちゃんが、俺の上へ跨がった。

濡れた内側へゆっくりと受け入れられる。

「拓海さん、気持ちいい?」

「うん……」

「私の顔、ちゃんと見て」

琥珀色の瞳が、すぐ近くで俺を見つめている。

ミアちゃんが腰を動かすたび、黒い髪と猫耳が揺れた。

「拓海さん、会いに来てくれて嬉しいにゃ♡」

「俺も……ずっと会いたかった」

「いっぱい気持ちよくなろうね」

唇を重ね、抱き締め合う。

名前を呼ばれるたび、身体だけでなく胸の奥まで満たされていった。

やっぱり、ミアちゃんとは相性がいい。

これを金だけの関係だと言う方がおかしい。

◇

すべてが終わると、ミアちゃんが俺の身体を綺麗にしてくれた。

「少し時間が余ったにゃ。何してほしい?」

「撫でてほしい」

「いいよ。おいで♡」

ミアちゃんが寝台へ座り、胸元を開いた。

俺はそこへ頭を預けた。

柔らかな胸に頬を埋め、髪を撫でてもらう。

これだ。

俺が一番欲しかったのは、もしかするとこっちかもしれない。

指が頭を撫でるたび、何もない部屋へ一人で帰る不安が遠ざかっていく。

「拓海さん、いい子だね」

「子供じゃないって」

「大人でも、いい子はいい子にゃ♡」

黒い尻尾が俺の腕へ巻きつく。

目を閉じた。

今日はこのまま眠ってもいいのだろうか。

前回は寝かせてくれた。

目が覚めた時にも、ミアちゃんは隣にいた。

そう思った瞬間、部屋のどこかで澄んだ音が鳴った。

ミアちゃんの手が止まる。

「拓海さん、時間にゃ」

「え?」

「今日はここまで」

「もう終わり!?」

「ごめんね。短いコースだから」

まだ全然足りない。

やっと落ち着いてきたところだった。

「少しくらい駄目?」

「次のお客様が待ってるの」

次の客。

胸の奥に、嫌なものが引っかかった。

だが、店なのだから他にも客がいるのは当然だ。

俺だって理解している。

「また来てくれる?」

ミアちゃんが俺の頬へ口づけした。

「来る」

反射的に答えていた。

「嬉しいにゃ♡」

やはり、次はもっと長いコースにした方がいい。

十二万タサルでこれなら、長いコースはいくらになるのだろう。

料金表は見ないことにした。

◇

店を出たあと、俺はしばらく幸せな気分で歩いていた。

ミアちゃんは今日も可愛かった。

傷のことを覚えていた。

会いに来てくれて嬉しいとも言っていた。

間違いなく、前回より距離は縮まっている。

あとは何度か通えば、店の外でも会ってくれるかもしれない。

そう考えながら財布を開いた。

足が止まった。

「……金なくない?」

何度数えても増えなかった。

予約時に四万タサル。

今日、残りの八万タサル。

合計十二万タサル。

店へ来る前は、払ってもまだ少しくらい余裕があると思っていた。

実際、少しは残っている。

節約すれば、一か月くらいは暮らせそうだ。

