予約の日まで、俺は毎晩ミアちゃんのことを考えていた。
髪を洗ってくれた指。
傷を心配してくれた声。
柔らかな胸に抱かれながら聞いた、おかえりなさい。
あれから何度も、店の注意書きを思い出した。
『本サービスにおける親愛表現は接客の一部であり、私的な交際を約束するものではありません』
分かっている。
接客なのは分かっている。
だが、接客だからといって、誰にでもあんな顔をするわけではないはずだ。
俺が泣いた時、ミアちゃんは本気で心配してくれた。
猪の傷へ触れないように気を遣ってくれた。
何より、一緒にいる時のミアちゃんは楽しそうだった。
つまり、仕事として優しくしてくれた部分と、俺だから優しくしてくれた部分がある。
そこを一緒にするほど、俺も馬鹿ではない。
◇
「拓海さん、また来てくれたんだにゃ♡」
店の奥から現れたミアちゃんは、今日も完璧に可愛かった。
艶のある黒髪。
大きな琥珀色の瞳。
頭の上でぴんと立った黒い猫耳。
俺を見つけると、細長い尻尾が嬉しそうに揺れた。
「会いたかった」
「私もにゃ♡」
ほら。
やっぱり俺だからだ。
「では、先に残りのお支払いをお願いします」
受付の女性が、机の向こうから声をかけてきた。
俺は財布を開き、一万タサル札を八枚出した。
予約した時に払った四万タサルと合わせて、十二万タサル。
紙幣が受付の手元へ消えていく。
ほんの一瞬で、南方の森を一か月歩き回って得た金のかなりの部分がなくなった。
「本日は包括接触の基本コースとなります。入浴、包括接触、その後は残り時間に応じて休息接触をご利用いただけます」
「休息接触?」
「抱擁や添い寝、撫でるなどの接触です」
「前にやってもらったやつか」
「はい。ただし、前回は初回無料券による最長コースでした。本日は最も短い基本コースとなります」
「十二万タサルで一番短いの!?」
「はい」
受付の女性は笑顔を崩さなかった。
「延長も可能ですが、追加料金が発生します」
料金表を示される。
見なかったことにした。
「拓海さん、今日はあんまりゆっくりできないけど、その分いっぱいくっつこうにゃ♡」
ミアちゃんが俺の腕へ抱きついた。
「そうだな!」
十二万タサルは高い。
だが、既に四万払っている。
それに、ミアちゃんが俺を待っていたのだ。
今さら帰れるわけがなかった。
◇
今日も最初は風呂だった。
前回と同じ浴室へ案内され、服を脱ぐ。
ミアちゃんは俺の太腿へ目を向けた。
「猪に噛まれたところ、もう痛くない?」
「覚えてたの?」
「もちろんにゃ。あんなに大きな傷だったもん」
やっぱり覚えている。
何人も客がいるだろうに、俺の傷を覚えている。
ミアちゃんは本当に俺を気にしてくれているのだ。
「もう平気。痕は残ってるけど」
「よかったにゃ♡」
椅子へ座ると、ミアちゃんが後ろから俺の髪を濡らした。
温かい湯が頭を流れる。
指が髪の間へ入り、頭皮を優しく揉んだ。
それだけで、身体の奥に入っていた力が抜けていく。
「気持ちいい?」
「すごく」
「今日もいっぱい頑張ってきたんだね」
「最近はそこまで働いてないけど」
「じゃあ、寂しかったにゃ?」
図星だった。
俺が黙ると、濡れた腕が後ろから首へ回された。
「今日は私がいるにゃ♡」
「うん」
もう少し、このままでいたかった。
だが、前回ほど時間をかけて髪や身体を洗ってはもらえなかった。
一緒に浴槽へ入っても、ミアちゃんの胸へ背中を預けたところで、すぐに声をかけられた。
「そろそろ次へ行こっか」
「もう?」
「今日は短いコースだからにゃ」
仕方がない。
風呂へ入りに来たわけではないのだ。
◇
寝室へ入ると、ミアちゃんは俺を寝台へ座らせた。
「今日は泣いてないね」
「毎回泣くわけじゃないよ」
「泣いてもいいんだよ?」
「さすがに恥ずかしい」
「ふふ。拓海さん、かわいいにゃ♡」
