第35話 美少女メイドが名前を覚えてくれていた!

肩を揺すられた。

「人間さん。朝でございます」

目を開ける。

すぐそばに、巻き角の美少女メイドが立っていた。

クレールだ。

昨日と同じ濃い色の使用人服に、白いエプロン。

ふわふわと細かく巻いた長い髪も、両側から綺麗に編まれ、後ろで丸くまとめられている。

服にも髪にも、一つも乱れがない。

「朝……?」

「間もなく朝のお仕事が始まります。ご朝食をご用意しておりますので、起きてください」

もう仕事なのか。

窓の外は明るくなり始めたばかりだ。

俺は身体を起こした。

「痛っ」

腕が痛い。

肩も腰も痛い。

昨日、本を運び続けたせいだ。

一晩寝れば治ると思っていたのに、昨日より痛くなっている。

椅子に掛けた上着を取ろうとして、手が止まる。

そういえば、これは借りた使用人服だ。

「俺が昨日着てきた服は?」

「洗浄して、洗濯室に干してございます」

「洗ってくれたの?」

「はい。書籍の埃で汚れておりましたので」

無料で洗濯までしてくれたのか。

さすが貴族の家。

「もう乾いてる?」

「まだでございます」

じゃあ、これを着るしかない。

まあ、別にいい。

こっちの方が執事っぽくて格好いいし。

俺は顔を洗い、上着を着た。

クレールについて寝室を出る。

廊下の途中で、扉の開いた洗濯室が見えた。

昨日着てきた服が、他の洗濯物と一緒に干されている。

裾から、まだ水が滴っていた。

本当に洗われてる。

帰る頃には乾いているだろう。

クレールが、その先にある部屋の扉を開けた。

中には長い卓と椅子が並んでいた。

壁際には大きな鏡があり、その前に羊の美少女メイドたちが集まっている。

クレール以外の六人だ。

全員、もう濃い色の使用人服を着ていた。

でも、昨日見た姿とは少し違う。

長い髪を背中へ下ろしたままの子。

椅子に座り、後ろから髪を編んでもらっている子。

二人で向かい合い、互いの襟と袖を確かめている子。

白いエプロンの紐を、後ろから結んでもらっている子。

窓から入る薄い朝の光の中で、長く巻いた髪と羊耳がゆっくり揺れていた。

小さな声で何かを話し、時々笑っている。

朝から何だ、これ。

美少女メイドが、美少女メイドの髪を結っている。

ずっと見ていられる。

何人かが俺を見た。

でも、すぐに鏡や目の前の相手へ視線を戻した。

「人間さん。ご朝食はこちらです」

クレールが卓の端を示す。

そこには、一人分とは思えない量の料理が並んでいた。

大きなパン。

湯気の立つ穀物の粥。

豆を煮たもの。

柔らかそうな根菜。

葉野菜の皿。

果物の砂糖煮。

温かい飲み物まである。

「結構豪華じゃん!」

ニカンドラと同じ食事ってわけにはいかないだろう。

でも、俺一人のためにこれだけ用意してくれたら十分だ。

ちゃんと客として扱ってくれているらしい。

「冷めないうちにお召し上がりください」

「いただきます!」

椅子へ座り、粥を口へ入れる。

温かい。

普通にうまい。

昨日の夜、全然食べられなかったのが嘘みたいに喉を通る。

