第6話 顔のいい獣人はみんな「にゃ」と言う!

ダグを見送った後、俺は一人で部屋へ戻った。

寝台。

棚。

灰色の壁。

昨日までと何も変わっていない。

そもそもダグは、身体が大きすぎて入口から先へ入れなかった。部屋の中から何かがなくなったわけではない。

それなのに、前より静かだった。

寝台へ腰を下ろす。

これから何をしようか考えた。

ダグがいた一週間は、昼まで寝て、街を歩き、夜になったら合流して飯を食った。共同宿の食堂で喋り、眠くないと言い張って、気づけば巨大な共同寝台へ運ばれていた。

今日は、合流する相手がいない。

「別に、一人でも困らないけどな」

声に出すと、余計に部屋が静かになった。

俺は自由になったのだ。

飯を食う時間も、寝る時間も、誰かに合わせる必要はない。早く寝ろとも、金を使い切るなとも、契約書を理解しろとも言われない。

最高ではないか。

夕方まで寝台で過ごし、腹が減ったので外へ出た。

一人で屋台を回り、焼いた魚と固いパンを買った。

魚には細かい骨が多く、パンは顎が疲れるほど固かった。

ダグなら、もっとましな店を知っていただろう。

ついでに果実酒を一本買った。

ダグがいなくなったから飲むわけではない。

昨日は送別の酒だった。

今日は、一人暮らしを始めた祝いだ。

◇

部屋には机も椅子もない。

寝台へ座り、棚へ酒瓶を置いた。

一杯目を飲む。

甘い。

二杯目を飲む。

少し酸っぱい。

三杯目を飲む頃には、味はどうでもよくなっていた。

「ひと月って、別に長くないからな」

誰に言うでもなく呟いた。

手紙も送ると言っていた。

みかんも送ると言っていた。

仕事が終われば、またどこかで会える。

そもそも、友達はダグ一人ではない。

ヴァルがいる。

あれは友達ではない気がする。

ゴロゴロドラゴンくんの洗い場にいた奴らもいる。

名前を知らない。

共同宿の牛や馬の獣人たちも、俺が寝ていれば毛布を掛け、朝食を分けてくれた。

名前を知らない。

「……友達って、名前を知らないとなれないのか?」

酒を飲む。

考えるのが面倒になった。

ダグは今頃、南部へ向かっている。

旅行鞄を持ち、知らない奴らと歩き、知らない土地で働く。毎年会っている果樹園の連中と再会して、俺がいなくても普通に飯を食って、普通に眠るのだろう。

「薄情者」

酒を飲む。

「みかん男」

酒を飲む。

「牛だけど」

酒を飲む。

瓶が空になった。

横になる。

服を脱ぐのも、水を飲むのも面倒だった。

目を閉じる。

すぐに眠った。

◇

俺は、コンビニ弁当の袋を持って横断歩道に立っていた。

見覚えのある道だった。

信号が青になる。

歩き出す。

クラクションが鳴った。

足が止まる。

振り返りたくなかった。

何がいるのか、もう知っていた。

もう一度、クラクションが鳴る。

走った。

背後から、巨大なエンジン音が迫ってくる。

横断歩道を渡り切ったはずなのに、向こう側へ着かない。白い線だけが、どこまでも続いている。

道路脇に細長い建物が現れた。

扉を開け、飛び込む。

中は、俺の借りた集合住宅に似た灰色の廊下だった。

これでトラックは入ってこられない。

そう思った直後、背後で壁が砕けた。

大型トラックが、廊下の幅へ車体を無理やり押し込みながら追ってくる。

「なんで入れるんだよ!」

走る。

廊下はどこまでも続いている。

トラックは壁と天井を削りながら、それでも速度を落とさない。

「いや、ここをトラックが走れるわけないだろ!」

口に出した瞬間、気づいた。

これは夢だ。

俺はもう一度、トラックに轢かれるはずがない。

なぜなら、こっちの世界に来てから車なんて見ていない。

夢だと分かった。

だから消えろと念じた。

トラックは消えなかった。

「明晰夢って、何でもできるんじゃないの!?」

廊下の左右には、扉が並んでいた。

一番近い扉を開ける。

竜の洗い場だった。

山のような糞が崩れ、こちらへ流れてくる。

閉める。

次の扉を開ける。

みかん畑だった。

遠くでダグがみかんを採っている。

「ダグ! 助けろ!」

ダグは振り返らない。

腹が立ったので閉める。

クラクションが、すぐ後ろで鳴った。

次の扉。

開かない。

その次。

物置。

その次。

灰色の独房。

俺の部屋だった。

「役に立たねえ!」

トラックのライトが背中を照らす。

廊下の端に、地味な白い扉があった。

札が掛かっている。

『転生者生活相談窓口』

取っ手を掴み、扉を開け、身体を滑り込ませる。

すぐに閉めた。

扉の向こうから、激しい衝突音が響く。

思わず頭を抱えた。

だが、扉は壊れなかった。

やがて、エンジン音もクラクションも消えた。

「……助かった」

顔を上げる。

