腐った鹿を見つけたのは、火曜日だった。
それから水曜と木曜の二日間、俺たちは何も見つけられなかった。
朝から山へ入り、満タンに近い忌避液のタンクを背負って歩く。
湿った倒木。
獣の足跡。
腐りかけた兎。
何かを埋めたような土の盛り上がり。
エルマは見つけるたびに調べたが、どれにも目的の原生生物はいなかった。
初めての採取が二日目だったせいで勘違いしていた。
あれは本当に運がよかったらしい。
◇
金曜日。
俺たちは小屋を出て、森の外縁にある集合地点へ向かった。
エルマは火曜日に採取した保管筒を背負っている。
目的地へ着くと、ほどなくして街道の向こうから馬車が現れた。
「帰れる……!」
久しぶりに見る馬車だった。
屋根がある。
座席がある。
歩かなくても街まで運んでくれる。
俺は馬車の後ろへ回り、乗り込もうとした。
「何をしている!」
ベルンに襟を掴まれた。
「何って、帰るんだろ?」
「検体を引き渡すだけだ!」
「街へ戻らないの!?」
「戻るのは馬車だ!」
馬車から降りた補給員たちは、挨拶もそこそこに荷物を降ろし始めた。
一週間分の食料。
薬品。
新しい生体保管筒。
吸収布。
撮影用の資材。
そして忌避液。
「この馬車、今日中に街へ戻るんですか?」
「当たり前だろうが!」
「一晩くらい、ここに置いておけばいいのに」
「竜圏で馬を繋いで寝る馬鹿がいるか! 食われるぞ!」
ベルンが怒鳴った。
馬車を引いている二頭の馬は、周囲の臭いを気にするように何度も鼻を鳴らしている。
補給員も長居する気はないらしい。
エルマから検体の入った保管箱を受け取ると、代わりに空の容器と書類を渡した。
「第一例、状態良好。次の定期便で途中結果を送ります」
「了解しました。竜の目撃報告は?」
「なし」
「街道北側で大型種の飛翔痕が確認されています。次週の補給時刻が変更される場合は、番所へ伝令を出します」
補給員はそれだけ告げ、急いで馬車へ戻った。
「待って! せめて俺だけ乗せていってくれ!」
「佐藤! 荷物を運べ!」
馬車は土煙を上げて去っていった。
俺の前には、補給された物資が積まれている。
この数日で食べた分だけ、荷物は少しずつ軽くなっていた。
その減った分が、全部戻ってきた。
「忌避液、まだ残ってますけど」
「次の個体が大型かもしれん。満量まで補充する」
エルマが、俺のタンクへ新しい忌避液を注ぎ始めた。
「また満タンにするの!?」
「足りなくなるよりいい」
帰り道。
俺の荷物は、一週目とほとんど同じ重さになっていた。
むしろ、新しい食料を多めに受け取った分だけ重い気がした。
◇
土曜日、成果なし。
日曜日、成果なし。
月曜日、成果なし。
毎日、山を歩いた。
ベルンは空と地面を見ながら先頭を進み、エルマは湿地や死骸を調べる。
オスカーさんは高価な研究機材を背負い、俺は壊れない代わりに重いタンクを背負う。
歩く。
登る。
下る。
何も見つからない。
月曜の昼過ぎ。
前方の藪から、一頭の鹿が飛び出した。
ものすごい速さだった。
斜面を駆け下り、木の幹へ身体をぶつけても、まったく速度を落とさない。
ベルンが背負っていた猟銃を構えた。
乾いた音が、森へ響いた。
鹿の頭が跳ね、そのまま地面へ転がった。
「すごい!」
一発だった。
ベルンは倒れた鹿へ近づかず、その場所を地図へ書き込んだ。
近くの枝には、赤い布を結ぶ。
「回収しないのか?」
鹿肉なら、しばらく食料になる。
だが、誰も鹿へ近づこうとしなかった。
エルマは地図を確認し、オスカーさんは何事もなかったように歩き始める。
俺も少し考えた。
そして分かった。
俺たちが探している原生生物は、動物の死骸へ入り込む。
ならば、先に鹿を殺して森へ置いておけばいい。
そのうち原生生物が寄生し、採取対象になるかもしれない。
「なるほどな……」
頭がいい。
さすが経験者だった。
◇
火曜日にも、鹿が一頭現れた。
前脚を引きずりながら、それでも不自然な速さで走っている。
ベルンが頭を撃ち抜いた。
また地図へ位置を書き込み、赤い布を結ぶ。
「多いな……」
ベルンが低く呟いた。
「そうなんですか?」
「森なら珍しくはない。だが、この区画で二日続けて見るとはな」
それ以上、誰も気にしなかった。
