翌朝、腕が痛かった。
正確には、昨日からずっと痛かった。
ただ、昨日は寒いわ、鳥に食われかけるわ、ベルンに傷を洗われるわで、それどころじゃなかっただけだ。
目が覚めて、布団の中で少し腕を動かした瞬間。
「いっ……」
肩の外側から腕の奥にかけて、鈍い痛みが走った。
皮膚は閉じている。
血も出ていない。
見た目だけなら、赤い傷跡が残っている程度だ。
でも中は全然治っていない。
前と同じだ。
ベルンの魔法は、傷を閉じて血を止めるだけ。
中の傷まで治るわけじゃない。
分かってはいたけど、翌朝になると普通に痛い。
俺はしばらく布団の中でごろごろしてから起きた。
今日は帰る。
その前に、念のため医者へ行くことになっていた。
◇
カルヴェンを出る前に、腕と頭はちゃんと医者に診てもらった。
腕は骨も大きな血管も腱も問題なし。
中の傷が治るまでは無理に使うなと言われた。
頭も今のところ変な症状はない。
何かあったらすぐ医者へ行け、と念を押された。
俺は何度も頷いた。
今回は素直に従う。
痛いのは嫌だ。
帰りの移動は、行きよりずっと長く感じた。
腕をかばっていると姿勢が変になる。
馬車が揺れるたびに、昨日ぶつけたところまで痛む。
「もう外国の山なんてしばらくいい……」
誰にも聞こえない声で呟いた。
セグルへ戻った時には、見慣れた街並みだけでちょっと安心した。
看板も読める。
道も分かる。
知らない鳥に馬鹿と言われない。
「帰ってきた……」
たった数日しか離れていないのに、妙に懐かしい。
ただ、部屋へ戻る前にヴァルのところへ寄らないといけない。
今回の報酬は、現地で俺が直接受け取る契約じゃない。
依頼主からヴァルグレン契約代行社へ入って、そこから俺に精算される。
事務所へ行くと、ヴァルはいつものように書類を確認していた。
「二日分の日当、四万タサルですにゃ♡」
差し出された紙幣を見て、俺は少し安心した。
「途中で事故ったから減らされるかと思った」
「佐藤さんの規則違反ではありませんでしたから、減額はありませんにゃ」
「そこはちゃんとしてるんだな」
「契約ですからにゃ♡」
ヴァルはもう一枚、紙幣を足した。
「それと、業務中の負傷ですので、負傷手当が一万タサルついておりますにゃ♡」
「……一万タサル?」
「一万タサルですにゃ」
俺は紙幣と、自分のまだ痛む腕を見比べた。
鳥に食われかけて、山で凍えかけて、腕まで怪我した。
それで一万タサル。
「こんな思いして、一万かよ……」
「規定額ですにゃ♡」
何も貰えないよりはいい。
いいんだけど。
妙に具体的な値段をつけられると、かえって悲しい。
日当四万タサル。負傷手当一万タサル。
合計五万タサル。
二日で五万タサルなら、金額だけ見れば悪くない。
命を張ったつもりはない。
結果的に張っただけだ。
俺は荷物を置いて、しばらく何もしなかった。
本当に何もしなかった。
腕は痛いし、身体中まだ少しだるい。
働く気にもならない。
今日はもう休む。
そう決めた。
◇
夕方。
腹が減った。
腕を動かすとまだ痛むし、今日は近所で晩飯を済ませて、すぐ帰ることにした。
俺は財布を持って外へ出た。
向かったのは、いつもの屋台通りだ。
夕飯時で、人が増え始めている。
何を食べようかと店を見ながら歩いていると、聞き覚えのある声がした。
「たっくんにゃ~♡」
振り向く。
赤茶色の大きな猫耳が、人混みの向こうでぴんと立っていた。
「ロロ」
「たっくん、帰ってたにゃ~♡」
仕事帰りらしいロロが、嬉しそうにこっちへ来る。
「今日帰ってきた」
「鳥さん追いかけてきたにゃ?」
「追いかけてきたよ。というか――」
ロロがいつもの勢いで寄ってこようとして、俺の動きが止まった。
「待って待って!」
俺は慌てて片腕をかばった。
「こっち怪我してる!」
「にゃ?」
黄緑色の目が、俺の腕へ向く。
袖の下までは見えない。
でも、かばっているのは分かったらしい。
ロロの耳が少し傾いた。
「鳥さんに食べられたにゃ?」
「食べられてない!」
「怪我してるにゃ」
「嘴が刺さっただけ!」
「食べられてるにゃ~」
「食べられてないって!」
俺の中ではかなり大事な違いだ。
鳥に食べられただなんて、思いたくない!ただちょっとつつかれただけだ!