やっぱり、あれはニカンドラが怖すぎただけだ。

パンをちぎり、豆を載せて食べる。

食べながら、鏡の前を見る。

一人の女の子が、椅子へ座った子の髪を三つに分けている。

細かく巻いた髪を指で梳き、羊耳と巻き角の間を通して、ゆっくり編んでいく。

隣では、エプロンを結び終えた二人が、今度は互いの肩についた毛を取っていた。

楽しそうだ。

でも、ロロたちがシェアハウスでじゃれ合っていた時とは何か違う。

騒いでいるわけでも、抱きついているわけでもない。

小さく笑いながら、静かに手を動かしている。

なんか、いい。

俺はパンを口へ入れたまま、その様子を眺めた。

卓の反対側に、まだ髪を結っていない女の子がいた。

他の六人より、少しだけ若く見える。

長い髪を下ろし、巻き角の間から羊耳を覗かせていた。

黒目がちの大きな目。

長いまつげ。

その子が俺を見る。

目が合った。

女の子は少し微笑んだ。

「おはようございます。拓海さん」

「えっ」

俺の手が止まる。

「名前、覚えてたの?」

「リゼット、こちらへ」

別の羊のメイドが呼んだ。

「はい」

女の子はすぐに立ち上がり、そちらへ歩いていった。

リゼット。

かわいい名前だ。

リゼットは先輩らしいメイドの前にある椅子へ座った。

背中へ流れていた長い髪が持ち上げられ、二つに分けられていく。

先輩が何か小さく言う。

リゼットは鏡を見たまま、声を立てずに笑った。

それからは、一度も俺の方を見なかった。

まあ、あとで話せばいいか。

俺はまた朝食へ戻る。

食べても、全然減らない。

品数が多すぎる。

でも、残すのも悪い気がする。

俺は粥を食べ、根菜を食べ、またパンをちぎった。

その間にも、羊の女の子たちの髪が次々と結われていく。

背中へ流れていた髪が編まれ、巻き角の周りを通り、後ろでまとめられる。

曲がっていた襟が直される。

白いエプロンの紐が結ばれる。

最後に、互いの姿を鏡で確かめる。

「お時間です」

クレールが言った。

小さな話し声が止まった。

女の子たちが一斉に立ち上がる。

ついさっきまで髪を結い合っていたのに、もう昨日と同じ、隙のない美少女メイドたちになっていた。

すごい。

本当に、急に全員メイドになった。

俺も残っていた果物の砂糖煮を急いで口へ入れ、立ち上がった。

朝食は少し残った。

量、多すぎだろ。

クレールが俺を見る。

「人間さん。襟が曲がっております」

「あ、はい」

言われたとおり、襟を直す。

クレールは全員を見回した。

「参りましょう」

七人の羊の美少女メイドが、揃って部屋を出る。

俺もその後についていった。

男性用の使用人服を着て、美少女メイド七人と一緒に貴族の屋敷を歩く。

こうしてると、俺もこの屋敷の執事みたいだ。

悪くない。

廊下の途中で、クレールが足を止めた。

「人間さんはこちらです」

指された先は、昨日、本を運んでいた執務室だった。

「みんなは?」

「これより、お嬢様のお目覚めとお支度がございます」

「俺は?」

「昨日の続きをお願いいたします」

俺だけ?