原生生物用の死骸が増えた。
これで仕事が早く終わるかもしれない。
俺は少しだけ希望を持った。
◇
水曜日。
成果がないまま、一週間が過ぎた。
その日、俺たちは小屋から北東の沢へ向かっていた。
ベルンが先頭。
その後ろにエルマ。
俺とオスカーさんが続く。
満タンのタンクが、歩くたびに背中で揺れた。
「今日も見つからなかったら、もう鹿のところを見に行けばいいんじゃないですか?」
「何の話だ」
エルマが振り返った。
「いや、なんでもない」
まだ寄生していないのだろう。
専門家には専門家の判断がある。
その時、すぐ横の藪が大きく揺れた。
「止まれ!」
ベルンが叫ぶ。
間に合わなかった。
黒い塊が、藪を突き破って飛び出した。
イノシシだった。
大きい。
速度を落とさず地面を蹴り、真っ直ぐ俺へ突っ込んでくる。
「えっ――」
避ける暇もなかった。
イノシシの頭が太腿へぶつかり、俺は地面へ倒れた。
次の瞬間、強い力で脚を挟まれた。
「いっっっったあああああ!!」
牙が服を突き破り、肉へ食い込む。
噛みついたイノシシは、俺を引きずるでも、食いちぎるでもなかった。
一度だけ強く顎を閉じると、すぐに離した。
そのまま別の藪へ走り去ろうとする。
「伏せろ!」
すでに倒れている。
銃声が響いた。
イノシシの頭が弾けるように揺れ、身体が地面へ転がった。
四肢が何度か激しく動き、それから止まる。
「佐藤くん!」
オスカーさんが駆け寄ってきた。
「脚! 脚を噛まれた!」
「見せて!」
オスカーさんが俺のズボンを裂いた。
太腿に、牙の跡が並んでいる。
一部は皮膚が裂け、血が流れていた。
「血が! 死ぬ!」
「これくらいでは死なない!」
ベルンが救急箱を持ってきた。
「水! 洗浄剤! 早くしろ!」
傷へ大量の水をかけられた。
「痛い痛い痛い!」
「動くな!」
「傷に水入ってる! 絶対入ってる!」
「入れてるんだ!!」
さらに刺激の強い薬をかけられた。
噛まれた時より痛い。
「いっっっっったああああ!!」
「騒ぐな!」
「痛いんだから仕方ないだろ!」
ベルンは俺の傷を指で押し、脚を曲げさせた。
「骨は無事。腱も切れていない。大きな血管も外れている」
「でも血が出てる!」
「皮膚が裂ければ血くらい出る!」
エルマがイノシシの死骸を遠くから確認していた。
「新鮮だな。死後一日以内。神経駆動型で間違いない」
「死後?」
「そのイノシシは死んでいる」
「死んでるのに、あんなに速く走ったの!?」
「魔法破傷風だ。講習で説明しただろう」
聞いた覚えがない。
「四種混合は接種済みだな?」
「打った! 十日も待たされた!」
「なら感染の可能性は低い。抗菌薬も飲ませろ」
オスカーさんが救急箱から薬を取り出した。
「これ、飲んで。水もゆっくりね」
「オスカーさん……」
「怖かったねぇ。もう大丈夫だから」
やっぱりオスカーさんだけが優しい。
「まだ処置は終わってないぞ」
ベルンが、目盛りのついた細長い資材を取り出した。
傷を一度見てから、その端をほんの少しだけ切る。
「動くな」
「今度は何するの?」
「閉じる」
ベルンが、切り取った資材を傷へ押し当てた。
短い言葉を唱える。
次の瞬間、資材そのものが細かな粒となって消えた。
傷の周囲が熱くなる。
裂けていた皮膚の両側が、ゆっくりと伸びた。
薄い膜を挟んで互いへ寄り、赤い線を残して貼りついていく。
流れていた血が止まった。
「回復魔法だ!」
痛いのも忘れて、俺は身を起こした。
「今の、魔法だろ!?」
「傷を閉じただけだ」
「ついに異世界らしい魔法を――痛っ!」
脚を動かした瞬間、太腿の奥へ鋭い痛みが走った。
「まだ痛いんだけど!?」
「当たり前だ! 治してねえんだからな!」
「傷、塞がっただろ!」
「皮膚を寄せて貼りつけただけだ! 中の噛み傷まで消えるか!」
「全回復とかしないの!?」
「そんな難しい魔法、俺にできるか!! 筋肉も血管も神経も、全部構造が違うんだぞ! 元通りに治したけりゃ医者を連れてこい! 俺は竜監視員だ!!」
「じゃあ痛みは!?」
「薬を飲んで我慢しろ!」
横で見ていたオスカーさんが、感心したように息を吐いた。
