第5話 友達と過ごす異世界生活!

名前を聞いた後も、ダグは何事もなかったように辛い麺を食べ続けた。

俺は揚げた川魚を齧りながら、改めて隣に座る巨体を見上げる。

ダグワドルジ。

いかにも強そうな名前だった。牛の頭に太い角、分厚い首、俺の胴ほどもある腕。実際、三日間ずっと俺より重い桶を運び続けても、弱音一つ吐かなかった。

そんな男に、俺は毎晩抱かれて泣いていた。

「……他の奴には言うなよ」

「どのことだ」

「俺が泣いてたこと」

「宿舎にいた全員が知っている」

「じゃあ抱いて寝たこと」

「それも全員見ていた」

「全部忘れろ!」

「無理だ」

ダグは麺を啜った。

言いふらす気はなさそうだが、忘れてくれる気もなさそうだった。

食事を終え、俺たちは夜市を歩いた。

金曜の夜市は、単なる屋台の集まりではなかった。

料理や菓子を売る店の間に、衣服、香り、装身具、遊び道具、毛繕い、按摩、短時間の抱擁まで、まるで関係のない商売が詰め込まれている。

料理の札には、主な材料、量、辛さ、骨や殻の有無まで書かれていた。

『ベジタリアン向け』

『労働種一食分』

『家畜不使用』

『甲殻あり・丸呑み禁止』

そこまで書かないと食事もできないのかと思ったが、目の前を馬の男と、俺の腰ほどしかない猫の女が並んで歩いていくのを見て、必要なのだと分かった。

「金曜は毎週こうなのか?」

「ああ。友人や家族と飯を食って、買い物をする」

「祭りみたいだな」

「祭りでもある」

「毎週祭りやってるの?」

「理由があれば、別の日にもやる」

通りの奥には、小さな店が何十軒も並んでいた。

どれも一坪ほどしかない。棚と売台を置けば、店主一人が立つ場所しか残らないような店ばかりだった。

「この辺には、一か月単位で借りられる小さな店舗が並んでる。 暇つぶしにちょうどいい。」

そのうちの一軒が、鉢植えで埋め尽くされていた。

蔓の伸びた植物が棚や柱へ絡みつき、丸い葉を広げている。しかし肝心の花は、どれも固く閉じていた。

『朝顔専門店』

「……朝顔?」

「朝顔ですにゃ♡」

棚の奥から、小柄な猫の男が顔を出した。

「花、咲いてないけど」

「朝になったら咲きますにゃ」

「夜市で売ってるのに?」

「朝はとっても綺麗ですにゃ♡ こちらに絵がありますにゃ」

店主は、満開の朝顔を描いた紙を見せてくれた。

「今、実物を見せろよ」

「朝顔さんにも眠る時間がありますにゃ~♡」

「売る気あるの?」

「ありますにゃ!」

客は俺たち以外に一人もいなかった。

だが店主は楽しそうに、花の色や蔓の巻き方について説明を始めた。

隣の店では、青い紐だけを太さ別に売っていた。

その隣は、左の角に付ける飾りの専門店だった。右角用はないらしい。

さらに隣では、店主が川原で拾ったという丸い石が、布の上へ丁寧に並べられていた。

「こんなの売れないだろ」

「そうかもしれないな」

「止める奴はいないのか?」

「賃料を先に払っている。借金もしていない。月末には全部片づける。それなら、何を売っても本人の自由だ」

「自由にも限度があるだろ」

「誰にも迷惑をかけていない」

朝顔の店主が、閉じた花へ水をやっている。

本人は満足そうだった。

「商売って、売れないと意味ないんじゃないの?」

「店をやりたかったのだろう」

「それだけ?」

「それだけでも、一か月分を払えるなら構わない」

セグルの制度は、厳しいのか甘いのかよく分からない。

売れる見込みのない店を出すことは許す。その代わり、来月の自分へ借金を残すことは許さない。

商品が一つも売れないのも自由。

ただし、月末には必ず撤収。

なんとも変な国だった。