羊の女の子たちは、そのまま廊下の奥へ進んでいく。

リゼットも列の中にいた。

一度もこちらを振り返らない。

クレールが執務室の扉を開ける。

昨日の本が、まだ床や箱の中に残っていた。

「配置は昨日と同様でございます」

「はい……」

クレールも羊たちの後を追っていった。

扉が閉まる。

広い部屋に、俺一人だけ残された。

朝からこれかよ。

俺は床に残っていた本へ手を伸ばす。

一冊持ち上げる。

軽いはずなのに、腕が痛かった。

本を棚へ入れる。

戻る。

また持ち上げる。

昨日と同じ作業を、一人で続ける。

しばらくして、廊下の向こうから足音が聞こえた。

扉が開く。

先頭にクレール。

その後ろに、昨日と同じ隙のない姿へ整った六人の羊のメイドたち。

そして最後に、ニカンドラが入ってきた。

首元と肩を覆う銀灰色の毛皮。

整いすぎた顔。

俺を見ると、綺麗な唇に笑みを浮かべる。

太い牙が覗いた。

昨日の夕食を思い出し、身体が少し固くなる。

「おはようございます、人間さん。よくお休みになれたかしら?」

「は、はい」

「それは、よかったですわ♡」

ニカンドラが書棚の方を見る。

「では、今日も続きをお願いしますわね♡」

「承知いたしました」

クレールが頭を下げる。

ほかの六人も一斉に礼をした。

「では、皆は通常の仕事へお戻りなさい」

「はい」

羊の女の子たちは、そのまま部屋を出ていった。

リゼットも列の最後についていく。

朝は名前で呼んでくれたのに、やっぱり一度もこっちを見なかった。

残ったのは、俺とクレールとニカンドラだけだった。

昨日より人数が少ない。

なのに、全然気楽じゃない。

俺は次の本へ手を伸ばした。

腕が痛い。

本を持ち上げるたび、肩の奥まで重く響く。

「人間さん。そちらは上から二段目でございます」

「はい」

クレールの指示に従って、本を棚へ入れる。

戻る。

次を持つ。

ニカンドラは大きな机に座り、書類へ目を通していた。

何もしてこない。

何もしてこないのに、気になる。

紙をめくる音がするたび、なんとなくそっちを見てしまう。

「人間さん」

「はいっ」

声をかけられて、肩が跳ねた。

ニカンドラがこちらを見ている。

「そちらの赤い本、机へお願いできます?」

「あ、はい!」

急いで持っていく。

机へ置くと、ニカンドラは満足そうに微笑んだ。

太い牙が少し見えた。

「ありがとうございます♡」

「いえ……」

怖い。

ただ本を渡しただけなのに。

俺はまた棚へ戻った。

それからも、クレールに言われた場所へ本を運び続けた。

昨日より残りは少ない。

箱が一つ空になる。

次も空になる。

床に積まれていた本も減っていく。

最後の一冊を棚へ入れた。

「……終わった」

思わず声が出た。

クレールが棚を見渡す。

「はい。書籍は以上でございます」

終わった。

本当に終わった。

もう重い本を運ばなくていい。

俺は両腕を下ろした。

筋肉痛でじんじんする。

でも、達成感がすごい。

「お疲れさまでしたわ、人間さん♡」

ニカンドラが笑う。

「ありがとうございます!」

やっと一つ終わった。

二日間ずっとこれだったから、仕事まで全部終わったような気分になる。

クレールが俺を見る。

「では、人間さん。次の作業へ参りましょう」

「え?」

次?

