第9話 回復魔法で全回復なんてしない!

腐った鹿を見つけたのは、火曜日だった。

それから水曜と木曜の二日間、俺たちは何も見つけられなかった。

朝から山へ入り、満タンに近い忌避液のタンクを背負って歩く。

湿った倒木。

獣の足跡。

腐りかけた兎。

何かを埋めたような土の盛り上がり。

エルマは見つけるたびに調べたが、どれにも目的の原生生物はいなかった。

初めての採取が二日目だったせいで勘違いしていた。

あれは本当に運がよかったらしい。

◇

金曜日。

俺たちは小屋を出て、森の外縁にある集合地点へ向かった。

エルマは火曜日に採取した保管筒を背負っている。

目的地へ着くと、ほどなくして街道の向こうから馬車が現れた。

「帰れる……!」

久しぶりに見る馬車だった。

屋根がある。

座席がある。

歩かなくても街まで運んでくれる。

俺は馬車の後ろへ回り、乗り込もうとした。

「何をしている!」

ベルンに襟を掴まれた。

「何って、帰るんだろ?」

「検体を引き渡すだけだ!」

「街へ戻らないの!?」

「戻るのは馬車だ!」

馬車から降りた補給員たちは、挨拶もそこそこに荷物を降ろし始めた。

一週間分の食料。

薬品。

新しい生体保管筒。

吸収布。

撮影用の資材。

そして忌避液。

「この馬車、今日中に街へ戻るんですか?」

「当たり前だろうが!」

「一晩くらい、ここに置いておけばいいのに」

「竜圏で馬を繋いで寝る馬鹿がいるか! 食われるぞ!」

ベルンが怒鳴った。

馬車を引いている二頭の馬は、周囲の臭いを気にするように何度も鼻を鳴らしている。

補給員も長居する気はないらしい。

エルマから検体の入った保管箱を受け取ると、代わりに空の容器と書類を渡した。

「第一例、状態良好。次の定期便で途中結果を送ります」

「了解しました。竜の目撃報告は?」

「なし」

「街道北側で大型種の飛翔痕が確認されています。次週の補給時刻が変更される場合は、番所へ伝令を出します」

補給員はそれだけ告げ、急いで馬車へ戻った。

「待って! せめて俺だけ乗せていってくれ!」

「佐藤! 荷物を運べ!」

馬車は土煙を上げて去っていった。

俺の前には、補給された物資が積まれている。

この数日で食べた分だけ、荷物は少しずつ軽くなっていた。

その減った分が、全部戻ってきた。

「忌避液、まだ残ってますけど」

「次の個体が大型かもしれん。満量まで補充する」

エルマが、俺のタンクへ新しい忌避液を注ぎ始めた。

「また満タンにするの!?」

「足りなくなるよりいい」

帰り道。

俺の荷物は、一週目とほとんど同じ重さになっていた。

むしろ、新しい食料を多めに受け取った分だけ重い気がした。

◇

土曜日、成果なし。

日曜日、成果なし。

月曜日、成果なし。

毎日、山を歩いた。

ベルンは空と地面を見ながら先頭を進み、エルマは湿地や死骸を調べる。

オスカーさんは高価な研究機材を背負い、俺は壊れない代わりに重いタンクを背負う。

歩く。

登る。

下る。

何も見つからない。

月曜の昼過ぎ。

前方の藪から、一頭の鹿が飛び出した。

ものすごい速さだった。

斜面を駆け下り、木の幹へ身体をぶつけても、まったく速度を落とさない。

ベルンが背負っていた猟銃を構えた。

乾いた音が、森へ響いた。

鹿の頭が跳ね、そのまま地面へ転がった。

「すごい!」

一発だった。

ベルンは倒れた鹿へ近づかず、その場所を地図へ書き込んだ。

近くの枝には、赤い布を結ぶ。

「回収しないのか?」

鹿肉なら、しばらく食料になる。

だが、誰も鹿へ近づこうとしなかった。

エルマは地図を確認し、オスカーさんは何事もなかったように歩き始める。

俺も少し考えた。

そして分かった。

俺たちが探している原生生物は、動物の死骸へ入り込む。

ならば、先に鹿を殺して森へ置いておけばいい。

そのうち原生生物が寄生し、採取対象になるかもしれない。

「なるほどな……」

頭がいい。

さすが経験者だった。

◇

火曜日にも、鹿が一頭現れた。

前脚を引きずりながら、それでも不自然な速さで走っている。

ベルンが頭を撃ち抜いた。

また地図へ位置を書き込み、赤い布を結ぶ。

「多いな……」

ベルンが低く呟いた。

「そうなんですか?」

「森なら珍しくはない。だが、この区画で二日続けて見るとはな」

それ以上、誰も気にしなかった。