足りなくなったら、またヴァルに単発の仕事を紹介してもらえばいい。

だが、南方の森から帰ってきたばかりなのだ。

猪に噛まれ、腐った鹿を追いかけ、最後には蛆まみれになった。

今はまだ働きたくない。

新しく稼ぐより、残った金をなるべく長く持たせる方が楽だった。

もう一度料金表を見て、そのまま次回予約をするつもりだった。

無理だ。

「金って、こんなになくなるの早いの……?」

紙幣なのがよくない。

セラキアの硬貨なら、袋が軽くなるから払った実感がある。

セグルの金は薄い紙なので、何枚渡しても大したことがないように見える。

俺が悪いのではない。

紙幣が悪い。

◇

一度アパートへ戻り、残った金を寝台の上へ並べた。

節約すれば、一か月ほど働かずに暮らせる額は残っている。

家賃や借金の返済分はすでに払っているから心配ない。

ただし、酒や肉はしばらく諦めた方がよさそうだった。

寝台の端には蜜柑が残っている。

「最悪、これ食えばいいか」

夕方になり、腹が減った。

部屋で蜜柑だけを食べるのは、さすがに寂しい。

俺は残金の中から小額紙幣を一枚取り、外へ出た。

屋台通りを端から端まで歩き、一番安い店を探す。

串肉。

高い。

焼き魚。

高い。

具の多い汁麺。

美味そうだが高い。

結局、刻んだ野菜だけを包んだ蒸し饅頭を二つ買った。

肉まんより安い。

夕飯としては物足りないが、蜜柑よりはましだ。

屋台通りの先には広場があった。

いくつもの長椅子と卓が置かれ、仕事帰りらしい獣人たちが買った料理を食べている。

家族連れ。

仕事仲間らしい集団。

肩を寄せ合って座る男女。

空いている長椅子を見つけ、端へ腰を下ろした。

蒸し饅頭の包みを開く。

隣の卓から楽しそうな笑い声が聞こえた。

別に、一人で食べるのは悪いことではない。

俺は一人が好きなのだ。

今までだって、一人で飯を食うことくらい何度もあった。

ただ、何もせず一人で座っていると、友達がいない奴みたいに見える。

俺は鞄から一冊の本を取り出した。

女神様から貰った、中学生向けの魔法教科書だ。

こうして本を開いていれば、一人で寂しく夕飯を食べているのではなく、勉強のために一人の時間を使っているように見える。

我ながら頭がいい。

適当な頁を開く。

『蓄積量と変換効率の関係』

図と数字が並んでいた。

読む気にはならない。

教科書へ目を落としたまま、蒸し饅頭をかじる。

野菜しか入っていない。

やはり肉まんにすればよかった。

「人間さんにゃ~♡」

すぐ横から声がした。

顔を上げる。

明るい赤茶色の髪をした猫の少年が、長椅子の前に立っていた。

大きな猫耳は付け根が広く、尖った先端には長い飾り毛が生えている。首には、白い飾り縫いの入った黄緑色の細い首輪が巻かれ、正面には小さな金色の花飾りがついていた。腰の後ろでは、狐と見間違えそうなほどふさふさした尾が揺れている。