真っ白な空間だった。

壁も床も天井も、どこまで続いているのか分からない。

中央には、事務机が一つ。

その向こうに、空の椅子がある。

見覚えがあった。

「ここ、最初に来た場所じゃないか?」

しかし、女神はいなかった。

机の上には、小さな呼び鈴と、一枚の札だけが置かれていた。

『御用の方は、一度だけ鳴らしてください』

呼び鈴を押す。

ちん。

待つ。

誰も来ない。

もう一度押す。

ちん。

やはり来ない。

「御用あるんだけど!」

ちん。ちん。ちん。

「おい!」

ちんちんちんちんちんちんちん。

「相談窓口なんだろ! 早く来いよ!」

ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん。

「一回で聞こえとるわ!!!」

白い空間の奥から、女神が現れた。

腰まで届く銀色の髪。白い服。背中には淡く光る輪。

死んですぐ会った女神だった。

女神は大股で机まで歩いてくると、呼び鈴を手のひらで押さえつけた。

「一度だけ鳴らせと書いてあるやろが!」

「だったら一回で来いよ!」

「相談内容を頭の中で整理するための待ち時間や!」

「絶対いま考えた言い訳だろ!」

女神は椅子を引き、乱暴に腰を下ろした。

俺を見るより先に、どこからか煙草を取り出して咥える。

指先で火をつけ、深く煙を吸った。

「……で。どこが壊れた」

「態度」

「お前のか?」

「お前のだよ!」

女神が煙を吐く。

「身体は動くか?」

「動くけど」

「見え方や聞こえ方に異常は?」

「ないけど」

「転生直後から、理由の分からん痛みはあるか?」

「ない」

「ほな正常や。帰れ」

「待てよ! 相談窓口だろ!」

俺は入ってきた扉を指さした。

扉の内側にも、『転生者生活相談窓口』と書かれている。

「書いてあるやろ」

「あるなら最初に教えろよ!」

「書類に書いた」

「あれ、本当に大事なこと書いてあったの!?」

「大事やから読め言うたんや!」

女神が机を叩いた。

「そもそも、俺がこの世界へ来てからどれだけ酷い目に遭ったと思ってるんだ!」

「知らん。言うてみ」

「犬耳の大男へ貞操を奪われかけた!」

「包括接触可に署名して、接触店で接触されただけや」

「巨大な竜の糞を三日間も洗わされた!」

「契約したやろ」

「完全個室が、ほとんど監獄なのに高い!」

「それも契約したやろ」

「初めてできた友達が、俺を置いてみかんを採りに行った!」

「季節労働や」

「ひと月だぞ!」

「収穫期なら普通や」

「戻ってくる日も決めてないんだぞ!」

「お前も一緒に行けばよかったやろ」

「一か月みかんを採り続けるのは嫌だ!」

「ほな待て」

「嫌だ!」

「知らんがな!」

女神が何もない空中へ灰を落とす。灰は床へ着く前に消えた。

「ええか。前に、転生特典で新しい足をつけた奴がおった」

「急に何の話だよ」

「右足を出そうとしたら左足が出て、左足を出そうとしたら右足が出た。そういうのを不具合と言うんや!」

「それは不具合だな」

「私様の調整ミスやから、私様が直した。お前の身体は正常。翻訳も動いてる。生活もできてる。お前のは全部、ただのクレームや!」

「でも相談窓口だろ!」

「相談なら答えたる。友達がみかん採っとる間に働け。友達が一人しかおらんのなら増やせ。手紙が来る言うとるなら待て」

「俺は寂しいって相談してない!」

「昨日、本人に泣きながら言うたんやろ」

「なんで知ってるんだよ!」

「私様の世界やぞ!」

女神は煙草をポイと捨てて2本目に火をつけた。

吸い殻はやはり床に着く前に消える。

「ほかに何かあるか。ないなら帰れ」

「ある!」

ずっと気になっていたことを思い出した。

「顔のいい獣人は、なんでみんな『にゃ』なんだよ!」

女神の眉が寄る。

「何の話や」

「猫なら分かる! でも狐も、犬も、みんなにゃって言うんだよ! ヴァルも、白米屋のマルチーズも、朝顔屋の猫も! 見た目と語尾が合ってないから、脳がバグる!」

「ああ、愛玩種の獣訛りか」

「愛玩種?」

「お前が顔がええ言うてる、人間に近い顔へ耳と尻尾がついとる連中や。猫だけやない。犬も狐もおる」

「ダグは?」

「あれは労働種や」

「何が違うの?」

「いろいろや。今は発音の話やろ」

女神は煙を吐いた。

「愛玩種は、人間に好まれやすいように顎や口が小さくなっとる。そのせいで、南方語を話すと共通した訛りが出るんや」

「それが、にゃ?」

「実際ににゃと言うとるわけやない。お前の頭へ日本語で通す時、一番近いものへ置き換えられとる」

「南方語を話せるようにしてくれたんじゃなかったの?」

「お前の頭へ南方語を一から入れたら、調整にどれだけ時間かかると思っとる。日本語へ翻訳して聞かせて、お前の日本語を南方語へ変換しとるんや」

