第4話 ドラゴンの糞は牛糞じゃない!

「ドラゴン!?」

俺は思わず卓へ身を乗り出した。

「いるのか!? 本物のドラゴンが!?」

「糞便洗浄員の話をしていますにゃ」

「やっと異世界らしくなってきたじゃないか!」

「糞便洗浄員の話をしていますにゃ」

「翼は? 火は吐くのか? 財宝を溜め込んでたりする?」

「ですから、糞便洗浄員の――」

「行く!」

俺が即答すると、ヴァルグレンは求人票を卓へ伏せた。

「今度は最後まで説明をお聞きくださいにゃ」

「聞いてるだろ」

「まだ何も説明しておりませんにゃ」

ヴァルグレンは部屋の隅にいた事務員を手招きし、記録板を持ってこさせた。

「こちらの立会人にも、説明内容を記録していただきますにゃ。後から『普通はそう思わない』と主張されても困りますのでにゃ」

「信用ないな、俺」

「昨日一日で使い切りましたにゃ」

仕方なく椅子へ座り直す。

ヴァルグレンは求人票を表へ返し、一項目ずつ指でなぞりながら読み始めた。

「勤務地はサイル。期間は三日間。対象は都市圏に定着している超大型竜一個体ですにゃ。現地では守護竜様、観光用にはゴロゴロドラゴンくんと呼ばれていますが、どちらも個体名ではありませんにゃ」

「名前ないのか?」

「竜本人が名乗らないので、ございませんにゃ」

「やっぱり人の言葉は話さない?」

「話しませんにゃ。都市を守ってもおりませんし、人間へ懐いてもおりませんにゃ。羊が不足すれば人間も食べますにゃ」

思っていたより、だいぶ野生だった。

「ただし現在は安眠期に入り、ほとんど移動しませんにゃ。都市が羊を安定供給しているため、人間が捕食される可能性も低く保たれていますにゃ」

「安眠期?」

「後ほど資料をお渡ししますにゃ。今は求人の説明を続けますにゃ」

先回りして止められた。

「仕事内容は、指定排泄地に残された糞便を水で崩し、洗浄し、内部に含まれる石、骨、金属、宝石類を選別する作業ですにゃ。回収物はすべて雇用主へ帰属しますにゃ」

「宝石を見つけても?」

「雇用主の物ですにゃ」

「一個くらい――」

「窃盗ですにゃ」

「分かったよ」

「超大型竜は羊を主食とする雑食性ですにゃ。糞便は牛糞などの草食獣由来のものとは、臭気も性質も大きく異なりますにゃ。感染症、転倒、洗浄水による皮膚障害の危険があります。作業中は貸与された防護服を脱がず、監視員の退避命令には必ず従ってくださいにゃ」

「要するに、でかい牛小屋の掃除みたいなものだろ?」

「今、牛糞とは大きく異なると説明しましたにゃ」

「糞は糞だろ。多少臭くても、息を止めれば何とかなる」

ヴァルグレンは事務員へ顔を向けた。

「『牛糞とは異なると説明したが、本人は同じだと主張』まで記録してくださいにゃ」

「そこまで書く!?」

事務員は無言で記録板へ書き込んだ。

「三日間の基本報酬に加え、処理した洗浄籠の数に応じて加算がありますにゃ。行きの交通費、現地での宿泊費、食費、防護具の貸与料は立替となり、報酬から差し引かれますにゃ。途中で辞めることは自由ですが、帰りの交通費はご自身で負担していただきますにゃ」