夜市の端には、大きな掲示板があった。

求人、住居、商品の仕入れ、荷物の運搬、夜市の出店者募集まで、色の違う紙が隙間なく貼られている。

ダグは足を止め、一枚ずつ眺め始めた。

「仕事を探してるのか?」

「今の仕事は終わったからな」

「家に帰らないの?」

「家はない」

「……ホームレスじゃん」

「仕事中は雇い主の宿舎へ泊まる。仕事のない期間は共同宿を使う」

「それをホームレスって言うんだよ」

「お前も同じだろう」

「俺は明日から部屋がある!」

「まだ契約していない」

「九時に行けばあるんだよ!」

そう言った時には、俺も明日の予定を覚えていた。

その後、果実酒を飲み、焼き菓子を食べ、輪投げで一度も輪が入らず、尻尾用の飾りを人間へ売ろうとする狐の店主と口論した。

夜市を出る頃には、午前九時の約束など完全に忘れていた。

◇

帰還者用の共同宿は、夜市から少し離れた場所にあった。

浴室、食堂、荷物置き場が一つの建物へまとめられ、寝室は身体の大きさごとに分かれている。

ダグについて入った部屋には、寝台というより、部屋の端から端まで続く巨大な台があった。

そこで横になっているのは、牛や馬の顔をした、全身毛皮の大柄な獣人ばかりだった。それぞれ自分の場所へ毛布を敷き、思い思いの格好で休んでいる。

俺には人間用の寝台が用意されていた。

そのはずだった。

「俺はまだ寝ないぞ」

食堂で水を飲みながら、ダグへ宣言した。

「そうか」

「三日間ずっと働いてたんだ。せっかく金も入ったし、明日からしばらく遊ぶ」

「住居の手続きがあるのだろう」

「分かってるって。九時だろ」

「なら、早く寝た方がいい」

「異世界に来てまで早寝早起きとか、何が楽しいんだよ。俺はもう会社員じゃないんだぞ」

「何の話だ?」

「こっちの話」

そこから先は、よく覚えていない。

自分がいかに前の仕事で苦労していたか。

本当はもっと評価されるべき人間だったこと。

次に生まれた世界では大活躍する予定だったのに、犬耳の大男に貞操を奪われかけた挙げ句、巨大な竜の糞を洗うことになったこと。

ダグはほとんど相槌を打たなかったが、俺は一人で喋り続けた。

そして、喋り疲れて寝た。

目を覚ますと、牛や馬の獣人たちが使っていた巨大な共同寝台にいた。

右側には、ダグの腹。

左側には、知らない馬の男の背中。

俺は二人の巨体の間へ挟まれ、毛布を首まで掛けられていた。

「……なんで俺、ここで寝てるの?」

「食堂で寝たから運んだ」

すでに起きていたダグが答えた。

「人間用の寝台あっただろ」

「遠かった」

「面倒だっただけじゃねえか」

「よく眠っていたから、どこでも同じだと思った」

間違ってはいない。

身体を起こす。

よく眠れた。竜の糞の臭いも、昨日までの辛さも、もうほとんど気にならない。

腹が減っていた。

「朝飯は?」

「もう昼だ」

「……昼?」

外から、時刻を知らせる鐘が聞こえた。

俺は何か大切なことを忘れている気がした。

午前九時。

完全個室。

ヴァルグレン。

「やべ! そういえばヴァルが呼んでた!!!」

共同寝台から飛び降りた。

◇

「現在、十一時四十分ですにゃ」

「時計持ってないんだよ!」

「共同宿では、一時間ごとに鐘が鳴りますにゃ」

「異世界の鐘なんか、何回鳴ったか分かるわけないだろ!」

「人間さんの故郷では、鐘を数える習慣がないのですかにゃ?」

「そういう言い方やめろ!」

ヴァルグレンは机の向こうで、いつもの笑顔を浮かべていた。

怒ってはいない。

その代わり、二時間四十分の遅刻を記録板へきっちり書き込んでいた。