◇

連れてこられたのは、厨房の近くにある食器室だった。

壁一面に棚が並び、まだ開けられていない木箱がいくつも置かれている。

その前に、羊の女の子が一人立っていた。

朝の子だ。

リゼット。

俺はちょっと嬉しくなった。

「リゼットちゃん!」

リゼットがこちらを見る。

「人間さん」

人間さんに戻ってる。

「こちらの食器を、種類ごとに棚へ収めていただきます」

クレールが箱を示した。

「食器?」

「はい。細かな器は労働種より人間の方が扱いやすいため、人間さんにお願いいたします。リゼットが配置をご案内いたします」

なるほど。

今度は重いものじゃない。

助かった。

「それなら余裕です!」

俺はしゃがんで、一番上の箱を開けた。

中には布で一つずつ包まれた小さなグラスが並んでいる。

一つ取る。

細い脚。

透明なガラスに、細かな模様が彫られていた。

光に当てると、きらきらする。

「うぇ……高そう……!」

急に持ち方がわからなくなった。

脚を持つべきか。

底を持つべきか。

両手で包んだ方がいいのか。

「リゼットちゃん、これいくらするの!?」

リゼットは少しだけ考えた。

「……人間さんの本日の日給くらいでしょうか」

「一個で!?」

「はい」

手の中のグラスが急に重くなった気がした。

軽い。

めちゃくちゃ軽い。

なのに落とせない。

昨日からの筋肉痛で、腕が微妙に震えている。

「ちょ、待って。俺、今めっちゃ腕プルプルしてるんだけど」

「存じております」

「知ってるならこれ持たせる!?」

リゼットは不思議そうに瞬きをした。

「ですが、人間さんの方が適任ですので」

そういう問題かよ。

額から変な汗が出てきた。

「ど、どこ?」

「そちらの棚の、上から三段目でございます」

上から三段目。

俺はゆっくり立った。

腕を上げる。

ぷる、と手が震えた。

「話しかけないでね。今、絶対話しかけないでね」

「はい」

一歩。

二歩。

棚の前まで行く。

そっと置く。

指を離す。

グラスは無事だった。

「ふぅ……!」

重い本を棚へ入れた時より疲れた。

振り返る。

リゼットが、次の包みをもう手に取っていた。

「こちらも同じ場所でございます」

「まだあるの!?」

箱の中には、同じグラスがずらっと並んでいた。

俺はもう一度、変な汗を拭った。

それからも、同じグラスを一つずつ棚へ運び続けた。

持ち上げる。

歩く。

置く。

息を吐く。

一個置くたびに、手のひらの汗を服で拭った。

やっと箱が空になる。

次の箱を開けると、今度は皿だった。

グラスよりは持ちやすそうだ。

縁に細い金色の模様が入っているけど、値段は聞かない方がいい。

俺は黙って皿を持ち上げた。

◇

「人間さん。お昼のお時間でございます」

リゼットに声をかけられ、俺は持っていた皿を棚へ置いた。

「やっと!」

腕だけじゃなく、指まで疲れている。

リゼットについて食器室を出る。

連れていかれたのは、朝飯を食べた部屋だった。

長い卓の脇に、料理が並んでいる。

籠いっぱいのパン。

葉野菜と根菜が入った大きなサラダ。

蓋の開いた鍋からは、温かそうなスープの湯気が立っていた。

その隣には、焼いた肉が大皿に山盛りになっている。

「これ、好きに取っていいの?」

「はい。お好きなものをお取りください。お食事が済みましたら、食器室へお戻りください」

食べ放題じゃん。

朝飯も豪華だったけど、昼飯までこれか。

さすが貴族の屋敷だ。

「リゼットちゃんは食べないの?」

「午前の業務が残っておりますので、後ほどいただきます」

「そっか……」

一緒に食べられると思ったのに。

リゼットは小さく頭を下げ、そのまま部屋を出ていった。

でも、食堂にはもう一人いた。

白い上着に、腰から膝下まで垂れる白い前掛け。

髪は顎のあたりで、きれいに切り揃えられている。

頭の上には、柔らかそうな猫耳。

猫耳の女の子だ。

制服を着ていたら、高校生でも通りそうな幼い顔をしている。

目尻は少し上がり、小さな唇も笑っているみたいに両端が上を向いていた。

すごく可愛い。

その子は小さな皿を持ち、焼いた肉を一切れ載せた。

俺に気づくと、猫耳がぴんと立った。

「あ、人間さんにゃ~」

「はい。引っ越しの手伝いで来てます」

「昨日からいる人間さんだにゃ~」

知ってるらしい。

女の子は俺の顔をじっと見ている。

羊の子たちとは、全然反応が違う。