ミアちゃんの唇が重なった。
黒い尻尾が俺の腰へ絡みつく。
抱き締めると、柔らかな身体が腕の中へ収まった。
前回よりも慣れている。
ミアちゃんの耳へ触れても、もう本物かどうか驚いたりはしない。
指で根元を優しく撫でると、黒い耳が小さく震えた。
「そこ、気持ちいいにゃ」
「俺、上手くなった?」
「うん。すごく上手にゃ♡」
褒められると嬉しい。
俺たちはもう、初めて会った客と店員ではない。
二回目なのだ。
これから三回、四回と会っていけば、もっと特別な関係になれるかもしれない。
ミアちゃんが、俺の上へ跨がった。
濡れた内側へゆっくりと受け入れられる。
「拓海さん、気持ちいい?」
「うん……」
「私の顔、ちゃんと見て」
琥珀色の瞳が、すぐ近くで俺を見つめている。
ミアちゃんが腰を動かすたび、黒い髪と猫耳が揺れた。
「拓海さん、会いに来てくれて嬉しいにゃ♡」
「俺も……ずっと会いたかった」
「いっぱい気持ちよくなろうね」
唇を重ね、抱き締め合う。
名前を呼ばれるたび、身体だけでなく胸の奥まで満たされていった。
やっぱり、ミアちゃんとは相性がいい。
これを金だけの関係だと言う方がおかしい。
◇
すべてが終わると、ミアちゃんが俺の身体を綺麗にしてくれた。
「少し時間が余ったにゃ。何してほしい?」
「撫でてほしい」
「いいよ。おいで♡」
ミアちゃんが寝台へ座り、胸元を開いた。
俺はそこへ頭を預けた。
柔らかな胸に頬を埋め、髪を撫でてもらう。
これだ。
俺が一番欲しかったのは、もしかするとこっちかもしれない。
指が頭を撫でるたび、何もない部屋へ一人で帰る不安が遠ざかっていく。
「拓海さん、いい子だね」
「子供じゃないって」
「大人でも、いい子はいい子にゃ♡」
黒い尻尾が俺の腕へ巻きつく。
目を閉じた。
今日はこのまま眠ってもいいのだろうか。
前回は寝かせてくれた。
目が覚めた時にも、ミアちゃんは隣にいた。
そう思った瞬間、部屋のどこかで澄んだ音が鳴った。
ミアちゃんの手が止まる。
「拓海さん、時間にゃ」
「え?」
「今日はここまで」
「もう終わり!?」
「ごめんね。短いコースだから」
まだ全然足りない。
やっと落ち着いてきたところだった。
「少しくらい駄目?」
「次のお客様が待ってるの」
次の客。
胸の奥に、嫌なものが引っかかった。
だが、店なのだから他にも客がいるのは当然だ。
俺だって理解している。
「また来てくれる?」
ミアちゃんが俺の頬へ口づけした。
「来る」
反射的に答えていた。
「嬉しいにゃ♡」
やはり、次はもっと長いコースにした方がいい。
十二万タサルでこれなら、長いコースはいくらになるのだろう。
料金表は見ないことにした。
◇
店を出たあと、俺はしばらく幸せな気分で歩いていた。
ミアちゃんは今日も可愛かった。
傷のことを覚えていた。
会いに来てくれて嬉しいとも言っていた。
間違いなく、前回より距離は縮まっている。
あとは何度か通えば、店の外でも会ってくれるかもしれない。
そう考えながら財布を開いた。
足が止まった。
「……金なくない?」
何度数えても増えなかった。
予約時に四万タサル。
今日、残りの八万タサル。
合計十二万タサル。
店へ来る前は、払ってもまだ少しくらい余裕があると思っていた。
実際、少しは残っている。
節約すれば、一か月くらいは暮らせそうだ。
足りなくなったら、またヴァルに単発の仕事を紹介してもらえばいい。
だが、南方の森から帰ってきたばかりなのだ。
猪に噛まれ、腐った鹿を追いかけ、最後には蛆まみれになった。
今はまだ働きたくない。
新しく稼ぐより、残った金をなるべく長く持たせる方が楽だった。
もう一度料金表を見て、そのまま次回予約をするつもりだった。
無理だ。
「金って、こんなになくなるの早いの……?」
紙幣なのがよくない。