「帰る金がなかったら?」

「現地で別の仕事を探すか、新たに借りてくださいにゃ」

実質、最後までやるしかない。

「なお、性行為は一切ありませんにゃ」

「それを最初に言えよ!」

「今、明確に申し上げましたにゃ」

すべて読み終えると、ヴァルグレンは俺に内容を復唱させた。

三日間。臭い。危険。拾った物は持ち帰れない。途中で辞めたら帰れない。性行為はない。

そこまで確認してから、ようやく契約書が差し出された。

「これなら問題ない」

「その自信がどこから湧くのか、僕には理解できませんにゃ」

署名を終えると、ヴァルグレンは机の下から薄い冊子を取り出した。

表紙には、丸々と太った竜が腹を地面へつけて寝転んでいた。周囲には笑顔の羊と、手を振る子供たちが描かれている。

『ゴロゴロドラゴンくんに会いにいこう!』

「子供向けじゃないか」

「佐藤さんには、文字だけの資料より適切だと判断しましたにゃ」

「馬鹿にしてるだろ」

「到着するまでに、必ずお読みくださいにゃ」

俺は渋々冊子を受け取った。

表紙をめくる。

『ゴロゴロドラゴンくんは、とっても大きな超大型竜! 若いころは、お空を飛んで世界中を旅していたよ!』

「空を飛ぶのか!」

ヴァルグレンが深いため息をついた。

◇

翌朝、俺は運河沿いの乗船場にいた。

サイルへ向かう最も安い便は、旅客船というより貨物船だった。

上層には個室と食堂があり、セグルでの旅行を終えたらしい裕福な人間たちが乗っている。揃いの耳飾りを付けた新婚らしき男女が、土産物の包みをいくつも抱えて甲板へ上がっていった。

