……本当に紅眼だ。
暗い室内からこちらを見ている男の目は、冗談みたいに真っ赤に充血していた。
眼鏡をかけている。
年は三十くらいだろうか。
少し太っていて、髪はぼさぼさに伸びている。
口元から顎にかけても、しばらく剃っていないらしい髭が伸びっぱなしだ。
正直、大魔術師と言われて想像していた姿とはだいぶ違う。
でも。
そんなことより。
「……田中?」
さっき、ニルスは確かにそう言った。
タナカ。
田中。
「田中!?」
思わず声が大きくなった。
男がびくっと肩を揺らした。
「田中ってことは、お前、病気じゃなくて異世界転生者なの!? 日本人!? 日本から来たの!?」
「……?」
男が眉を寄せた。
「俺も! 俺も日本から来たんだよ! お前いつこっち来た!? 女神に会った!? どうやって来た!?」
「???」
通じてない。
男が何か言った。
カルヴェン語だ。
当然、何を言っているのか全然分からない。
「え? なに?」
俺が聞き返すと、男の顔がますます険しくなった。
何かを早口でまくし立てる。
「――! ――――ニホン! ――!」
「いや分かんねえって!」
「タックミさん〜!」
ニルスが横から俺の腕を引いた。
「先生、南方語、話せないヨ〜!」
「はぁ!?」
話せない?
いや。
でも。
「田中だぞ!?」
どう考えたって日本人の名字じゃねえか!
「おい! 日本! 日本人! 分かるだろ!?」
男の顔がさらに歪んだ。
また何か怒鳴り返してくる。
さっきより明らかに怒っている。
「なんでキレてんだよ!?」
「――! ――――!!」
「だから分かんねえって!」
なんなんだよ!
こいつ田中だぞ!?
俺と同じ日本人じゃないのか!?
「日本!!」
何か怒鳴られる。
「ニッポン!!!」
さらに怒鳴られる。
「なんで伝わんねえんだよ!! 日本!! ニッポン!! ジャパン!!!!」
「…………」
男が止まった。
ぴたりと。
さっきまで怒鳴っていたのが嘘みたいに黙り込む。
「……Japan?」
「そうだよ!! ジャパン!!」
眼鏡の奥の赤い目が、大きく見開かれた。
「Japan! 日本!」
男は何も言わない。
ただ、俺の顔をじっと見ている。
「……?」
なんだ?
しばらくすると、男が小さな声で何か呟き始めた。
カルヴェン語だから、何を言っているのかは分からない。
さっきまでみたいに怒鳴っているわけじゃない。
ぶつぶつと。
何かを考えているみたいだった。
そして、途中で急に黙った。
俺を見る。
もう一度、じっと俺を見る。
それから。
おそるおそる、口を開いた。
「……Where are you from?」
「……!」
英語だ。
これは分かる!
さすがにこれは分かるぞ!
「アイ! フロム! ジャパン!!」
男の顔が変わった。
「……!」
目を見開いたまま、一歩こっちへ出てくる。
さっきまであんなに怒っていたのに。
今度はなんだか、嬉しそうに見えた。
「Where in Japan?」
「え?」
ウェア、イン、ジャパン。
えっと。
ウェア。
どこ。
イン、ジャパン。
「え、えっと……ウェア、イン……だから……」
待て。
分かる。
俺は分かるぞ。
多分、どこから来たかだ!
「アイ フロム トウキョウ!!!」
通じた。
男の顔が、ぱっと明るくなった。
やった。
俺、意外と英語いけるじゃん!
そう思った次の瞬間。
「Oh! Right! I get it now! The goddess’s translation only works on your native language! I totally forgot about that—I’ve never met another reincarnate before!」
「…………」
え。
なんかめちゃくちゃ嬉しそうに喋ってる。
「So we can actually talk! How long have you been in this world? Did you meet a goddess too? What kind of ability did you choose? How did you get here? What year are you from? Have you met anyone else from Japan? Do you know――」
「アッ」
無理。
急に長い。
単語すらほとんど拾えない。
男はものすごく期待した顔で、まだ俺に何か聞こうとしている。
やめろ。
そんな目で見るな。
「アッ、アッ、アッ……」
俺は両手を上げた。
「アイ キャント スピーク イングリッシュ……!」
「…………」
沈黙。
男の顔から、さっきまでの明るさが消えた。
「…………」
俺を見る。
ものすごく残念そうな顔で見る。
なんだよ。
その顔。
そして次の瞬間。
「――――ッ!!!!」
カルヴェン語でブチ切れた。
「うわっ!?」
「――! ――――!! ――――!!!」
「おい!! 絶対今俺の悪口言っただろ!!」
「先生、怒ってるネ」
「それは見れば分かるよ!」
男が俺を指さしながら、まだ何か怒鳴っている。
ニルスがそれを聞いて、ちょっと困った顔をした。
「先生、タックミさん……勉強、あまり……」
「バカって言っただろ!?」
ニルスが目を逸らした。
「おい!!」
絶対もっと酷いこと言ってるだろ!