原生生物用の死骸が増えた。

これで仕事が早く終わるかもしれない。

俺は少しだけ希望を持った。

◇

水曜日。

成果がないまま、一週間が過ぎた。

その日、俺たちは小屋から北東の沢へ向かっていた。

ベルンが先頭。

その後ろにエルマ。

俺とオスカーさんが続く。

満タンのタンクが、歩くたびに背中で揺れた。

「今日も見つからなかったら、もう鹿のところを見に行けばいいんじゃないですか?」

「何の話だ」

エルマが振り返った。

「いや、なんでもない」

まだ寄生していないのだろう。

専門家には専門家の判断がある。

その時、すぐ横の藪が大きく揺れた。

「止まれ!」

ベルンが叫ぶ。

間に合わなかった。

黒い塊が、藪を突き破って飛び出した。

イノシシだった。

大きい。

速度を落とさず地面を蹴り、真っ直ぐ俺へ突っ込んでくる。

「えっ――」

避ける暇もなかった。

イノシシの頭が太腿へぶつかり、俺は地面へ倒れた。

次の瞬間、強い力で脚を挟まれた。

「いっっっったあああああ!!」

牙が服を突き破り、肉へ食い込む。

噛みついたイノシシは、俺を引きずるでも、食いちぎるでもなかった。

一度だけ強く顎を閉じると、すぐに離した。

そのまま別の藪へ走り去ろうとする。

「伏せろ!」

すでに倒れている。

銃声が響いた。

イノシシの頭が弾けるように揺れ、身体が地面へ転がった。

四肢が何度か激しく動き、それから止まる。

「佐藤くん!」

オスカーさんが駆け寄ってきた。

「脚! 脚を噛まれた!」

「見せて!」

オスカーさんが俺のズボンを裂いた。

太腿に、牙の跡が並んでいる。

一部は皮膚が裂け、血が流れていた。

「血が! 死ぬ!」

「これくらいでは死なない!」

ベルンが救急箱を持ってきた。

「水! 洗浄剤! 早くしろ!」

傷へ大量の水をかけられた。

「痛い痛い痛い!」

「動くな!」

「傷に水入ってる! 絶対入ってる!」

「入れてるんだ!!」

さらに刺激の強い薬をかけられた。

噛まれた時より痛い。

「いっっっっったああああ!!」

「騒ぐな!」

「痛いんだから仕方ないだろ!」

ベルンは俺の傷を指で押し、脚を曲げさせた。

「骨は無事。腱も切れていない。大きな血管も外れている」

「でも血が出てる!」

「皮膚が裂ければ血くらい出る!」

エルマがイノシシの死骸を遠くから確認していた。

「新鮮だな。死後一日以内。神経駆動型で間違いない」

「死後?」

「そのイノシシは死んでいる」

「死んでるのに、あんなに速く走ったの!?」

「魔法破傷風だ。講習で説明しただろう」

聞いた覚えがない。

「四種混合は接種済みだな?」

「打った! 十日も待たされた!」

「なら感染の可能性は低い。抗菌薬も飲ませろ」

オスカーさんが救急箱から薬を取り出した。

「これ、飲んで。水もゆっくりね」

「オスカーさん……」

「怖かったねぇ。もう大丈夫だから」

やっぱりオスカーさんだけが優しい。

「まだ処置は終わってないぞ」

ベルンが、目盛りのついた細長い資材を取り出した。

傷を一度見てから、その端をほんの少しだけ切る。

「動くな」

「今度は何するの?」

「閉じる」

ベルンが、切り取った資材を傷へ押し当てた。

短い言葉を唱える。

次の瞬間、資材そのものが細かな粒となって消えた。

傷の周囲が熱くなる。

裂けていた皮膚の両側が、ゆっくりと伸びた。

薄い膜を挟んで互いへ寄り、赤い線を残して貼りついていく。

流れていた血が止まった。

「回復魔法だ!」

痛いのも忘れて、俺は身を起こした。

「今の、魔法だろ!?」

「傷を閉じただけだ」

「ついに異世界らしい魔法を――痛っ!」

脚を動かした瞬間、太腿の奥へ鋭い痛みが走った。

「まだ痛いんだけど!?」

「当たり前だ! 治してねえんだからな!」

「傷、塞がっただろ!」

「皮膚を寄せて貼りつけただけだ! 中の噛み傷まで消えるか!」

「全回復とかしないの!?」

「そんな難しい魔法、俺にできるか!! 筋肉も血管も神経も、全部構造が違うんだぞ! 元通りに治したけりゃ医者を連れてこい! 俺は竜監視員だ!!」

「じゃあ痛みは!?」

「薬を飲んで我慢しろ!」

横で見ていたオスカーさんが、感心したように息を吐いた。

「いやぁ~、ベルンさんはやっぱり熟練してるなぁ~。僕だったら心配で、今の倍は使っちゃうもんなぁ」