「管理会社の担当者には、こちらから謝罪しておきましたにゃ。次回からは、約束の時間までにお越しくださいにゃ」

「次はない」

「そう言う人間さんほど、何度も遅れますにゃ」

机の上へ、住居契約書が置かれた。

契約期間は一か月。

賃料は前払い。

寝具と棚付き。水場、浴室、便所は共用。室内での火気使用は禁止。外部の人間を長期間住まわせることも禁止。

俺は最後に書かれた賃料を見た。

「高くない!?」

「保証人不要、短期契約、家具寝具つき、人間さん専用、即日入居可能ですにゃ♡」

「部屋を見てから決めたい」

「見てから断る場合、管理会社の案内費用が発生しますにゃ」

「見るだけで金取るの!?」

「担当者を動かすのですから当然ですにゃ」

結局、見ずに契約した。

俺は、学習しない人間ではない。

契約書は一応、最後まで読んだ。

ヴァルグレンから鍵を受け取り、案内された建物へ向かう。

契約代行社から二本裏の通りにある、細長い集合住宅だった。

人間用に作られているため、入口も廊下もセグルの建物にしては小さい。部屋の扉を開ける。

寝台があった。

棚があった。

以上だった。

寝台と壁の間には、人一人が横向きで歩ける程度の隙間しかない。窓は天井近くに小さいものが一つ。壁も床も灰色で、飾りは何もなかった。

清潔ではある。

埃もない。毛布は洗濯され、部屋に変な臭いもしない。

だからこそ、余計に監獄らしかった。

「これ、部屋じゃなくて独房だろ」

「外側から鍵は掛かりませんにゃ♡」

「そういう問題じゃない!」

「短期滞在用として必要な設備はすべて揃っていますにゃ」

「机も椅子もないんだけど」

「寝台へ座れますにゃ」

「料理は?」

「夜市と食堂をご利用くださいにゃ」

「生活する場所じゃなくて、本当に寝るだけじゃん」

「佐藤さんには十分だと判断しましたにゃ」

俺の荷物は、着替えと、ゴロゴロドラゴンくんの冊子と、仕事でもらった紙だけだった。

棚へ冊子を置く。

着替えを寝台の端へ置く。

引っ越しが終わった。

「……早いな」

「荷物が少なくてよかったですにゃ~♡」

ヴァルグレンは鍵の使い方と共同水場の場所を説明し、さっさと帰っていった。

灰色の部屋へ一人残される。

しばらく寝台へ座ってみた。

静かだった。

別に、一人では眠れないわけではない。

今すぐ眠る気もなかった。

それに、せっかく異世界で初めて友達ができたのだ。こんな灰色の部屋で一人で過ごすより、もっと一緒に飯を食って、いろんな場所へ行って、遊んだ方がいいに決まっている。

俺は部屋を出て、ダグを探しに行った。

◇

共同宿でダグを見つけ、部屋を見せるためにそのまま連れて帰った。

正確には、入口まで来た。

角を傾けて頭を入れようとしたが、肩が扉につかえて止まった。

「狭いな」

「高いんだぞ、この部屋」

「なぜ高い金を払って狭い場所にいる?」

「ヴァルに聞け」

「お前が契約したのだろう」

「細かいこと気にするなよ」

「契約は細かいことを気にするためにある」

ダグは室内へ入ることを諦めた。

立っているだけで廊下を塞いでいる。

「俺の共同宿の方が広い」

「共同だろ。俺は完全個室だからな」

「寝台と棚しかない」

「完全個室!」

「そうか」

ダグはそれ以上言わなかった。

たぶん、俺が満足していると思ったのだろう。

満足はしていない。

ただ、今さら失敗を認めたくなかった。

それから一週間、俺は働かなかった。

三日間も竜の糞を洗ったのだ。

しばらく休む権利くらいある。

昼近くまで寝て、食堂や屋台で飯を食い、街を歩き、夜になるとダグと合流した。

一度夜市に行ってみたが、金曜に比べて屋台が少なかった。