「だいたい急にあんな長い英語で喋られて分かるわけねえだろ!」
言い返してやる。
当然、伝わらない。
男も何か言い返してくる。
俺にも伝わらない。
「――――!」
「なんだよ!」
「――! ――――!」
「分かんねえよ!」
「二人とも〜!」
ニルスが俺たちの間に割って入った。
俺と男を交互に指さす。
「先生、カルヴェン語。私、分かる」
次に俺を指さした。
「タックミさん、南方語。私、少し分かる」
それから、自分の胸を叩く。
「私、間で話すヨ!」
「……あ」
そうだった。
ニルスがいるじゃん。
男も黙った。
まだものすごく不機嫌そうではある。
ニルスがカルヴェン語で何か話しかける。
男が短く返す。
ニルスがまた何か言う。
しばらく二人でやり取りしたあと、男は俺を見た。
赤い目が、さっきからずっと俺を見ている。
今度は怒っているというより。
なんというか。
信じられないものを見ているみたいな顔だった。
やがて男が、大きく息を吐いた。
それから戸をさらに開けて、俺たちに向かって何か言った。
「?」
ニルスが笑う。
「中、入るヨ。話す」
「お、おう」
戸が開いたぶんだけ、家の中から甘い煙の匂いが濃く流れてきた。
暗い。
外から見える範囲でも、あまり片付いているようには見えない。
でも。
そんなことは、今はどうでもいい。
田中。
Japan。
東京。
英語。
ここまで重なって、ただの偶然なわけがない。
俺以外にもいた。
この世界に。
日本から来た奴が。
「……マジかよ」
俺はニルスの後について、田中の家へ足を踏み入れた。
「あ、先生、これ!」
ニルスが荷物から、さっき買った小さな箱を取り出した。
「真珠、百個!」
田中は箱を受け取ると、蓋を開けて中をざっと確認した。
何か短く言う。
ニルスが嬉しそうに頷いた。
田中はその箱を棚に置いた。
戸が閉まった。
外の冷たい空気が切れて、代わりに甘い煙の匂いが濃くなる。
田中は俺たちを部屋の奥へ通すと、空いている場所に適当に腰を下ろした。
俺とニルスも、その近くに座る。
田中の周りには紙や本が積んであった。
大魔術師の家っていうより、ずっと家から出てない人の部屋っぽい。
田中がさっきから吸っていた煙草を口にくわえる。
煙を吐いた。
また甘い匂いがする。
こいつ、ずっと吸ってんな。
かなりのヘビースモーカーらしい。
「じゃ、話すヨ」
ニルスが俺と田中の間に座った。
田中がすぐに何か言う。
ニルスが頷いて、俺を見る。
「先生、タックミさん、いっぱい聞きたい」
「俺もだよ!」
それをニルスが田中へ伝える。
田中が返す。
ニルスがまた俺を見る。
「先生、今、二十九。こっち来た、十八」
「十八!?」
じゃあ、十年以上いるのか。
俺よりずっと先輩じゃん。
「日本では?」
ニルスが田中に聞く。
しばらく沿岸語でやり取りする。
「先生、日本、トーキョー大学。物理、勉強してた」
「……東大!?」
田中が俺を見る。
俺が驚いたのが分かったらしい。
ちょっとだけ得意そうな顔をした。
ムカつく。
「東大って、あの東大!?」
「トーダイ?」
「あー、東京大学! 日本ですげえ頭いい大学!」
ニルスがそれを田中へ伝える。
田中が当然みたいに頷いた。
マジかよ。
こんな髪ぼさぼさで髭伸ばしっぱなしの奴が東大生だったのか。
田中が今度は何か聞いてきた。
「先生、タックミさん、日本で何してた? 聞いてる」
「俺?」
前世か。
「会社員。普通の会社員だよ。毎日仕事して、残業して、帰って寝て、また仕事」
ニルスが考えながら田中に伝える。
ずいぶん短かった。
田中が何か聞き返す。
ニルスが俺を見る。
「タックミさん、学校は? 大学、どこ?」
「…………」
そこ聞く?
東大のあとに?
