目を開けると、目の前に猫耳があった。
「うわっ」
思わず身体を引く。
すぐ隣で、ロロが気持ちよさそうに眠っていた。
共同寝台には、他にも何人かの獣人が寝ている。俺の足には、誰のものか分からない尻尾が載っていた。
そうだ。
昨日、梅酒を飲んで、そのまま寝たんだった。
窓の外は、もうすっかり明るい。
俺はぼんやり窓を見た。
今日、何かあったような……。
「あっ、仕事!」
俺は慌てて尻尾をどかし、共同寝台から抜け出した。
今日は貴族の引っ越しだ。
朝にヴァルのところへ来いと言われていた。
危ない。
初日から遅刻するところだった。
一度自分の部屋へ戻って着替え、そのままヴァルのところへ走る。
扉を開けると、ヴァルはいつもどおり机の向こうに座っていた。
「おはようございますにゃ♡」
「間に合った!?」
「間に合っていますにゃ♡」
よかった。
ヴァルは窓の外を指した。
「お迎えが来ていますにゃ♡ 他の作業員さんと一緒に行ってくださいにゃ♡」
「おう!」
外には大きな馬車が停まっていた。
中には、作業着を着た獣人が何人も乗っている。
馬、牛。
でかいやつばかりだ。
見るからに家具を運ぶための人員だった。
俺も空いている席へ座る。
馬車は街中を進み、やがて住宅の少ない場所へ入った。
しばらくして、大きな門が見えてくる。
門をくぐってからも、玄関まではまだ遠かった。
正面の建物から左右へ長い棟が伸びている。
「でっか!」
思わず声が出た。
俺が住んでいる集合住宅なら、敷地ごと何個も並べられそうだ。
これで別荘なのか?
貴族の家、金かけすぎだろ。
馬車が屋敷の前で停まる。
すでに別の馬車も何台か到着していて、作業員たちが荷物を下ろしていた。
大きな家具や木箱が、次々と屋敷の中へ運ばれていく。
俺たちも馬車から降り、玄関前へ集められた。
前に立った作業責任者らしい男が、名簿を見ながら口を開く。
「家具と大型の木箱は、印のついた部屋まで運ぶ。割れ物と装飾品には触らないこと。配置が分からない場合は、屋敷の使用人へ確認すること」
説明を聞きながら、広い玄関前を見回す。
作業員も馬車も、まだ次々と入ってくる。
貴族の引っ越し、規模が違いすぎる。
「それから、作業中に指示が変更された場合は、新しい指示を優先すること」
そりゃそうだ。
男は名簿を閉じた。
「最後に、ニカンドラ様に逆らわないこと。以上だ」
ニカンドラ様って、この屋敷の持ち主か?
まあ、金を払う相手に逆らうやつはいないだろ。
説明が終わると、作業員たちはそれぞれの持ち場へ散っていった。
俺も家具を運ぶ作業員についていこうとする。
その時、屋敷の中から一人の女性が出てきた。
長い裾の濃い色の使用人服に、白いエプロン。
頭には柔らかそうな羊耳が生え、その脇から巻き角が伸びていた。
髪は羊毛みたいにふわふわと細かく巻いていて、両側から編み、後ろで丸くまとめている。ほどけばかなり長そうだ。
小さな顔に、すっとした鼻と形のいい唇。
目元は少しつり気味で、なんとなくつんとして見える。
でも、普通にかわいい。
本物の美少女メイドだ。
女性と目が合った。
俺は何も見ていなかった顔で、その目を見返した。
女性は作業員たちを見回すと、まっすぐ俺の前まで来た。
「本日の人間はあなたですね」
「え? あ、はい」
「ニカンドラ様付き筆頭侍女のクレールです。あなたは我々使用人と共に作業します。まずはニカンドラ様にご挨拶なさい」
俺だけ別なのか。
なるほど。
家具運びじゃなく、細かい物の配置もする契約だった。
しかも美少女メイドと一緒。
人間でよかった!
「分かりました!」
クレールについて、屋敷の奥へ進む。
本物のメイドだ。
でも、なんか俺の知ってるメイド服と違うな。
もっとこう、ふわっとして、かわいい感じの……。
今見た服は、首から足までほとんど隠れていた。
どちらかというと、教会の……なんだっけ。
ああ、修道女?
でも、これはこれで逆にいいかも……?
どっちにしろ、顔はめちゃくちゃかわいいし!