「一緒に食べるにゃ~?」

「もちろん!」

リゼットちゃんがいなくなったのは残念だけど、これはこれで全然いい。

俺は皿を取った。

肉を二切れ。

パンも二つ。

サラダも取る。

深い器にスープをよそう。

好きに取っていいと言われると、つい多くなる。

猫の女の子は、パンを一つと少しのサラダ、それからスープを取った。

俺の半分もない。

二人で長い卓へ向かう。

椅子はいくらでも空いているのに、女の子は俺のすぐ隣の椅子を引いた。

近い。

すぐ横に猫耳がある。

「メイドさんじゃないんだ?」

白い服は、羊の子たちが着ているものとは違う。

「お菓子を作ってるにゃ~」

「パティシエ!?」

貴族の家には、専属のパティシエまでいるのか。

「今日は本邸から、お嬢様のお茶に出すお菓子を作りに来たにゃ」

「じゃあ、今から作るの?」

「生地はもう休ませてるにゃ~。食べ終わったら焼くにゃ」

なるほど。

だから、この子だけ時間どおり昼飯を食べているのか。

「何作るの?」

「柑橘を入れた、小さいバター菓子にゃ~♡菓子用の炉がまだちゃんと使えないから、今日は簡単なものだけにゃ」

簡単なもの。

貴族のパティシエが言う簡単なものって、どれくらいなんだろう。

女の子が俺を見る。

「人間さん、甘いもの好きかにゃ?」

「好き! めちゃくちゃ好き!」

「じゃあ、人間さんの分も焼くにゃ~♡」

「いいの!?」

「もちろんにゃ~♡」

やった。

昨日から散々な仕事だったけど、最後にいいことがあった。

俺は焼いた肉を口へ入れた。

柔らかい。

塩と香草の味がして、普通にうまい。

スープも温かい。

隣では、猫の女の子が小さくパンをちぎっている。

俺が肉へ手を伸ばすたび、猫耳だけが時々こちらへ向いた。

美少女のパティシエと二人で昼飯。

今日は朝から美少女メイドを眺めながら朝飯を食べて、昼は猫耳美少女と一緒だ。

仕事はきついけど、こういうところは悪くない。

俺は二切れ目の肉へ手を伸ばした。

◇

昼飯を食べ終え、食器室へ戻る。

リゼットはもう箱の前に立っていた。

「お食事はお済みですか?」

「うん。めちゃくちゃ食べた」

「では、続きをお願いいたします」

休ませてくれる気はないらしい。

俺はまた箱の前へしゃがんだ。

午前中に開けた皿の箱が、まだ半分残っている。

腕は痛いけど、昼飯を食べる前よりは少しだけましになっていた。

リゼットは棚の前に立ち、置く場所を教えてくれる。

「そちらは隣でございます」

「はい」

「次のものは、一つ下へ」

「はい」

昼からも、それをずっと繰り返した。

皿の次は、小さな器。

その次は、銀色のスプーンとフォーク。

まとめて置いてしまいたいのに、形が少しずつ違うせいで、全部分けなきゃいけない。

「これとこれ、同じじゃない?」

「異なります」

「どこが?」

「柄の模様が違います」

よく見る。

片方には葉っぱみたいな模様。

もう片方には花みたいな模様。

ほとんど同じだろ。

でも、間違えたらリゼットがすぐに見つける。

美少女と二人きりの仕事なのに、全然仲良くなる時間がない。

話しかけても、返ってくるのは置く場所だけだ。

俺は黙ってスプーンを分けた。

しばらくして、扉の外から甘い匂いがした。

猫耳が、開いた扉の端から覗く。

「二人とも~、おやつだにゃ~♡」

猫の女の子が、小さな皿を二枚持って入ってきた。

それぞれに、丸い焼き菓子が一つずつ載っている。

表面は薄い金色で、まだ少し湯気が立っていた。

「待ってました!」

リゼットも手を止める。

「ありがとうございます」

猫の女の子は、皿を一枚ずつ俺たちへ差し出した。

リゼットが俺を見る。

「食器室では、お召し上がりにならないでください」

「あ、はい」

俺たちは猫の女の子と一緒に廊下へ出た。

小さな焼き菓子を受け取る。

まだ温かい。

一口かじると、バターの味と一緒に、柑橘の甘い匂いが口の中へ広がった。

「うまっ!」

外側は少しだけ固くて、中は柔らかい。

簡単なものって言ってたのに、普通に店で売ってそうだ。

隣では、リゼットも焼き菓子を口へ運んでいる。

「おいしいです」

猫の女の子は満足そうに目を細めた。

「よかったにゃ~♡」

リゼットは俺より先に食べ終え、空になった皿を猫の女の子へ返した。

「ごちそうさまでした」

俺も残りを口へ入れる。

一つだけなのは惜しいけど、俺のためにも焼いてくれたんだから文句は言えない。