「いやぁ~、ベルンさんはやっぱり熟練してるなぁ~。僕だったら心配で、今の倍は使っちゃうもんなぁ」
エルマまで頷いた。
「閉鎖量に対して余剰がほとんどない。相変わらず資材の見積もりが正確だな」
「なんでみんな感心してんの!? 俺はまだ痛いんだけど!!」
「傷は閉じただろうが!」
「もっと資材を使えば、痛みも消えたんじゃないの!?」
「同じ術に倍突っ込んでも、余った分が消えるだけだ!!」
「おつりとかないの!?」
「ない!! 基礎から勉強し直せ!!」
教科書には、そんなことが書いてあった気もする。
流し読みした章に。
◇
ベルンは、撃ったイノシシの位置を地図へ書き込み、近くの枝へ赤い布を結んだ。
「前の鹿も、魔法破傷風だったのか?」
「他に何だと思っていた」
「ベルンさんが狩りをしてるのかと」
「なら、なぜ回収しない」
「そこは俺も疑問だったんだけど……」
三人が俺を見る。
「死骸を森へ置いておけば、原生生物が寄生するだろ?」
誰も何も言わない。
「そうしたら採取対象が増えて、仕事が早く終わる。そういう作戦かと思ってた」
沈黙が続いた。
ベルンの顔が、少しずつ赤くなった。
「俺が感染死骸を森で養殖していると思っていたのか!!」
「養殖っていうか、餌を用意してるのかなって」
「位置を記録して、回収班へ報告してるんだ!! 誰が好き好んで感染死骸を増やすか!!」
エルマが、信じられないものを見るように俺を見ている。
「お前は十日間の講習で、何を聞いていた?」
「大事なところは聞いた」
「魔法破傷風は、最も大事なところの一つだ!」
「途中でちょっと眠かったんだよ!」
「寝ていたのか!!」
「耳では聞いてた!」
「聞いてないから噛まれたんだろうが!!」
ベルンとエルマに同時に怒鳴られた。
「佐藤くん」
オスカーさんが、俺の肩へ優しく手を置いた。
「変だと思ったら、今度から一回聞こうねぇ」
「はい……」
◇
その日の調査は中止になった。
帰り道は、オスカーさんが忌避液のタンクを背負ってくれた。
俺は脚を引きずりながら小屋へ戻った。
傷は塞がっている。
血も出ていない。
骨も腱も無事らしい。
だが、痛いものは痛い。
夜になると、噛まれた場所の周囲が大きく腫れた。
オスカーさんが何度も熱を確かめ、薬を飲む時間も教えてくれた。
温かい飲み物まで作ってくれる。
「怖かったねぇ~」
「いきなり藪から出てきたんですよ……」
「うんうん」
「噛まれたし、ベルンさんは怒鳴るし、回復魔法も全然回復しないし……」
「痛かったねぇ~」
オスカーさんが、俺の背中をゆっくり撫でた。
「でも、ちゃんと小屋まで歩いたんでしょ。偉いよ~」
「身体だけは丈夫だから……」
「明日も痛かったら、無理しなくていいからね」
優しくされると、また涙が出た。
俺は異世界へ来てから、各地で肉体労働に従事する中年男性へ泣きついてばかりいた。
◇
翌朝。
傷は昨日より痛かった。
皮膚は閉じているが、噛まれた周囲が青黒く腫れている。
脚を下ろすだけで、ずきずきする。
「今日は無理です」
俺は寝台へ横になったまま宣言した。
ベルンが傷を見た。
熱を確認し、脚を曲げさせる。
「問題ない。歩ける」
「痛いって言ってるだろ!」
「男だろ! 我慢しろ!! そういう仕事だ!!」
「今の時代、そういう言い方は問題になるぞ!」
「ここは森だ!!」
「森なら何を言ってもいいのかよ!」
「嫌なら次の補給日に帰れ! このクソガキ!!」
次の補給日は明日だった。
馬車へ乗れば、街へ帰れる。
二週間分の日当は支払われる。
だが、それだけだ。
借金を返せば、来月の家賃と食費が足りなくなる。
家賃と食費を優先すれば、借金を返せない。
どちらも払えば、遊ぶ金がなくなる。
それは困る。
「……帰らない」
「なら支度しろ!」
「傷が痛いんだよ!」
「そういう仕事だ!!」
オスカーさんが、満タンのタンクを俺の背中へ載せた。
「昨日よりゆっくり歩こうねぇ。痛くなったら、すぐ言って」
「ありがとうございます……」
「甘やかすな、オスカー!」
「噛まれた翌日くらいいいじゃないですか~」
俺は足を引きずりながら、小屋の外へ出た。
傷は痛い。
山は険しい。
タンクは重い。
それでも、金が足りない。
今日も仕事へ行くしかなかった。