広い。
廊下だけで俺の部屋より広い。
壁には絵が掛けられ、窓には分厚い布が垂れている。
まだ引っ越しの途中なのに、すでに俺の部屋より物が多い。
階段を上がり、さらに長い廊下を歩く。
クレールが、一つの扉の前で立ち止まった。
軽く扉を叩く。
「ニカンドラ様。本日の人間をお連れしました」
「お入りなさい」
柔らかな女の声が返ってきた。
クレールが扉を開ける。
中は執務室らしい。
羊の角と耳を持つ美少女たちが、同じメイド服を着て、すでに箱を開け、書類や小物を棚へ収めていた。
クレールを合わせて七人。
みんな羊毛みたいな、ふわふわと細かく巻いた長い髪をしていた。
でも、まとめ方は一人ずつ違う。
高い位置で丸くまとめている子。
太い三つ編みを肩へ垂らしている子。
頭の横から編んで、後ろでまとめている子。
リボンで低く束ねている子。
同じ羊耳と巻き角がついているのに、髪型が違うだけでちゃんと雰囲気も違って見える。
しかも、全員かわいい。
「本物の美少女メイドだ……!」
声が出た。
異世界の貴族屋敷。
羊の美少女メイド。
これだよ!
俺が異世界に求めていたのは、こういうやつだ!
この美少女メイドたちに囲まれて働けるのか?
荷物を運んで、一万五千タサルももらえて、さらに美少女メイドつき。
やっぱり今回は当たり仕事だ!
その奥には大きな机と椅子があり、一人の女性が座っていた。
最初に目についたのは、首元と肩を覆う銀灰色の毛皮だった。
首の両側から喉元へ回り込み、肩の辺りは特にふさふさしている。
厚手の布で仕立てられた服は、その毛並みを隠さないよう首元が大きく開けられていた。
銀灰色の毛皮が、そのまま豪華な襟飾りみたいに見える。
狼耳を持つ、綺麗な女だった。
ただし。
でかい。
座っているのに、すでにでかい。
女性は机へ置いていた書類から顔を上げた。
高くまっすぐな鼻。
彫りの深い目元。
唇の形まで綺麗に決まっている。
普通なら、どこか一つくらい微妙なところがあるはずなのに、どこを見ても崩れていない。
整いすぎていて、生きている女の顔というより作り物みたいだった。
美術の教科書に載っていた彫刻が、そのまま目を開けたみたいだ。
クレールが俺を見た。
挨拶しろということだろう。
俺は背筋を伸ばした。
「ヴァルグレン契約代行社から来ました、佐藤拓海です。よろしくお願いします」
女性がわずかに目を細めた。
「ヴァルグレン……」
少し考える。
「ああ、狐さんのところね」
ヴァルのことを知ってるんだ。
まあ、あいつ顔が広そうだしな。
女性は椅子から立ち上がった。
厚手の服の裾が足元まで落ち、その下にヒールのある靴が見えた。
「でかっ!」
また声が出た。
二メートルは余裕で超えている。
ヒールの分、さらに高い。
俺の頭が肩にも届かない。
ニカンドラは、机の横を回って俺の前まで来た。
近い。
見上げないと顔が見えない。
「人間さん。もう少しよくお顔を見せてくださいませ」
口元に笑みが浮かぶ。
その瞬間、上下の歯列から太い牙が見えた。
完全に肉食獣の牙だ。
ニカンドラが手を伸ばす。
長い指の先に、硬そうな黒い爪が生えていた。
その指先が、俺の顎の下へ触れる。
「っ」
身体が固まった。
爪は刺さっていない。
痛くもない。
ただ、少し動けば喉へ引っかかりそうで、動けなかった。
ニカンドラは指先で俺の顔を上げ、楽しそうに覗き込む。
「今日は、よく働いてくださいね♡」
「は、はい」
ニカンドラは満足そうに微笑み、俺から手を離した。
でかい。
牙も爪も怖すぎる。
ニカンドラは机へ戻り、書類へ目を落とした。
「では、作業を始めましょう」
クレールが何事もなかったように言った。
俺はすぐに頷く。
「はい!」
◇
俺の仕事は、ニカンドラの執務室に書籍と細かな荷物を並べることだった。
大きな家具や荷造りされた木箱は、外から来た馬や牛の作業員が運ぶ。
書籍の箱は、執務室の前まで運ばれていた。
そこから箱を開け、本を何冊かずつ運び、指定された順番で書棚へ収めていく。
一緒に作業するのは、さっき見た七人の美少女メイドだ。
最高だ。
本を並べるだけ。
しかも周りは全員美少女。
やっぱり当たり仕事じゃん!