毛の色はヴァルに少し似ている。

だが、高身長のヴァルと比べると、身体はずっと小さい。

肩も腰も細く、顔にはまだ幼さが残っている。

十七、八歳。

下手をすれば、もう少し下かもしれない。

少年は片手に、小さなビール瓶を持っていた。

「何してるにゃ? 隣座っていいにゃ?♡」

「お前、それ飲んでいいの?」

「いいにゃ」

「子供だろ?」

少年の大きな耳が、ぴくりと動いた。

「子供じゃないにゃ。僕はちゃんと大人にゃ♡」

「嘘つけ。どう見ても高校生くらいだろ」

「コーコーセーが何か知らないけど、僕は今日もお仕事してきたにゃ」

「仕事?」

「接触店にゃ。お客さんとお話ししたり、抱っこしたり、なでなでしてもらったりするにゃ♡」

言いながら、少年は俺の返事を待たずに隣へ座った。

ビール瓶へ口をつけ、美味そうに喉を鳴らす。

本当に酒を飲み慣れている。

「じゃあ、本当に成人してるのか」

「最初からそう言ってるにゃ」

少年は俺が開いている教科書を覗き込んだ。

「人間さん、お勉強してるにゃ?」

「まあな」

「偉いにゃ~♡」

「そうだろ」

「それ、子供が読む本にゃ~」

「……」

知っていた。

女神様が「中学生向け」と言って渡してきた、この世界で実際に使われている教科書なのだから。

「別にいいだろ。基礎から勉強してるんだよ」

「お仕事しながら子供の本で勉強するなんて、もっと偉いにゃ♡」

馬鹿にしている様子はなかった。

本気で感心しているらしい。

少年はまたビールを飲む。

ふさふさした尾が長椅子の背を越え、俺の腕へ触れた。

柔らかい。

「人間さん、お名前なんていうにゃ?」

「拓海、佐藤拓海」

「サトータクミ?」

「ああ」

「そっか~。じゃあ、たっくんだにゃ♡」

「どこからそうなったんだよ」

「僕はロロにゃ。たっくんは、僕のことロロって呼んでいいにゃ♡」

「そっちはそのままなのかよ」

「ロロはかわいい名前だから、そのままでいいにゃ」

改めて見直すと、確かに整った顔をしていた。

セグルへ来てから美男美女は何人も見ているが、その中でもかなり上だ。

ただ、男として格好いいというより、どう見ても可愛いという言葉の方が似合う。

大きな黄緑色の目。

先端に飾り毛のある猫耳。

細い顎。

ふわふわした赤茶色の尾。

本人も自覚しているらしい。

「ずいぶん自信あるな」

「僕はかわいいにゃ♡」

「自分で言うのか」

「かわいいのに、かわいくないって言う方が嘘つきにゃ」

ロロは当然のことを教えるように言った。

それから、猫耳を俺の方へ傾ける。

「なでなでしてもいいにゃ♡」

「俺が?」

「嫌ならしなくてもいいにゃ。でも、僕の毛はすごく気持ちいいにゃ~」

そこまで言われると、少し気になる。

俺は蒸し饅頭を包み紙へ戻し、手の汚れを拭いた。

恐る恐る、ロロの頭へ手を伸ばす。

明るい赤茶色の髪は柔らかかった。

耳と耳の間を撫でる。

大きな猫耳が伏せられ、ロロが俺の手へ頭を押しつけてきた。

「そこ好きにゃ♡」

「本当に猫みたいだな」

「猫にゃ」

耳の付け根へ指を入れる。

飾り毛が手の甲へ触れた。

ロロの喉から、小さく震えるような音が聞こえる。

ふさふさの尾が、上機嫌に長椅子を叩いていた。

男の頭を撫でて、何が楽しいのか。

そう思っていたはずなのに、不思議と嫌ではなかった。

柔らかな毛へ指を通していると、さっきまで胸の中に残っていた寂しさが少し薄くなった。

猫を撫でると落ち着くという話を、前世で聞いたことがある。

獣人でも同じらしい。

「たっくん、なでなで上手にゃ♡」

「さっきミアちゃんにも同じこと言われた」

「ミアちゃん?」

「俺の彼女になるかもしれない猫耳美少女」

「そうなんだにゃ~」

ロロは興味があるのかないのか分からない返事をした。

詳しく聞こうともしない。

代わりに俺の肩へ頭を預け、そのままビールを飲んだ。

距離が近い。

男同士なのに近すぎる。

だが、ロロはまったく気にしていないようだった。

「お前、誰にでもこうなの?」

「気分にゃ♡」

「今日は?」

「たっくんを見つけたから、くっつきたい気分になったにゃ」

「そ、そう」

変な奴だ。

それでも、嫌な奴ではなさそうだった。

◇

ロロはビールを飲み終えると、大きな欠伸をした。

「僕、眠くなったから帰るにゃ♡」

「急だな」

「眠い時に寝ないと、もっと眠くなるにゃ」

「当たり前だろ」

ロロが長椅子から立ち上がる。

ふさふさした尾を揺らしながら、俺へ振り返った。

「僕は仕事帰り、いつもここ通るにゃ♡」

「そうなのか」

「たっくんが会いたいなら、またいつでも会えるにゃ~」

「別に会いたいとは――」

「またにゃ~♡」

最後まで聞かず、ロロは屋台通りの向こうへ歩いていった。

赤茶色の大きな尾が、人混みの中へ消えていく。

「なんだったんだ、あいつ……」

長椅子には、俺一人が残された。

開いたままの教科書へ目を落とす。

『蓄積量と変換効率の関係』

ロロが来る前と、同じ頁だった。

結局、一文字も読んでいない。

残っていた蒸し饅頭をかじる。

冷めていたが、さっきよりは不味く感じなかった。

「……明日もここで食うか」

別に、ロロに会いたいわけではない。

この辺りの屋台が安いからだ。

それだけだった。

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