俺たち労働者に割り当てられたのは、その下だった。

窓の小さな船室へ長椅子が詰め込まれ、乗客は肩を寄せ合って座っている。

俺の右には、俺より頭二つは大きな牛の男がいた。太い首と広い肩を持ち、座っているだけで一人半分の場所を使っている。

左には、頬のこけた人間の男が座っていた。こちらは荷物を抱えたまま、出航前から眠っている。

狭い。

牛の男が少し身体をずらしてくれたが、それでも俺の肩は分厚い腕へ押しつけられていた。

「お前も糞洗いか」

低く、はっきりした声だった。

「そうだけど」

「初めてだな」

「なんで分かる?」

牛の男は、俺が持っている冊子を見た。

「それをそんなに嬉しそうにしてる糞洗いは、初めての奴だけだ」

「ドラゴンを見るのも初めてなんだよ」

「竜を?」

牛の男が意外そうに聞き返した。

「故郷にはいなかったんだ」

嘘ではない。日本にはいなかった。

「そうか」

牛の男はそれ以上聞かなかった。

左側で眠っていた人間の男が、目を閉じたまま口を挟んだ。

「現場で鼻が駄目になっても、口で息をするなよ」

「なんで?」

「味がする」

「大袈裟だろ」

男は片目だけ開けて俺を見た。

「そう思えるのも、今のうちだ」

どうやら経験者は、新人を怖がらせるのが好きらしい。

船が動き出した。

船体の奥から低い振動が伝わり、煙突から吐き出された煙が後方へ流れていく。貨物を満載しているとは思えない速さで、蒸気船は真っ直ぐな運河を進んだ。

真っ直ぐ掘られた水路の両側を、倉庫と工房が流れていく。

俺は再び冊子を開いた。

『超大型竜は、大人になると大きな体を支えるために魔法を使うよ!』

「生命維持に魔法を使うのか。格好いいな」

『若いゴロゴロドラゴンくんは、お空を飛んで自分のおうちを探します。お気に入りの場所を見つけると、だんだん動かなくなります』

「世界を旅して、自分の縄張りを見つけるのか。完全にドラゴンじゃん」

『身体が大きくなったら、安眠期! 日なたで寝たり、寝返りをしたりして、何百年も暮らすよ!』

「何百年!?」

「本物のドラゴンだ…! やっと魔法世界っぽくなってきた!」

思わず大声を出すと、船室中の視線が集まった。

向かいに座っていた労働者たちは、少し困ったような顔をして俺を見ている。

「なんだよ。お前ら、ドラゴンに慣れすぎだろ」

「……安全のところも読んでおけ」

牛の男が、冊子の後ろを指した。

「後で読む」

「先に読め」

「今、財宝の話なんだよ」

『ゴロゴロドラゴンくんのお腹には、石や骨、金属がいっぱい! 長いあいだお腹にあった物は、たいせつな魔法資源になることがあります』

「やっぱりドラゴンは財宝を溜め込むんだな!」

左の人間が、牛の男へ小声で言った。

「事情があるんだろ。あまり聞いてやるな」

「聞こえてるぞ」

なぜかその後、牛の男は俺へ水筒を貸してくれた。

窓際の席まで譲ってくれた。

俺は、見た目は怖いが親切な奴なのだと思った。

◇

運河の終点からは、乗合馬車へ乗り換えた。

壁外を抜ける馬車は、相変わらず乗り心地より速さを優先していた。宿場ごとに馬を替え、舗装されていない道をほとんど減速せず駆け抜ける。

座席は船より狭かった。

俺は再び牛の男と隣になり、揺れるたび大きな身体へぶつかった。

「悪い」

「気にするな」

森へ入る前に窓板が閉じられ、御者から外を見るなと命じられた。

途中で一度、遠くから低い鳴き声が聞こえた。

馬車の中の全員が黙り込み、護衛が武器へ手をかける。

俺だけが窓板の隙間を覗こうとして、牛の男に襟を掴まれた。

「冊子の安全欄を読め」

「ちょっと見るだけだろ」

「読め」

仕方なく開いてみる。

『知らない竜を見つけても、近づかないでね! 走って逃げると追いかけてくることがあります』

先に読んでおけばよかったかもしれない。

◇

サイルへ着いたのは、翌日の昼だった。

馬車が森を抜ける。

最初に見えたのは、広大な牧草地だった。

柵で区切られた草地を、数え切れないほどの羊が埋めている。その向こうには低い丘があり、日の光を受けた岩肌が長く連なっていた。

岩肌だと思っていたものが、ゆっくり上下した。

「……あれ?」

先頭部分に、角がある。

畳まれた巨大な翼が、胴体の側面へ張りついている。

太い尾は丘の端まで伸び、地面へ半分埋まっていた。

腹はでっぷりと広がり、自分の重さで潰れたように牧草地へ乗っている。

「本物のドラゴンだー!!!」

俺は馬車の窓から身を乗り出した。

「でっか! めちゃくちゃでかい! 翼ある! 角もある!」

「落ちるぞ」

後ろから牛の男に帯を掴まれた。

巨大な竜が、低い音を立てた。

咆哮かと思った。

違った。

寝息だった。

地面を震わせるほど大きないびきが、都市全体へ響いている。

「ゴロゴロって、寝息の音なのか?」

「寝返りもする」

牛の男が答えた直後、都市のどこかで鐘が鳴った。

牧草地にいた作業員たちが一斉に退避する。

超大型竜はしばらく身じろぎした後、腹を揺らしながら反対側へ転がった。

大地が震えた。

土煙が上がり、羊たちが慣れた様子で柵の端へ移動する。

「動いた!」

「寝返りだ」

「それだけで鐘を鳴らすのかよ!?」

「あれの下敷きになりたくなければ鳴らす」

格好いい。

格好いいが、思っていたドラゴンよりかなり太っていた。

地上には牧草地と竜のための設備ばかりで、街らしい建物はほとんど見当たらない。

馬車は岩壁に開いた狭い入口へ入り、そのまま地下へ下っていった。

通路の先には、宿屋、食堂、商店、倉庫が並んでいた。

竜の下に、本当に街があった。

「すげえ……」

冊子で読んだはずなのに、実物を見るとまるで違う。

やはり来てよかった。

少なくとも、糞の臭いを嗅ぐまではそう思っていた。

◇

作業員宿舎へ荷物を置くと、すぐに現場説明が始まった。

集められた短期労働者は、広い部屋を埋め尽くすほど多かった。

大半は牛や馬の顔をした大柄な獣人で、残りは人間だった。俺と同じような債務者らしい者も少なくない。

猫耳美少女は一人もいなかった。

サイルの監督官は人間の女だった。分厚い記録板を抱え、俺たちへ防護具を配っていく。

「作業は、水掛け、破砕、運搬、洗浄、選別に分かれます。鐘が三回鳴った場合は、すべての道具をその場へ置き、最寄りの退避壕へ入ってください。回収物を衣服や口の中へ隠した場合、窃盗として身柄を拘束します」