ダグは毎日、違う仕事へ行った。

荷車の積み下ろし。

市場の屋根の組み立て。

運河倉庫の清掃。

工房から駅までの資材運搬。

朝に仕事を選び、その日の夕方には賃金を受け取る。

「同じところで働かないのか?」

「季節ごとに人手の要る場所が変わる。毎年戻る仕事もある」

「毎回、新しい仕事を覚えるの、面倒じゃない?」

「知らない仕事を覚えるのも、いろいろな仲間と働くのも好きだ」

「仕事が好きなのか?」

「好きだ。同じことだけを続けるより、俺には合っている」

ダグの持ち物は、大きな旅行鞄一つへ収まっていた。

着替え、仕事道具、裁縫道具、食器、紙の束。それだけ持って、仕事のある土地を移動する。

毎日働き、借金もなく、金を使う様子もない。俺よりよほど金を持っているはずなのに、部屋は借りない。

俺よりよほど生活能力があるのに、決まった住所もない。

世の中は不公平だ。

一人で寝る夜もあった。

独房の寝台でも、横になれば普通に眠れた。

ただ、ダグと食事をして、共同宿の食堂で騒ぎ、まだ眠くないと言い張った後に力尽きる日もあった。

そういう朝は、決まって牛や馬の獣人たちが使う、あの巨大な共同寝台で目を覚ました。

「なんでまたここにいるんだよ」

「お前が寝たからだ」

「起こせよ」

「起こした。自分で歩くと言った」

「歩いた?」

「三歩で寝た」

「じゃあ運ぶしかないな」

「ああ」

ダグは俺を責めなかった。

周囲の人々も、誰も笑わなかった。

「今日もよく眠れたようでよかったな」

そう言って、朝食のパンまで分けてくれた。

この国の人は、他人を甘やかしすぎだと思う。

◇

一週間後の金曜。

俺が部屋を出ると、廊下の端にダグが立っていた。

相変わらず大きい。

あまりに大きいので、近所の住人たちが横を通れず、反対側の階段を使っていた。

「夜市へ行くぞ」

「また奢ってくれるの?」

「今日はお前にも金があるだろう」

「友達になったのに冷たくない?」

「先週は仕事を完遂した祝いだ」

「今週は?」

「普通の金曜だ」

夜市は、先週と同じ場所なのに、半分ほど店が変わっていた。

朝顔専門店はまだあった。

花は、やはり閉じていた。

隣の青い紐専門店は消え、代わりに子供用の小さな椅子だけを並べた家具店が入っていた。

「紐屋は?」

「やめたのだろう」

「一週間しか見てないぞ」

「飽きるのも自由だ」

「朝顔屋は残ってるのに!」

朝顔の店主が、今日も嬉しそうに水をやっていた。

ダグは食べ物の並ぶ通りへ入ると、迷わず一軒の店舗へ向かった。

「先に米を買う」

「おかずは?」

「米だ」

「米をおかずにするの?」

「先月からマルチーズがやっている、柔らかい白米の専門店だ。先月は毎日売り切れて、今月も借り直したらしい。絶品だから、おかずの前に買いに行く」

「白飯だけの店が二か月も続いてるの!?」

店の看板には、本当に、

『柔らかお米専門店』

とだけ書かれていた。

店内には大きな炊飯釜がいくつも並び、白い湯気が上がっている。

白い長毛と垂れ耳を持つ、小柄な犬の女が、踏み台の上から木の器へ白米を盛っていた。

料理はそれだけだった。

漬物もない。

汁物もない。

白米だけ。

「ダグさん、今週もありがとうございますにゃ~♡」

「俺に大盛りを二つ。こいつに普通盛りを一つ頼む」

「はいですにゃ♡ 今日は少しだけ水を多くしてありますにゃ」

「楽しみだ」

白米の水加減を楽しみにする牛獣人を、俺は初めて見た。

器を受け取る。

「これだけ?」

「食べてみろ」

「白飯なんて、どこで食っても同じだろ」

一口食べた。

柔らかい。