「ごちそうさま。めちゃくちゃうまかった!」

皿を返すと、猫の女の子の尻尾が嬉しそうに揺れた。

「じゃあ、ほかの子たちにも配ってくるにゃ~♡」

猫の女の子は厨房の方へ戻っていった。

俺とリゼットも食器室へ戻る。

リゼットは、すぐに次の箱を開けた。

「では、こちらをお願いいたします」

もう仕事に戻るのか。

少しくらい休ませてくれてもいいだろ。

俺は箱の中を見る。

今度は、取っ手のついた小さなカップが並んでいた。

また高そうだ。

値段は聞かない。

絶対に聞かない。

一つずつ持って、棚へ並べていく。

外から入る光が、少しずつ黄色くなっていった。

箱が空になる。

次の箱を開ける。

また空にする。

床に並んでいた箱が、一つずつ減っていく。

最後に残ったのは、銀色の小さな匙だった。

決められた引き出しへ並べる。

最後の一本を入れ、そっと引き出しを閉じた。

「終わった……?」

リゼットが棚と空箱を見回す。

「はい。すべて収まりました」

今度こそ、本当に終わった。

「よっしゃ!」

思わず両腕を上げようとして、肩が痛んだ。

「痛っ」

結局、重くないものでも一日仕事だった。

割らなかった。

一個も。

それだけで、ものすごいことをやり遂げた気分になる。

廊下から足音が近づいてきた。

クレールが食器室へ入ってくる。

リゼットから何か小さな声で聞き、棚の中を順番に確かめた。

「問題ございません。ご苦労さまでした、人間さん」

「じゃあ、もう帰っていい?」

「はい。お召し物も乾いております」

やっと帰れる。

◇

洗濯室には、俺が着てきた服が畳んで置かれていた。

昨日までついていた埃も汚れもない。

触ると、ちゃんと乾いている。

借りていた使用人服を脱ぎ、自分の服へ着替えた。

二日ぶりなのに、妙に久しぶりな気がする。

使用人服も格好よかったけど、こっちの方が楽だ。

畳んだ服をクレールへ返す。

「二日間、ありがとうございました」

洗濯までしてもらったし、飯も何度も食べた。

仕事に来たはずなのに、何だか世話になった気がする。

「お嬢様へご挨拶をお願いいたします」

まだニカンドラに会うのか。

帰れると思った途端、少しだけ身体が固くなった。

クレールについて執務室へ戻る。

本で埋まった書棚の前に、ニカンドラが立っていた。

俺たちが入ると、ゆっくり振り返る。

銀灰色の毛皮。

現実味がないくらい整った顔。

綺麗な唇が笑みを作り、その隙間から太い牙が覗いた。

昨日の夜のことを思い出す。

腹のあたりが、勝手に縮んだ。

「二日間、ご苦労さまでしたわ。人間さん♡」

「ありがとうございました!」

声が少し大きくなった。

ニカンドラが俺の前まで歩いてくる。

見上げる。

近くで見ると、やっぱりでかい。

「また、わたくしのところへ来てくださいますわよね♡」

断ったらどうなるんだろう。

黒い爪のついた指が、俺の肩へそっと触れた。

息が詰まる。

「はい!」

考える前に返事が出た。

「あら、うれしい♡」

ニカンドラが笑う。

牙が見える。

肩から指が離れた。

やっと息ができた。

「馬車をお待たせしております。お見送りいたします」

クレールが言った。

今度は置いていかれてない。

俺はニカンドラへもう一度頭を下げ、クレールと一緒に執務室を出た。

◇

屋敷の前には、馬車が停まっていた。

乗り込む前に振り返る。

クレールが扉の前に立っている。

その奥には、横へ長く続く屋敷。

窓のどこかに、羊の美少女メイドたちがいる。

リゼットもいる。

猫のパティシエもいる。

二日間ずっと働いて、筋肉痛になって、高そうな食器を何十個も運ばされた。

帰りの馬車に置いていかれ、知らない屋敷に泊まった。

ニカンドラには膝へ乗せられ、飯まで食べさせられた。

最後には、また来ると約束させられた。

散々だった。

でも、飯はうまかった。

服まで洗ってもらった。

美少女メイドを眺めながら朝飯を食べて、猫耳美少女の焼いた菓子まで味見した。

「……まあ、悪くなかったかも」

馬車が動き出す。

屋敷が少しずつ遠ざかっていく。

俺は座席へ深く座り、痛む腕を膝の上へ置いた。

次に呼ばれた時は、絶対に帰りの馬車の時間を先に聞こう。

そう思いながら、目を閉じた。

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