「口の中に隠す奴いるのか?」

「毎年います」

俺には蝋を染み込ませた作業着、厚い手袋、長靴、顔を覆う布が渡された。

胸元には名前と所属を記した札が吊るされる。

「防臭布は外さないでください。気分が悪くなった場合は、無理をせず備え付けの桶へ吐いてください」

「吐く前提なのかよ」

俺の隣で防護具を身につけていた牛の男が、空の桶を一つ取って俺へ渡した。

「持っておけ」

「使わないって」

「持っているだけなら邪魔にはならない」

作業現場は、都市の外れにある排泄指定地だった。

高い土塁に囲まれた広場の中央に、黒々とした山ができている。

遠くからでも、羊毛らしき白い塊や、折れた骨が混じっているのが見えた。

「……でかくない?」

「超大型竜だからな」

監督官が合図を出す。

門が開いた。

臭いが来た。

「ぶっ――」

目の奥を直接殴られたような衝撃だった。

腐った肉。濡れた毛。獣の脂。酸っぱい泥。鉄のような臭い。

それらを全部煮詰め、何日も蒸らしてから顔へ叩きつけられたようだった。

鼻で息ができない。

反射的に口を開く。

舌の上へ、臭いが乗った。

「味がする……!」

船で隣に座っていた人間の言葉は、大袈裟ではなかった。

俺は牛の男から渡された桶へ吐いた。

「だから言っただろう」

「こんなの……糞の臭いじゃないだろ……!」

「竜の糞だ」

牛の男は桶を受け取り、背中を一度さすってから作業場所へ向かった。

逃げたい。

しかし帰りの金がない。

俺も涙目のまま後を追った。

太い革管から水が放たれ、糞の山を崩していく。

牛や馬の獣人たちが長い鉄の鉤で塊を砕き、桶と荷車へ移す。水と混ざった汚泥は傾斜を流れ、何段にも重ねられた洗浄籠へ注ぎ込まれた。

俺に割り当てられたのは、崩れた糞を掬って運搬桶へ入れる仕事だった。

一杯目から重い。

二杯目はもっと臭い。

三杯目には、羊毛と一緒に半分溶けた何かがついてきた。

見ないことにした。

身体は動いた。

女神に丈夫にしてもらったおかげで、腕も腰もまだ平気だった。

だが鼻と心には、何の加護もなかった。

「これ、光ってないか!?」

洗浄籠の底から、青く光る小石が出てきた。

俺が拾い上げると、監督官がすぐに番号付きの箱を差し出した。

「こちらへ」

「見つけた人への手当は?」

「ありません」

「一個くらい――」

「契約時に説明を受けていますね?」

「……受けました」

小石を箱へ入れる。

ドラゴンの財宝を見つけたのに、俺の物にはならなかった。

遠くで、超大型竜の寝息が響いた。

ゴロゴロという低い音に合わせ、洗浄水の表面が細かく揺れる。

冊子の中では可愛かった音が、今は腹立たしかった。

◇

一日目の作業が終わった頃には、日が沈んでいた。

防護具を洗い、身体を三度洗った。

それでも鼻の奥から臭いが消えない。

夕食として羊肉の煮込みが出されたが、見るだけで昼間の光景が蘇った。

俺はパンだけ食べた。

宿舎には寝台が隙間なく並んでいた。

横になって目を閉じる。

水音が聞こえる。

鉄の鉤で崩れた塊が、頭の中へ浮かぶ。

臭いがする。

実際には洗ったはずなのに、まだ顔の周りを漂っている気がした。

「……帰りたい」

声に出した瞬間、涙が出た。

情けない。

仕事はあと二日ある。

身体はまだ動く。

だから余計に、明日も働けてしまう。

「泣いているのか」

隣の寝台から、牛の男がこちらを見ていた。

「泣いてない。臭いが目に残ってるだけだ」

「そうか」

否定もされなかった。

牛の男は自分の寝台へ少し場所を空け、太い腕を広げた。

「眠れないなら来い」

「なんでだよ」

「明日も働く仲間を、眠れないままにはしておけない」

「男に抱かれて寝る趣味はない」

「趣味で抱くんじゃない」

「金は?」

「取らない」

「契約は?」

「いらない」

本当に、ただ心配しているらしい。

「嫌なら触らない。だが、眠れないまま現場へ出れば危ない」

牛の男は、それ以上勧めなかった。

俺はしばらく自分の寝台で粘った。

眠れなかった。

臭いが消えない。

明日の糞の山が、目を閉じるたび大きくなっていく。

「……少しだけだからな」

牛の男の寝台へ移る。

大きな腕が、俺の背中へ回された。

胸板も腕も硬いのに、包まれると妙に温かかった。

一定の速さで背中を叩かれる。

「もうやりたくない、でも借金があって、逃げられない……」

「そうか」

「あと二日もある……」

「二日終えれば帰れる」

「無理かもしれない」

「今日、最後まで働いた」

「身体は動くんだよ。心が無理なんだよ……」

「なら今は寝ろ。心は寝ている間に休ませればいい」

また涙が出た。