ただ柔らかいだけではない。米粒は潰れず、噛むと甘みが出る。湯気と一緒に、懐かしい匂いが鼻へ抜けた。

「……うまっ」

「そうだろう」

「なんで異世界に来て、一番うまいのが白飯なんだよ」

「米はうまいからな」

犬の店主が得意そうに尻尾を振っている。

店の前には列ができていた。

誰も白米だけで食事を終える気はない。米を買った客たちは、そのまま周囲の屋台へ散り、それぞれ好きなおかずを買っていく。

白飯しか売らない店。

普通なら、そんなものが売れるとは思わない。

だが、何十軒もの屋台から料理を選べる夜市では、一番うまい白飯だけを作る店が成立する。

朝顔専門店と同じ一坪で、こちらは売り切れ寸前だった。

「この国、何が当たるか分からないな」

「だから毎週来る」

俺たちは白米を持って、おかずを探した。

ダグは家畜肉を使った屋台を避け、野生鹿の煮込みと、川魚の香草焼きを選んだ。

「牛だから、牛肉を食わないの?」

「牛肉だけではない。家畜の肉は食べない」

「羊も豚も?」

「ああ」

「魚は食うじゃん」

「魚は川で勝手に生きていた。鹿も森で生きていた」

「何が違うの?」

ダグは少し考えてから答えた。

「人間に飼われ、働かされ、殺されるために増やされたものは食べない。俺と、言葉を持たない牛に何の違いがあるのか、まだ答えが出ていないからだ」

「でも鹿は殺されてるだろ」

「鹿は森で自分のために生き、狩人に負けた。狩人も森で獣に負ければ死ぬ。俺は、その肉なら食える」

「考えすぎじゃない?」

「お前は考えなさすぎだ」

「失礼だな!」

「契約書を読まず、竜の糞を牛糞だと思っていた」

「契約書は読んだ!」

「内容を理解していなかった」

反論できなかった。

俺たちは広場の長椅子へ座った。

柔らかい白米へ鹿肉の煮込みを乗せる。

うまい。

悔しいが、ダグの選んだ店に外れはなかった。

半分ほど食べた頃、ダグが言った。

「明日の朝、ここを出る」

「どこ行くの?」

「南部の果樹園だ。みかんの収穫が始まる」

「ふうん」

白米を食べる。

少しして、言葉の意味が頭へ入ってきた。

「……いつ戻ってくるの?」

「収穫が終わるまでだ。ひと月ほどかもしれない」

「終わったら戻る?」

「次の仕事があれば、別の土地へ行く」

「じゃあ、いつ会えるの?」

「分からない」

箸が止まった。

「分からないって何だよ」

「まだ次の仕事を決めていないからな」

「決めとけよ!」

「今決める必要はない」

「あるだろ! 俺が困る!」

「なぜお前が困る」

「だって――」

異世界へ来て、初めてできた友達だった。

一週間、毎日一緒に飯を食った。

夜市を歩いた。

俺が寝落ちするたび、共同寝台まで運んでくれた。

それが明日からいなくなる。

「農園では、まだ収穫人を募集している」

ダグが言った。

「一緒に来るか?」

「嫌だよ! 異世界まで来て、一か月もみかん採るだけなんて!」

「なら、ここで別れるしかない」

「それも嫌だ!」

「どちらかを選べ」

「ダグがみかんを諦めればいいだろ!」

「契約した」

「解約しろよ!」

「理由がない」

「俺が寂しい!」

口に出してから、恥ずかしくなった。

俺は酒を買いに行った。

◇

一杯目は、送別の乾杯だった。

二杯目は、柔らかい白米がうまかった記念。

三杯目は、俺がみかんに負けた記念。

四杯目からは、よく覚えていない。

「や”だぁあああああああ!!!」

気づけば、俺はダグの胴へしがみついて泣いていた。

夜市の真ん中だった。

周囲には大勢いる。

どうでもよかった。

「拓海、声が大きい」

