第8話 腐った鹿は美しい!

日の出前の東門には、俺を待つ三人の人間と、一台の馬車がいた。

一人は、痩せた女だった。

茶色い髪を後ろでまとめ、分厚い外套の上から鞄をいくつも提げている。俺が近づいても、手元の書類から顔を上げない。

「佐藤拓海です」

「エルマ・ヴィーデ。今回の調査責任者だ」

それだけ言うと、エルマは書類へ印をつけた。

俺の顔を見たのは、本人確認をした一瞬だけだった。

次に立っていたのは、日に焼けた顔へ深い皺を刻んだ男だ。

使い込まれた毛皮の外套をまとい、首から遠眼鏡といくつもの笛を提げている。白髪交じりの髭は伸び放題で、どう見ても街中より山の中にいる方が似合う。

「竜監視員のベルン・カイルだ。俺が戻れと言ったら、何をしていても戻れ。荷物は捨てろ。人を待つな」

「人は待ってくださいよ」

「待たせるな!」

いきなり怒鳴られた。

最後の一人は、ニコニコした丸顔の中年男だった。

「君が新入りの佐藤くん?」

「はい」

男は俺の顔を見るなり、目を丸くした。

「えぇ~! すっごい男前だね! ホストでもやればいいのに!」

「そんなにですか?」

「そりゃあもう。都会でも、なかなか見ない顔だよ~」

久しぶりだった。

セグルでは、顔の整った愛玩種がそこら中を歩いている。女神から貰ったこの顔も、完全にその他大勢へ埋もれていた。

だが、人間ばかりのセラキアへ戻れば話は別らしい。

「ちなみに、ホストって稼げます?」

「食いつくねぇ~。その顔なら、うまくやれば結構いけるんじゃない?」

「へえ……」

この世界にもホストがあるのか。

異世界へ来ても、そういうものはなくならないらしい。

なんだか嫌だなあ。

そう思いながらも、俺の頬は緩んでいた。

「オスカー・メルツ。僕も野外採取補助員だよ~。今回で四回目だから、分からないことがあったら聞いてね」

「よろしくお願いします、オスカーさん」

「挨拶は終わったか!」

ベルンが怒鳴った。

「日が昇る前に出るぞ! 荷物を積め!」

怒鳴らなくても聞こえている。

◇

馬車は一日かけて東へ進んだ。

城壁都市を離れると、道沿いの畑や集落は次第に少なくなっていった。

夕方、馬車が停まったのは、森の手前にある小さな番所だった。

そこから先は道幅が狭く、馬車では入れない。

食料、薬、寝具、研究機材。

すべてを四人で分けて背負い、さらに二時間ほど歩いた。

森の中にある一時休憩小屋は、聞いていた通りの掘っ立て小屋だった。

壁と屋根はある。

中には四つの寝台と、錆びた小さな炉がある。

それだけだった。

「飯は?」

「持ってきただろうが!」

ベルンに怒鳴られた。

「いや、食堂とかないのかなって」

「こんなところに誰が店を出すんだ!」

「それもそうか」

その日は持参した保存食を食べ、早々に眠った。

翌朝から、本格的な調査が始まった。

「佐藤くんは、これね」

オスカーさんが俺へ背嚢を渡した。

見た目の割に軽い。

「助かります」

「中身は映像記録器と写真機、生体保管筒。軽いけど大事なものだから、気をつけてね」

「オスカーさんは?」

「僕はこっちぃ〜」

オスカーさんが背負ったのは、大きな金属製のタンクだった。

底から太い管が伸び、先端には散布用の筒が取りつけられている。

「それが忌避液?」

「そうそう。原生生物が嫌がる、ものすごく苦い汁だよ~」

「重そうですね」

「満タンだからねぇ。でも新入りに重い方を持たせるわけにいかないでしょー」

いい人だった。

ダグといい、なぜ俺の周りにいるいい人は、やたらと身体が大きいのだろう。

「出るぞ!」

小屋の外から、ベルンの怒鳴り声が聞こえた。

◇

山には、道がなかった。

ベルンを先頭に、木々の間を進む。

根を跨ぎ、斜面を登り、湿った落ち葉へ足を沈める。

「列を崩すな!」