ロロは俺の顔を見たあと、怪我していない側へ回った。
「じゃあ、こっちにいるにゃ♡」
「それならいい」
肩が軽く触れるくらいの距離で並んで歩く。
「怖かったにゃ?」
「めちゃくちゃ怖かった」
「ぎょえーって鳴いたにゃ?」
「鳴かなかった」
「にゃ?」
「それどころじゃなかったんだよ」
あの鳥は静かだった。
走ってきた時も。
俺を見つけた時も。
聞こえたのは、俺が叫んだあとに返された声だけだ。
思い出して、ちょっと嫌な気分になる。
「でも」
俺は言った。
「俺も食ったからな」
ロロが顔を上げた。
「鳥さんをにゃ?」
「そう」
「おいしかったにゃ?」
「そこ聞くの!?」
もっと他にあるだろ。
人を五人食った鳥だったとか。
俺が食われかけたとか。
ロロは何でもない顔をしている。
「だって食べたなら味気になるにゃ~」
「……うまかったよ」
「いいにゃ~♡」
「心臓も生で食った」
「おいしかったにゃ?」
「うまかった」
言ってから、なんか負けた気がした。
結局、俺たちは屋台で夕飯を買って、そのまま近くで食べた。
食べ終わって別れる時、ロロが言った。
「たっくん、明日は僕んち来るにゃ~♡ テレビ見ながらごろごろするにゃ♡」
「腕痛いから、本当にごろごろするだけだからな」
「いっぱいごろごろするにゃ~♡」
意味が微妙に違う気がした。
俺はそのまま部屋へ戻って休んだ。
腕はまだ痛い。
寝返りを打つたびに目が覚めた。
◇
翌日の夕方。
俺はロロのシェアハウスに来ていた。
昨日ロロに誘われたからだ。
一日部屋にこもっているのにも飽きたし、歩くくらいなら問題ない。
共有スペースでは、何人かの住民がそれぞれ好きなように過ごしていた。
その一角に置かれたカラーテレビでは、ニュース番組が流れている。
俺とロロも空いている場所へ座って、なんとなく画面を眺めていた。
政治の話。
交通の話。
どこかの市場が改修された話。
俺は半分寝ながら見ていた。
そのうち、画面が急に明るくなった。
軽い音楽が流れる。
『続いては、セラキア帝国立魔法動物公園からです!』
映ったのは、大きな鳥だった。
俺の眠気が消えた。
丸い頭。
長い首。
大きな胴体。
「……え」
ロロの耳が立つ。
「ギョエ君にゃ~♡」
テレビの中で、鳥がのそのそ歩いている。
野生で見たやつよりずっと丸い。
柵の中で、飼育員の後ろをついて歩いている姿だけ見ると、確かにちょっと間抜けでかわいい。
いや。
俺は知っている。
こいつらは速い。
めちゃくちゃ速い。
『ギョエ君が今年も換羽しました~!』
女性のレポーターが明るい声で話す。
画面いっぱいに、ところどころ羽毛の様子が違うギョエ君が映った。
『セラキア帝国立魔法動物公園の人気者、イモクイのギョエ君。なんと今年で百三十五歳! 今日もとっても元気です!』
「百三十五!?」
思わず声が出た。
ロロはテレビを見たまま言う。
「長生きにゃ~♡」
ギョエ君は飼育員から芋を受け取った。
一口で食べる。
『オイモー』
「喋った」
『オイモー。ハラヘッター』
レポーターが笑う。
『はいはい、今食べたばっかりですよ~!』
ギョエ君はまた芋をもらった。
ロロが嬉しそうに尻尾を動かす。
「かわいいにゃ~♡」
「……まあ、今のところは」
今のところは。
番組はそのままギョエ君の過去の映像を流し始めた。
『ギョエ君の「お芋!」や「おなか減った!」は、動物園へ来てから覚えた言葉なんだそうです~』
古い映像のギョエ君が、飼育員へ首を伸ばしている。
『でも、たまに言う「タスケテー」は、なんと動物園へ来る前から言っていたそうですよ~♡』
俺の背中が固まった。
「…………」
ロロは気づかない。
テレビの中では、レポーターが笑顔のままギョエ君へ近づいていく。
『はーい、ギョエ君! 何かひとこと!』
マイクが向けられた。
ギョエ君が丸い頭を少し傾ける。
嘴が開いた。
『ぎょえ~~~……タスケテー』
『あはは、おなか減っちゃって助けてほしいのかな~♡』
スタジオからも笑い声が聞こえた。
ロロも笑った。
「かわいいにゃ~♡」
俺だけ笑えなかった。
「……違う」
「にゃ?」
「たぶん、それ、そういう助けてじゃない」
「どういう助けてにゃ?」
「知らない方がいい」
正確には、俺だって全部知っているわけじゃない。
でも、あの山で聞いた。
俺が「助けて」と叫んだ直後、あいつは同じ声を返した。
意味なんて分かっていなかった。
ただ、音を覚えていた。
このギョエ君も、動物園へ来る前から覚えていた。
俺はテレビの中で芋を食べている鳥を見る。
『ハラヘッター』
「……お前、それだけ言っとけよ」
テレビには届かない。
ギョエ君は元気にもう一度鳴いた。
『ぎょえ~~~』
ロロが俺の肩へ頭を戻した。
「たっくん、ギョエ君嫌いになったにゃ?」
「嫌いっていうか……」
俺は少し考えた。
一昨日は食った。
今日はテレビで見ている。
画面の中のギョエ君は、芋をもらって喜んでいるだけだ。
「野生では会いたくない」
「それがいいにゃ~♡」
珍しく、完全に意見が合った。
◇
番組が次のニュースへ移った頃。
ロロが急に顔を上げた。
「そうだにゃ!」
「何」
「たっくん、来週は竜討伐記念日あるにゃ~!」
「竜討伐記念日?」
ロロの尻尾が楽しそうに揺れる。
「竜肉いーっぱい食べられるお祭りにゃ~! 一緒に行くにゃ♡」
「竜肉!?」
腕の痛みも一瞬忘れた。
ドラゴンの肉。
あの、でかくて、飛んで、山みたいなやつの肉。
「食えるの!?」
「食べられるにゃ~♡ いっぱいお店出るにゃ!」
「行く!」
即答した。
ロロが嬉しそうに俺へくっつく。
「やったにゃ~♡」
「どんな味なんだろ。部位とか選べるの?」
「いっぱいあるにゃ~♡」
「マジか……」
一昨日、人食い鳥を食べた。
来週は、ドラゴンを食べるらしい。
俺はテレビの横でまだ映っているギョエ君の小さな映像を見た。
鳥を食って。
次は竜。
この国、祭りになると食うものがでかすぎないか。