「やっとぉ! 異世界でぇ! 友達できたのにぃいいい! なんでみがん採りに行ぐんだよぉおお!」

「収穫期だからだ」

「俺とみがん、どっちが大事なんだよぉ!」

「比べるものではないだろう」

「みがんなんか腐れぇええええ!」

「収穫しなければ腐る」

「屁理屈ぅううう!」

ダグの胸毛へ、涙と鼻水を擦りつける。

ダグは嫌がらなかった。

太い腕で俺を支え、倒れないようにしている。

「友人でなくなるわけではない。また会えばいい」

「どごでぇ!?」

「まだ決めていない」

「お手紙ぃーーーッ!」

「手紙?」

「お手紙おぐっでぇええええっ! 俺は部屋あるからぁあああああ”!」

「住所を知らない」

「ヴァルが知ってるぅうう! 灰色でぇ、狭くてぇ、高い部屋ぁああ!」

「それでは届かない」

「なんでだよぉおおおお!」

近くにいた獣人たちは、誰も笑わなかった。

「よほど別れが寂しいんだな」

「友達ができて、よかったな」

優しい顔で見守っている。

「その顔やめろぉ! 俺は子供じゃないぞぉおお!」

「誰もそんなことは言っていない」

ダグが俺の背中を叩いた。

「住所は明日、書いてもらう。手紙も送る」

「ほんどぉ?」

「ああ」

「毎日?」

「毎日は無理だ」

「や”だぁああああ!」

「仕事をする時間がなくなる」

「みがんやめろぉおお!」

「みかんも送る」

「みがんはいらないぃ! ダグが帰ってごいぃ!」

その後、俺は泣き疲れて眠った。

高い家賃を払った完全個室には帰らず、ダグに抱えられ、いつもの共同宿へ運ばれた。

◇

翌朝。

頭が痛かった。

喉が渇いている。

目を開けると、またダグの腕の中だった。

「……俺、昨日何か言った?」

「手紙を送れと言っていた」

「それだけ?」

「みかんを収穫するなとも言っていた」

「酔っぱらいの言うことだ。忘れろ」

「分かった」

「でも手紙は送れよ」

「分かっている」

「みかんも」

「いらないと言っていた」

「それは酔っぱらいの言うことだ」

ダグはすでに旅支度を終えていた。

大きな旅行鞄が、共同寝台の脇へ置かれている。

俺は一度自分の部屋まで走り、住居契約書を取ってきた。

住所が書かれた部分をダグへ見せると、ダグは小さな手帳を取り出し、角張った字で書き写した。

「本当に送るんだぞ」

「ああ」

「絶対だからな」

「ああ」

「俺が部屋を引き払ってたら、ヴァルのところへ送れ」

「一か月で引き払うのか?」

「家賃が高いんだよ」

「なら、もっと安いところを探せ」

「面倒だろ」

ダグは手帳を鞄へしまった。

共同宿の外には、南部へ向かう季節労働者たちが集まっていた。牛、馬、人間。荷車へ鞄を積み、出発を待っている。

ダグもその中へ加わる。

「ちゃんと飯を食え」

「子供扱いするな」

「金を使い切るな」

「分かってる」

「契約書は読め」

「読んでる!」

「内容も理解しろ」

「お前、最後だからって言いたい放題だな」

ダグが片手を差し出した。

俺はその手を握った。

大きすぎて、握手というより指を掴んでいるだけだった。

「また会おう、拓海」

「絶対だからな」

「ああ」

荷車が動き出す。

ダグは一度だけ振り返り、それから南へ向かう道を歩いていった。

追いかけようと思えば、まだ追いつけた。

みかんの収穫へ一緒に行くこともできた。

だが、一か月みかんを採り続けるのは嫌だった。

俺はその場に残った。

こうして、異世界で初めてできた俺の友達は、俺を置いてみかんを採りに行った。

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