「空を見ろ!」

「足元を見ろ!」

「どっちを見ればいいんだよ!」

「両方だ!」

無茶を言う。

ベルンは時々立ち止まり、木の幹や地面を調べた。

傷のついた樹皮。

折れた枝。

泥に残された足跡。

俺にはどれも同じ森にしか見えないが、ベルンには何か分かるらしい。

エルマは、さらに頻繁に立ち止まった。

湿った倒木を削り、落ち葉をひっくり返し、獣の毛が落ちていれば鼻先まで近づける。

そのたびに俺たちは待たされた。

午前中が終わっても、何も見つからなかった。

「原生生物って、その辺の湿った場所にいるんじゃないんですか?」

「いる」

エルマは倒木の内側を細い棒で掻きながら答えた。

「じゃあ、もう採ればいいだろ」

「今回必要なのは、死骸移動型の生体試料だ。どれでもいいわけではない」

「死骸は?」

「それを探している」

小さな原生生物を探す仕事ではなかった。

小さな原生生物が入った死骸を、山の中から探す仕事だった。

先に説明してほしい。

昼になり、短い休憩が入った。

俺は背嚢の肩紐を外した。

地面までは、まだ少し距離がある。

だが軽い荷物だし、中身は箱に入っている。

大丈夫だろう。

そのまま手を離した。

背嚢が、どすん、と地面へ落ちた。

「今、何をした」

エルマの声がした。

「置きました」

「置いた?」

エルマが飛んできた。

背嚢を開き、中に入っていた器具を一つずつ取り出して調べる。

「記録器を地面へ落としたのか!?」

「落としたっていうか、ちょっと高いところから置いただけで」

「同じだ!」

森中へ響くほど怒鳴られた。

「この生体保管筒一本で、お前の日当五日分だぞ! 映像記録器を壊したら、お前が契約期間いっぱい働いても足りん!」

「そんなに高いの!?」

「研究機材の値段が、大きさ決まると思うな! 機材を壊したら契約に従って給料から引くぞ!!」

「公的研究所ですよね!?」

「公費で買った物だからこそ弁償させるんだ! 取り扱い規則を読まなかったのか!」

読んだ気がする。

少なくとも、貰った冊子の題名にはあった。

「壊れてないんだからいいだろ」

「壊れてから怒鳴っても遅い!」

エルマは記録器を何度も確認し、ようやく背嚢へ戻した。

「オスカー。荷物を交換しろ」

「でも、佐藤くんは初日だし――」

「こいつには壊れない物を持たせろ!」

エルマが忌避液のタンクを指差した。

「お前はこれを背負え!」

「重い方じゃないか!」

「落としても簡単には壊れん!」

オスカーさんは申し訳なさそうな顔で、俺から背嚢を受け取った。

「ごめんねぇ。紐は僕に合わせてあるから、少し詰めようか」

タンクの紐を俺の身体へ合わせ、肩へ布まで挟んでくれた。

本当にいい人だった。

背負った瞬間、膝が沈んだ。

「これ、何が入ってるんですか」

「苦い汁」

「原生生物って小さいんですよね?」

「死骸一頭へ浸み込ませるから、たくさん必要なんだよ~」

「先に言ってくれよ……」

午後からは、満タンのタンクを背負って歩いた。

斜面を登る。

下る。

川を渡る。

また登る。

何も見つからないので、タンクはまったく軽くならなかった。

エルマが調べたのは、乾ききった狐の死骸と、毛皮だけになった兎、それから何の変哲もない腐った倒木だった。

どれにも目的の原生生物はいなかった。

日が傾くまで山中を歩き回り、成果なしで小屋へ戻った。

「明日は北側の斜面を調べる」

エルマはそれだけ言い、今日の記録をまとめ始めた。

俺は床へ倒れ込んだ。

「汁をかけて待つだけの仕事じゃなかったのかよ……」

「かける相手がいればねぇ」

オスカーさんが笑いながら、俺の背中からタンクを外してくれた。

「肩、痛くない? 明日はもう少し紐を短くしようか」

「お願いします……」