「手抜きじゃん!」

「高性能自動翻訳や! 訛りまで保持しとるんやぞ!」

「保持しなくていいんだよ! 猫以外がにゃって言うと混乱するだろ!」

「お前の母語が英語なら、ブルックリン訛りくらいで済んだかもしれんな。日本語にはちょうどええ置き換え先がなかったんや!」

「だったら普通の日本語にしろよ!」

「訛りを全部消したら、相手の出身も身体的な特徴も分からんようになるやろ。翻訳として不完全や!」

「犬と狐がにゃって言う方が不完全だろ!」

「そんなに嫌なら、翻訳を切ったるわ!」

女神が指を鳴らした。

何かを言った。

音は聞こえた。

言葉であることも分かった。

だが、意味だけが一つも頭へ入ってこない。

「……え?」

女神がさらに何か言う。

聞いたことのない母音と子音が、途切れずに流れていく。

「待って。何言ってるか全然分からない」

女神は片方の眉を上げた。

俺の言葉も向こうへ通じていないのかもしれない。

両手を振り、口を指さし、それから指を鳴らす真似をする。

女神はしばらく俺を眺めていた。

わざとだ。

絶対に分かっている。

両手を合わせ、頭を下げた。

女神がようやく指を鳴らす。

「――分かったか?」

「分かった! にゃでいい! にゃでいいから戻して!」

「最初から我慢せえ!」

女神は完全に機嫌を悪くしていた。

だが、俺にはまだ言うべきことがあった。

「あと、魔法!」

「まだあるんか」

「俺、全然魔法使えないんだけど!」

「何を試した?」

「何を試せばいいのか分からない」

「術式は勉強したか?」

「してない」

「時間資源は用意したか?」

「してない」

「起こしたい現象について調べたか?」

「してない」

「普通に勉強しろ!!!!」

女神が立ち上がった。

背中の輪が激しく明滅する。

「でも俺、転生者だぞ! 感覚で火くらい出せるようにしてくれてもいいだろ!」

「現地の人間は学校へ通って、術式を覚えて、資源を用意して使っとる! なんでお前だけ勉強せずに使えると思っとるんや!」

「異世界転生って、普通そういうものだろ!」

「どこの普通や!」

「俺の知ってる異世界!」

「知らんわ!」

女神が机の引き出しを乱暴に開けた。

分厚い本を一冊取り出す。

「ほら!」

投げつけられた本を、両手で受け止める。

濃い青色の表紙に、白い文字で題名が書かれていた。

『中学校 魔法学――魔法のしくみと利用』

「中学校?」

「現地の中学生が使う教科書や」

「もっと実践的な本ないの?」

「これが基礎や! お前の魔法知識は小学生以下やぞ!」

「大学は出てるんだけど」

「ほな中学生の教科書くらい読めるやろ!」

女神は机を回り込み、俺の背中を押した。

「最初から全部読め! 分からん単語は本屋で辞書買え! それでも分からんなら、金払って教師に聞け!」

「魔法の一つくらい実演してくれても――」

「もう帰れ!」

入ってきた扉を開けられる。

扉の向こうには、灰色の廊下があった。

大型トラックのライトが、正面からこちらを照らしている。

「待て! まだトラックいるんだけど!」

「夢の中の問題まで私様に持ち込むな!」

「せめて消してくれよ!」

「自分で起きろ!」

背中を突き飛ばされた。

教科書を抱えたまま、廊下へ倒れ込む。

クラクションが鳴った。

「もう帰れ言うとるやろが!」

扉が閉まる。

大型トラックが迫る。

◇

「うわあああああ!」

目を開けた。

何か重いものが顔へ乗っている。

両手で掴み、持ち上げる。

青い表紙の本だった。

『中学校 魔法学――魔法のしくみと利用』

部屋を見回す。

灰色の壁。

寝台。

棚。

空になった酒瓶。

女神はいない。

「……夢じゃなかったの?」

頭が痛い。

口の中が乾いている。

胃も少し気持ち悪かった。

身体を起こし、教科書を開く。

最初のページには、この本を使って魔法の基礎を学ぶようにと書かれていた。

次のページは目次だった。

『第1章 時間資源と生体ロック』

難しそうだ。

『第2章 術式と記述法』

もっと難しそうだ。

『第3章 現象系・変換系・生成系』

少し格好いい。

『第4章 大規模術式と外部計算』

絶対に面倒だ。

『第5章 魔法生物と生得器官』

「これだろ」

第5章を開く。

魔法生物とは何か。

生得器官とは何か。

代表的な魔法生物である竜類と鳳類。

「やっぱり異世界といえば、こういうのだよな」

最初から読めと言われた気がする。

だが、興味のあるところから入った方が、勉強は頭へ入りやすい。

俺は学習しない人間ではない。

効率を重視する人間なのだ。

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