牛の男の胸へ顔を押しつける。

低い鼓動を聞いているうちに、いつの間にか眠っていた。

◇

翌朝、目を覚ますと、まだ牛の男の腕の中だった。

周囲の労働者たちは、すでに朝食の支度を始めている。

誰も笑っていなかった。

「ちゃんと眠れたようでよかったな」

向かいの寝台にいた労働者が、穏やかに笑った。

「違うからな。別に抱かれたかったわけじゃないからな」

「うん。眠れてよかった」

「その優しい顔やめろ!」

二日目も、臭いはまったく軽くならなかった。

慣れたのは、吐くまでの時間が少し伸びたことだけだった。

身体が丈夫なせいで、午後には一番処理量の多い組へ回された。

働けば働くほど報酬は増える。

それだけを考えて、俺は糞を掬い続けた。

夜になると、また涙が出た。

牛の男は何も言わず、寝台の上で腕を広げた。

「今日は泣いてない」

「そうか」

「目が痛いだけだからな」

「分かった」

俺は自分から腕の中へ入った。

三日目の朝は、現場へ向かう前から泣いた。

それでも仕事はした。

牛の男と並んで運搬桶を持ち、洗浄籠を何度も往復した。

「泣いてるのに、よく動くな」

「身体だけは丈夫なんだよ!」

夕方、最後の洗浄籠から何も出なくなった。

監督官が俺の作業札へ完遂印を押す。

「三日間、ご苦労さまでした」

「終わった……?」

「終わりです」

「もう糞を洗わなくていい?」

「次回の募集へ応募されない限りは」

「絶対に来ない!」

宿舎へ戻った俺は、自分の寝台を通り過ぎ、そのまま牛の男の隣へ行った。

牛の男が布団を持ち上げる。

「今日で最後だからな」

「分かっている」

「泣いてもない」

「それも分かっている」

俺は泣きながら、三日目も抱かれて眠った。

周囲の誰かが、

「今日もちゃんと眠れそうでよかった」

と小さく言った。

◇

帰りの馬車と船では、ほとんど眠っていた。

行きにあれほど夢中で読んでいた冊子は、荷物の底へしまった。

ただ、捨てはしなかった。

セグルへ戻ったのは金曜の夕方だった。

契約代行社で完遂証明を提出すると、ヴァルグレンは報酬から交通費、食費、宿泊費、防護具の貸与料を引き、契約で定められた返済分が引かれ、残りが拓海へ支払われた。

「三日間、すべて完遂されていますにゃ。おめでとうございますにゃ~♡」

「二度とやらないからな」

「同じ時期に来年も募集される可能性がありますにゃ」

「絶対に教えるな」

借金は大きく減っていた。

それでも完済には遠い。

「それから、今夜は帰還者用の共同宿を一晩だけ利用できますにゃ。明日の午前九時、今後のお住まいについて手続きがありますので、もう一度こちらへ来てくださいにゃ」

「住むところ、用意してくれたのか?」

「保証人不要、人間さん専用の、清潔で安全な完全個室ですにゃ♡」

「最初からそれを用意しろよ」

「お支払い能力を確認できない方にはご案内できませんにゃ。今の人間さんなら契約可能ですにゃ」

「じゃあ今日やってくれよ」

「管理会社の受付時間は終了していますにゃ。明日の午前九時、遅れずにお越しくださいにゃ」

「分かったよ。九時な」

会社を出ると、牛の男が待っていた。

「夜市へ行くぞ」

「なんで?」

「最後まで働いた祝いだ。奢ってやる」

「いいのか?」

「俺には借金がない」

少し腹が立ったが、奢ってもらえるなら断る理由はない。

金曜の夜市は、最初にこの国へ来た時よりも賑わっていた。

通りの両側へ明かりが連なり、料理、菓子、衣服、香り、遊び道具を売る屋台がどこまでも続いている。

牛の男は、羊肉を避けて屋台を選んでくれた。

揚げた川魚と辛い麺、それに冷たい果実水を二人分買う。

広場の長椅子へ座り、ようやく人心地がついた。

「牛さん」

「なんだ」

「そういえば、名前なんていうの?」

牛の男が、麺を持ったまま動きを止めた。

「今、聞くのか?」

「聞く暇なかっただろ」

「三日間、毎晩俺の腕で泣いて眠る時間はあった」

「それとこれは別だろ!」

「俺はお前の名前を知っているぞ。胸に名札を下げていたからな、拓海」

「そういえばそうだった」

牛の男は呆れたように息を吐いた。

「ダグワドルジだ」

「だ……ダグワ……?」

「ダグでいい、みんなそう呼ぶ」

「じゃあ、改めてよろしく。ダグ」

「牛さんのままでも構わない」

「名前を聞いた意味ないだろ」

ダグは少しだけ笑った。

俺が異世界へ来て初めてできた友人は、猫耳美少女ではなかった。

三日間一緒に竜の糞を洗い、毎晩泣く俺を抱いて寝てくれた、巨大な牛の男だった。

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