オスカーさんは俺の靴を炉の近くへ並べ、濡れた靴下まで乾かしてくれた。

夕食も、俺の分だけ少し多めによそってくれた。

やっぱりいい人だった。

「オスカーさん、前にもこの仕事をしたんですよね」

「うん。今回で四回目」

「なんでこんな仕事を?」

オスカーさんは、煮豆を食べながら明るく答えた。

「ギャンブル」

「はい?」

「いやぁ~、歯、全部賭けちゃってさぁ~~~」

「歯って賭けられるんですか?」

「僕くらいの歳だと、いい値段になるからねぇ。長く使った永久歯でしょ?」

そういえば、俺も異世界へ来た直後、借金のかたに歯を抜かれそうになった。

「……こっちの借金取りって、歯を抜くの普通なんですか?」

「高く売れるからねぇ~」

「きしょっ!」

なんなんだ、この世界。

借金をすると歯が減るのか。

「それで、全部負けたんですか?」

「負けちゃった~」

「笑ってる場合じゃないだろ」

「それだけじゃなくて、借りてた分も返せなくなってねぇ。まず、ぼこぼこにされて~」

「まず?」

「待ってくださいって、何時間も土下座して~。それで、この仕事についたんだよ~。ほら、見てぇ~」

オスカーさんが大きく口を開けた。

片側の犬歯が、一本だけ綺麗になくなっている。

「抜かれたんですか?」

「その場で。麻酔なしで」

「えっ」

「痛かったよ~」

へらへらと笑っている。

俺は少し身体を引いた。

「頭金、的な~? あはは~」

「的な、じゃないでしょ。それ、完全に見せしめですよ」

「そうなのかなぁ~」

「残りの歯は?」

「今回の報酬で返せれば大丈夫。たぶん」

「たぶん!?」

「まあまあ。佐藤くんも豆、もう少し食べる?」

「いただきます」

ギャンブル以外は、本当にいい人だった。

◇

二日目の朝。

目を覚ますと、オスカーさんが朝食を作っていた。

昨日あれだけ歩いたのに、俺より先に起きている。

「おはよう。肩はどう?」

「痛いです」

「紐、直しておいたよ~。昨日より楽になると思う」

「ありがとうございます」

「食ったら出るぞ!」

外からベルンの怒鳴り声が飛んできた。

朝くらい静かにできないのか、あの爺さんは。

二日目も、山を歩いた。

昨日より斜面が急だった。

濡れた岩へ足を取られ、枝に顔を叩かれ、満タンのタンクに後ろから引っ張られる。

丈夫な身体でなければ、昼になる前に帰っていたと思う。

それでも何も見つからなかった。

昼前。

ベルンが突然、片手を上げた。

「止まれ」

初めて、怒鳴らなかった。

全員が動きを止める。

風の音。

葉の擦れる音。

その向こうから、何かを引きずるような音が聞こえた。

ずる。

ごと。

ずる。

木々の間から、鹿が現れた。

最初は、脚を怪我しているのかと思った。

違った。

鹿は、完全に腐っていた。

腹は大きく裂け、黒く変色した肋骨が覗いている。毛皮は泥と体液で固まり、片方の目はすでにない。

首は力なく垂れ下がり、鼻先が地面を擦っていた。

それなのに、歩いている。

前脚が、関節とは逆の方向へ折れ曲がる。

骨が地面へ引っかかる。

少し遅れて後脚が引かれ、腐った胴体が前へ進む。

傷口の奥で、半透明の粘液が細い糸のように伸び縮みしていた。

「動いてる……」

「死骸移動型だ」

エルマの声が震えた。

恐怖ではない。

「開始二日目で一例目だぞ!」

エルマが満面の笑みを浮かべた。

「今回は運がいい!!!」

昨日まで、人間へ怒鳴るか命令するかしかしていなかった女が、初めて嬉しそうな顔をした。

「近づくな!」

鹿へ走り寄ろうとしたエルマの外套を、ベルンが掴んだ。

「周囲を確認するまで待て!」

「分かっている! オスカー、映像記録器! 写真機も出せ!」

全然分かっていないように見える。

ベルンが周囲を確認している間も、エルマは鹿から目を離さなかった。