エルマまで頷いた。

「閉鎖量に対して余剰がほとんどない。相変わらず資材の見積もりが正確だな」

「なんでみんな感心してんの!? 俺はまだ痛いんだけど!!」

「傷は閉じただろうが!」

「もっと資材を使えば、痛みも消えたんじゃないの!?」

「同じ術に倍突っ込んでも、余った分が消えるだけだ!!」

「おつりとかないの!?」

「ない!! 基礎から勉強し直せ!!」

教科書には、そんなことが書いてあった気もする。

流し読みした章に。

◇

ベルンは、撃ったイノシシの位置を地図へ書き込み、近くの枝へ赤い布を結んだ。

「前の鹿も、魔法破傷風だったのか?」

「他に何だと思っていた」

「ベルンさんが狩りをしてるのかと」

「なら、なぜ回収しない」

「そこは俺も疑問だったんだけど……」

三人が俺を見る。

「死骸を森へ置いておけば、原生生物が寄生するだろ?」

誰も何も言わない。

「そうしたら採取対象が増えて、仕事が早く終わる。そういう作戦かと思ってた」

沈黙が続いた。

ベルンの顔が、少しずつ赤くなった。

「俺が感染死骸を森で養殖していると思っていたのか!!」

「養殖っていうか、餌を用意してるのかなって」

「位置を記録して、回収班へ報告してるんだ!! 誰が好き好んで感染死骸を増やすか!!」

エルマが、信じられないものを見るように俺を見ている。

「お前は十日間の講習で、何を聞いていた?」

「大事なところは聞いた」

「魔法破傷風は、最も大事なところの一つだ!」

「途中でちょっと眠かったんだよ!」

「寝ていたのか!!」

「耳では聞いてた!」

「聞いてないから噛まれたんだろうが!!」

ベルンとエルマに同時に怒鳴られた。

「佐藤くん」

オスカーさんが、俺の肩へ優しく手を置いた。

「変だと思ったら、今度から一回聞こうねぇ」

「はい……」

◇

その日の調査は中止になった。

帰り道は、オスカーさんが忌避液のタンクを背負ってくれた。

俺は脚を引きずりながら小屋へ戻った。

傷は塞がっている。

血も出ていない。

骨も腱も無事らしい。

だが、痛いものは痛い。

夜になると、噛まれた場所の周囲が大きく腫れた。

オスカーさんが何度も熱を確かめ、薬を飲む時間も教えてくれた。

温かい飲み物まで作ってくれる。

「怖かったねぇ~」

「いきなり藪から出てきたんですよ……」

「うんうん」

「噛まれたし、ベルンさんは怒鳴るし、回復魔法も全然回復しないし……」

「痛かったねぇ~」

オスカーさんが、俺の背中をゆっくり撫でた。

「でも、ちゃんと小屋まで歩いたんでしょ。偉いよ~」

「身体だけは丈夫だから……」

「明日も痛かったら、無理しなくていいからね」

優しくされると、また涙が出た。

俺は異世界へ来てから、各地で肉体労働に従事する中年男性へ泣きついてばかりいた。

◇

翌朝。

傷は昨日より痛かった。

皮膚は閉じているが、噛まれた周囲が青黒く腫れている。

脚を下ろすだけで、ずきずきする。

「今日は無理です」

俺は寝台へ横になったまま宣言した。

ベルンが傷を見た。

熱を確認し、脚を曲げさせる。

「問題ない。歩ける」

「痛いって言ってるだろ!」

「男だろ! 我慢しろ!! そういう仕事だ!!」

「今の時代、そういう言い方は問題になるぞ!」

「ここは森だ!!」

「森なら何を言ってもいいのかよ!」

「嫌なら次の補給日に帰れ! このクソガキ!!」

次の補給日は明日だった。

馬車へ乗れば、街へ帰れる。

二週間分の日当は支払われる。

だが、それだけだ。

借金を返せば、来月の家賃と食費が足りなくなる。

家賃と食費を優先すれば、借金を返せない。

どちらも払えば、遊ぶ金がなくなる。

それは困る。

「……帰らない」

「なら支度しろ!」

「傷が痛いんだよ!」

「そういう仕事だ!!」

オスカーさんが、満タンのタンクを俺の背中へ載せた。

「昨日よりゆっくり歩こうねぇ。痛くなったら、すぐ言って」

「ありがとうございます……」

「甘やかすな、オスカー!」

「噛まれた翌日くらいいいじゃないですか~」

俺は足を引きずりながら、小屋の外へ出た。

傷は痛い。

山は険しい。

タンクは重い。

それでも、金が足りない。

今日も仕事へ行くしかなかった。

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