セラキアの硬貨なら、袋が軽くなるから払った実感がある。
セグルの金は薄い紙なので、何枚渡しても大したことがないように見える。
俺が悪いのではない。
紙幣が悪い。
◇
一度アパートへ戻り、残った金を寝台の上へ並べた。
節約すれば、一か月ほど働かずに暮らせる額は残っている。
家賃や借金の返済分はすでに払っているから心配ない。
ただし、酒や肉はしばらく諦めた方がよさそうだった。
寝台の端には蜜柑が残っている。
「最悪、これ食えばいいか」
夕方になり、腹が減った。
部屋で蜜柑だけを食べるのは、さすがに寂しい。
俺は残金の中から小額紙幣を一枚取り、外へ出た。
屋台通りを端から端まで歩き、一番安い店を探す。
串肉。
高い。
焼き魚。
高い。
具の多い汁麺。
美味そうだが高い。
結局、刻んだ野菜だけを包んだ蒸し饅頭を二つ買った。
肉まんより安い。
夕飯としては物足りないが、蜜柑よりはましだ。
屋台通りの先には広場があった。
いくつもの長椅子と卓が置かれ、仕事帰りらしい獣人たちが買った料理を食べている。
家族連れ。
仕事仲間らしい集団。
肩を寄せ合って座る男女。
空いている長椅子を見つけ、端へ腰を下ろした。
蒸し饅頭の包みを開く。
隣の卓から楽しそうな笑い声が聞こえた。
別に、一人で食べるのは悪いことではない。
俺は一人が好きなのだ。
今までだって、一人で飯を食うことくらい何度もあった。
ただ、何もせず一人で座っていると、友達がいない奴みたいに見える。
俺は鞄から一冊の本を取り出した。
女神様から貰った、中学生向けの魔法教科書だ。
こうして本を開いていれば、一人で寂しく夕飯を食べているのではなく、勉強のために一人の時間を使っているように見える。
我ながら頭がいい。
適当な頁を開く。
『蓄積量と変換効率の関係』
図と数字が並んでいた。
読む気にはならない。
教科書へ目を落としたまま、蒸し饅頭をかじる。
野菜しか入っていない。
やはり肉まんにすればよかった。
「人間さんにゃ~♡」
すぐ横から声がした。
顔を上げる。
明るい赤茶色の髪をした猫の少年が、長椅子の前に立っていた。
大きな猫耳は付け根が広く、尖った先端には長い飾り毛が生えている。首には、白い飾り縫いの入った黄緑色の細い首輪が巻かれ、正面には小さな金色の花飾りがついていた。腰の後ろでは、狐と見間違えそうなほどふさふさした尾が揺れている。
毛の色はヴァルに少し似ている。
だが、高身長のヴァルと比べると、身体はずっと小さい。
肩も腰も細く、顔にはまだ幼さが残っている。
十七、八歳。
下手をすれば、もう少し下かもしれない。
少年は片手に、小さなビール瓶を持っていた。
「何してるにゃ? 隣座っていいにゃ?♡」
「お前、それ飲んでいいの?」
「いいにゃ」
「子供だろ?」
少年の大きな耳が、ぴくりと動いた。
「子供じゃないにゃ。僕はちゃんと大人にゃ♡」
「嘘つけ。どう見ても高校生くらいだろ」
「コーコーセーが何か知らないけど、僕は今日もお仕事してきたにゃ」
「仕事?」
「接触店にゃ。お客さんとお話ししたり、抱っこしたり、なでなでしてもらったりするにゃ♡」
言いながら、少年は俺の返事を待たずに隣へ座った。
ビール瓶へ口をつけ、美味そうに喉を鳴らす。
本当に酒を飲み慣れている。
「じゃあ、本当に成人してるのか」
「最初からそう言ってるにゃ」
少年は俺が開いている教科書を覗き込んだ。
「人間さん、お勉強してるにゃ?」
「まあな」
「偉いにゃ~♡」
「そうだろ」
「それ、子供が読む本にゃ~」
「……」
知っていた。
女神様が「中学生向け」と言って渡してきた、この世界で実際に使われている教科書なのだから。
「別にいいだろ。基礎から勉強してるんだよ」
「お仕事しながら子供の本で勉強するなんて、もっと偉いにゃ♡」
馬鹿にしている様子はなかった。