オスカーさんから写真機を受け取ると、何枚も何枚も撮影する。

「見ろ、この左後肢。筋肉はほとんど残っていないのに、粘液索だけで引いている」

鹿の後脚が、あり得ない方向へ曲がった。

「美しい……」

どこがだよ。

「この牽引周期……。頭部が完全に下垂しても、進行方向が乱れていない。素晴らしい」

エルマは泥の上へ膝をつき、撮影する角度を変えた。

「そのままだ。もう一歩。そう、いいぞ……」

腐った鹿に話しかけている。

俺が機材を地面へ置いただけで、あれほど怒鳴った女が。

人間には一度も向けなかった優しい声を、鹿の死骸を動かす粘液へ向けている。

情熱というより、性癖に見えた。

気持ち悪い。

「佐藤! そこに立つな、影が入る!」

「知らないよ!」

「映像が撮れた。採取へ移るぞ!」

ベルンが周囲の安全を確認すると、作業が始まった。

オスカーさんが鹿の周囲へ浅い受け皿を置き、その上へ厚い吸収布を広げていく。

エルマは保管筒と細長い採取器具を並べた。

俺はタンクから伸びた管を握る。

「背中から腹部へ順番にかけろ。傷口だけではなく、毛皮全体へ浸み込ませろ」

「これ、俺がやっていいの?」

「液をかけるだけなら、田舎の老人でもできる」

「じゃあ簡単な方なんだな」

「だからお前へ任せている」

腹が立つ。

散布筒の栓を開くと、濃い茶色の液体が噴き出した。

薬草を何十種類も一緒に煮詰めたような、鼻の奥まで苦くなる臭いがする。

鹿の背中へかける。

毛皮が濡れ、液体が傷口から体内へ流れ込んでいく。

脚。

首。

裂けた腹。

言われた通り、全身へ染み込ませた。

「これで?」

「待つ」

「どのくらい?」

「出てくるまでだ」

本当に、かけて待つだけだった。

数分後。

鹿の動きが鈍くなった。

逆向きに曲がっていた前脚が止まり、腐った身体がゆっくり地面へ沈む。

空洞になった眼窩の奥が膨らんだ。

灰色の粘液が、細い膜となって這い出してくる。

「来た!」

エルマが嬉しそうに叫んだ。

口から。

鼻から。

腹の傷口から。

関節の隙間から。

半透明の索が、何本も流れ出してくる。

細いものは髪の毛ほどで、太いものは俺の指ほどもある。それぞれが別々に縮みながら、忌避液から逃げるように受け皿の上へ広がっていった。

「原生生物って、小さいんじゃなかったのかよ……」

「一個体は小さい。これは群体だ。講習で聞いただろう」

「聞いたような気はする」

「もっと右前肢へかけろ! 内部に残っている!」

俺は追加の液をかけた。

オスカーさんが流れ出した粘液を受け皿へ誘導し、エルマが一部を採取器具ですくい上げる。

保管筒へ収められた粘液は、細かな泡を立てながら壁面へ張りついた。

「状態良好。発動反応も残っている」

エルマの目が輝いている。

「美しい……」

やっぱり気持ち悪い。

原生生物が抜けるにつれ、鹿の身体は形を保てなくなった。

前脚が外れ、腹が潰れ、皮膚と骨だけになった胴体が泥の上へ崩れる。

さっきまで歩いていたものが、ただの腐った死骸へ戻った。

「採取完了だ」

エルマが保管筒へ封をし、記録札を貼った。

「これで一つ終わりですか?」

「一つ?」

「規定数のうち、一つ採れたんだろ?」

「一例目が採れただけだ。必要な条件も生育段階も、まだいくつも残っている」

「開始二日目で見つかったんだから、この調子なら一か月で終わりますよね?」

「この調子が毎日続くと思っているのか?」

エルマは保管筒を光へ透かし、また笑った。

「だから言っているだろう。今回は運がいい!!!」

その足元では、中身を抜かれた腐った鹿が崩れていた。

俺には何一つ、運がいい光景には見えなかった。

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