「こちらの箱は、奥の書棚へお願いします」
「任せて!」
クレールから本を受け取る。
一冊一冊は大した重さじゃない。
俺はまとめて何冊も抱え、書棚まで運んだ。
近くでは、羊の女の子たちも同じように本を運んでいる。
一度に運ぶ量は、俺より少ない。
見た目どおり、あまり力はないらしい。
「それ、俺が持とうか?」
俺は近くにいた羊の女の子へ声をかけた。
「あなたの担当分が残っています」
「あ、はい」
女の子は本を抱えたまま、さっさと歩いていった。
真面目だな。
美少女なうえに働き者。
偉い。
俺も本を棚へ置き、次の箱へ戻る。
箱を開ける。
本を抱える。
棚まで運ぶ。
指定された順番に並べる。
また箱へ戻る。
同じ作業を何度も繰り返す。
最初は余裕だった。
でも、箱が全然減らない。
「まだあるの?」
「ございます」
クレールが、廊下に積まれた箱を示した。
奥までずっと並んでいる。
貴族、本持ちすぎだろ。
大学へ行くからって、全部持ってくる必要あるか?
教科書だけでいいだろ。
俺はもう一度、本を抱える。
さっきより腕が重い。
羊の女の子たちは、まだ同じ速さで動いていた。
一度に持つ量は少ないのに、止まらない。
本を取り、運び、並べ、すぐに次の本を取りに戻る。
動きにも無駄がない。
「めちゃくちゃ働くな……」
ロロなら、三往復くらいで眠いと言い出しそうだ。
ここのメイドたちは、全然休もうとしない。
貴族の家で働くメイドは、ちゃんと教育されているのかもしれない。
俺も負けていられない。
美少女メイド七人の中で、俺だけへばるわけにはいかない。
さらに何冊か重ねて持つ。
重い。
でも、一回でたくさん運んだ方が早く終わる。
「人間さん。そちらは下から三段目です」
「分かってる!」
名前を名乗ったのに、この羊まで人間さんと呼んでいる。
屋敷では、それが俺の役名なのかもしれない。
本を棚へ収める。
また戻る。
運ぶ。
並べる。
昼を過ぎても、作業は続いた。
腕が痛い。
腰も痛い。
指先は、本の角が何度も当たって赤くなっていた。
それでも箱は少しずつ減っていく。
羊のメイドたちは、相変わらず同じ速度で動いていた。
こいつら、体力ありすぎない?
愛玩種って、もっとロロみたいなものじゃないのか。
いや。
ロロが特別ダメな猫なだけだった。
テオも普通に家事をしていた。
顔がいいからって、全員がロロみたいなわけじゃない。
俺は学習する人間だ。
最後の箱が空になった。
残っていた本を棚へ収める。
クレールが、書棚を端から確認していく。
「配置は完了しました」
「終わったー!」
思わず、その場で腰へ手を当てる。
長かった。
ただ本を並べるだけなのに、腕がもう上がらない。
でも、終わった。
これで一万五千タサルだ。
美少女メイドに囲まれて働けたし、途中からあんまり見る余裕はなかったけど、悪くない仕事だった。
羊のメイドたちが一斉に姿勢を正す。
大きな机の向こうで、ニカンドラが書類から顔を上げた。
椅子から立ち上がり、書棚を眺める。
豊かな銀灰色の毛皮が、歩くたびに肩の上で揺れた。
次に、俺を見た。
「あらあら。人間さん、ずいぶん頑張りましたのね♡」
「まあ、これくらい余裕ですよ」
本当は腕が痛い。
でも、美少女メイド七人の前で疲れたとは言えない。
ニカンドラが嬉しそうに笑う。
太い牙が見えた。
「まあ、頼もしいこと♡」
ニカンドラは満足そうに執務室を見回した。
それから、隣の部屋へ続く扉を開ける。
隣にも、同じような大きな書棚が並んでいた。
「やっぱり、書籍はこちらのお部屋にしますわ♡」
「え?」
「すべて、こちらへ運び直してくださいませ♡」
羊のメイドたちは、一斉に頭を下げた。
「承知いたしました」
すぐに書棚から本を取り出し始める。
「ちょっと待って!」
俺は慌てて声を上げた。
「今、全部並べたばっかりですよ!?」
「ええ。綺麗に並んでいますわね♡」
「これを、全部?」
「もちろんですわ♡」
ニカンドラは何がおかしいのか、楽しそうに笑っている。
「でも、もう――」
疲れた。
そう言いかける。
ニカンドラが俺の前へ歩いてきた。
ゆっくりした足音が近づくたび、身体が固くなる。
目の前で立ち止まると、大きな身体が視界を塞いだ。
見上げる。
笑った口元には太い牙。
下ろした手の指先には黒い爪。
喉の奥が詰まる。
息を吸ったのに、全然足りない。
「人間さんには、難しいお仕事だったかしら?」
後ろでは、七人の羊の美少女メイドが働いている。
誰も文句を言っていない。
俺だけ無理だとは言えない。
「……できますけど!」
「あら、よかった♡」
ニカンドラの笑みが、さらに深くなった。
朝の説明を思い出す。
ニカンドラ様に逆らわないこと。
そういう意味だったのかよ!!
俺は今並べたばかりの本へ手を伸ばした。