本気で感心しているらしい。
少年はまたビールを飲む。
ふさふさした尾が長椅子の背を越え、俺の腕へ触れた。
柔らかい。
「人間さん、お名前なんていうにゃ?」
「拓海、佐藤拓海」
「サトータクミ?」
「ああ」
「そっか~。じゃあ、たっくんだにゃ♡」
「どこからそうなったんだよ」
「僕はロロにゃ。たっくんは、僕のことロロって呼んでいいにゃ♡」
「そっちはそのままなのかよ」
「ロロはかわいい名前だから、そのままでいいにゃ」
改めて見直すと、確かに整った顔をしていた。
セグルへ来てから美男美女は何人も見ているが、その中でもかなり上だ。
ただ、男として格好いいというより、どう見ても可愛いという言葉の方が似合う。
大きな黄緑色の目。
先端に飾り毛のある猫耳。
細い顎。
ふわふわした赤茶色の尾。
本人も自覚しているらしい。
「ずいぶん自信あるな」
「僕はかわいいにゃ♡」
「自分で言うのか」
「かわいいのに、かわいくないって言う方が嘘つきにゃ」
ロロは当然のことを教えるように言った。
それから、猫耳を俺の方へ傾ける。
「なでなでしてもいいにゃ♡」
「俺が?」
「嫌ならしなくてもいいにゃ。でも、僕の毛はすごく気持ちいいにゃ~」
そこまで言われると、少し気になる。
俺は蒸し饅頭を包み紙へ戻し、手の汚れを拭いた。
恐る恐る、ロロの頭へ手を伸ばす。
明るい赤茶色の髪は柔らかかった。
耳と耳の間を撫でる。
大きな猫耳が伏せられ、ロロが俺の手へ頭を押しつけてきた。
「そこ好きにゃ♡」
「本当に猫みたいだな」
「猫にゃ」
耳の付け根へ指を入れる。
飾り毛が手の甲へ触れた。
ロロの喉から、小さく震えるような音が聞こえる。
ふさふさの尾が、上機嫌に長椅子を叩いていた。
男の頭を撫でて、何が楽しいのか。
そう思っていたはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
柔らかな毛へ指を通していると、さっきまで胸の中に残っていた寂しさが少し薄くなった。
猫を撫でると落ち着くという話を、前世で聞いたことがある。
獣人でも同じらしい。
「たっくん、なでなで上手にゃ♡」
「さっきミアちゃんにも同じこと言われた」
「ミアちゃん?」
「俺の彼女になるかもしれない猫耳美少女」
「そうなんだにゃ~」
ロロは興味があるのかないのか分からない返事をした。
詳しく聞こうともしない。
代わりに俺の肩へ頭を預け、そのままビールを飲んだ。
距離が近い。
男同士なのに近すぎる。
だが、ロロはまったく気にしていないようだった。
「お前、誰にでもこうなの?」
「気分にゃ♡」
「今日は?」
「たっくんを見つけたから、くっつきたい気分になったにゃ」
「そ、そう」
変な奴だ。
それでも、嫌な奴ではなさそうだった。
◇
ロロはビールを飲み終えると、大きな欠伸をした。
「僕、眠くなったから帰るにゃ♡」
「急だな」
「眠い時に寝ないと、もっと眠くなるにゃ」
「当たり前だろ」
ロロが長椅子から立ち上がる。
ふさふさした尾を揺らしながら、俺へ振り返った。
「僕は仕事帰り、いつもここ通るにゃ♡」
「そうなのか」
「たっくんが会いたいなら、またいつでも会えるにゃ~」
「別に会いたいとは――」
「またにゃ~♡」
最後まで聞かず、ロロは屋台通りの向こうへ歩いていった。
赤茶色の大きな尾が、人混みの中へ消えていく。
「なんだったんだ、あいつ……」
長椅子には、俺一人が残された。
開いたままの教科書へ目を落とす。
『蓄積量と変換効率の関係』
ロロが来る前と、同じ頁だった。
結局、一文字も読んでいない。
残っていた蒸し饅頭をかじる。
冷めていたが、さっきよりは不味く感じなかった。
「……明日もここで食うか」
別に、ロロに会いたいわけではない。
この辺りの屋台が安いからだ。
それだけだった。