「いやいやいや! 前世は後でいいだろ! 前世は!」
俺は手を振った。
「せっかく異世界で会ったんだから、今の世界の話しよ! こっち来てから何してたんだよ!」
「オ?」
ニルスが一生懸命それを田中へ伝える。
途中で俺に聞き直して、また田中へ伝える。
田中はしばらく聞いたあと、俺を見た。
「ああ」みたいな顔をした。
絶対分かっただろ。
「おい、その顔やめろ!」
当然、伝わらない。
田中は新しい煙草に火をつけた。
さっきの、もう吸い終わったのかよ。
そこから、ようやくこっちの世界の話になった。
ただ。
ものすごく遅い。
田中が話す。
ニルスが聞く。
俺に南方語で伝える。
ニルスが分からない単語を俺に聞く。
俺が答える。
ニルスがカルヴェン語にして田中へ返す。
一つの質問だけで何往復もする。
しかも、ニルスの南方語はまだ勉強中だ。
田中が長く話しても、俺に届く頃にはかなり小さくなる。
「先生、こっち来たあと、いっぱい勉強した。数学、物理、魔法」
「へえ」
「学校、研究する場所、いっぱい行った」
「それで大魔術師になったの?」
ニルスが聞く。
田中が答える。
「ウン。先生、大きい魔法、一人でできる」
「すげえな」
これは噂通りらしい。
田中がまた長く話す。
途中でニルスが何度か首を傾げる。
二人でしばらく沿岸語をやり取りしたあと、ようやく俺へ向き直った。
「先生、女神から、忘れない頭、もらった」
「忘れない頭?」
「見たこと、勉強したこと、ずっと忘れない」
「なにそれ。めちゃくちゃ当たりじゃん!」
東大生にそんな能力渡したら、そりゃ強いだろ。
ニルスが伝える。
田中は、嬉しそうな顔をしなかった。
何かをゆっくり話す。
ニルスも今度は少し真面目な顔で聞いていた。
「でも、悪いことも忘れない」
「あ」
「怖いこと。悲しいこと。ずっと残る。先生、それで、いっぱい辛かった」
「……あー」
そういうことか。
勉強だけ忘れないわけじゃないんだ。
「便利だけど、大変なんだな」
ニルスが伝える。
田中は煙を吐きながら、小さく頷いた。
それ以上は、うまく伝わってこなかった。
田中はかなり長く何か話していたけど、ニルスが俺に言えたのは、
「先生、ずっと忘れない。いっぱい辛い。でも魔法は、すごく便利」
くらいだった。
たぶん、本当はもっと色々あるんだろう。
でも、今のニルスの南方語じゃこれが限界らしい。
今度は俺の番になった。
「俺はセラキア帝国が最初で…あーお前らだと…南方、から、セグル、獣人国にいった」
ニルスが頷く。
「最初騙されて。ヴァルに借金買い取ってもらって」
「ウン」
「それで仕事紹介してもらってる」
ニルスが田中へ話す。
田中が何か聞く。
「タックミさん、どんな仕事?」
「色々」
思い返す。
色々。
本当に色々だな。
「人とくっつく仕事したり、竜の糞洗ったり、南方の研究所で働いたり、猪に噛まれたり、鳥に食われそうになったり」
「…………」
ニルスが黙った。
「どうした?」
「多いネ」
「俺も今思ったよ」
ニルスが一つずつ田中へ伝える。
田中の顔がだんだん変になっていく。
全部聞き終わると、何か質問してきた。
「タックミさん、なんで危ない仕事、いっぱいする?」
「借金があるから」
ニルスが訳した。
田中が俺を見る。
「なんだよ」
また何か言う。
「先生、タックミさん、可哀そう、って言った!」
「うるせぇ!」
ニルスが笑いながら訳す。
田中まで少し笑った。
なんだこいつ。
でも。
こっちへ来てからの話をしていると、変な感じだった。
女神。
知らない言葉。
知らない国。
魔法。
竜。
獣人。
俺にとってはもう毎日の話になっていることを、日本から来た奴に話している。
向こうも向こうで、大学や研究所に行って魔法を覚えて、大魔術師になったらしい。
全然違う。
同じところから来たのに、ここでやってることは全然違う。
話はなかなか終わらなかった。
聞きたいことが出る。
ニルスに言う。
ニルスが訳す。
田中が答える。
また訳す。
今度は田中が聞いてくる。
それをまたニルスが訳す。
そんなことを延々と繰り返した。
その間にも、田中は煙草を吸っていた。
一本終わる。
また火をつける。
しばらく話す。
また吸う。
本当にずっと吸ってる。
窓の外は寒そうなのに、部屋の中は妙に暖かい。
甘い煙の匂いにも、もうだいぶ慣れた。
気づけば、たぶん二時間くらい経っていた。
「……なんか、喉乾いたな」
頭も少しぼんやりする。
ずっと通訳を挟んで話してたから疲れたのかもしれない。
ニルスもさっきから、やたらゆっくり喋っている。
「先生……えーと……いっぱい勉強……して……それで……」
「それさっき聞いたぞ」
「聞いたネ、へへへ」
「なんで笑ってんだよ」
「分からないヨ、楽しいナ」
ニルスが笑う。
俺もなんか笑えてきた。
「なんだよそれ」
「フフ」
田中が俺たちを見ている。
ニルスがカルヴェン語で何か言った。
田中も少し笑った。
なんだ。
こいつ、笑うんじゃん。
また話を続けようとしたけど、ニルスが途中で知らない単語に引っかかった。
田中と何度もやり取りしている。
長い。
俺はぼんやり田中の顔を見る。
田中も俺を見る。
「…………」
「…………」
何か言いたい。
でも日本語は通じない。
英語は無理だ。
無理だけど。
簡単なのなら言える。
「……ハウ アー ユー?」
田中が瞬きをした。
数秒、黙る。
それから。
「……I’m fine, thank you. And you?」
「…………」
分かる。
完璧に分かる。
あまりにも聞き覚えがある。
「ギャハハハハハ!!!」
何がおかしいのか分からない。
でも無理だった。
腹を抱えて笑った。
田中も一瞬ぽかんとしていたのに、すぐ吹き出した。
「ハハッ……!」
「アイム ファイン! センキュー!!」
「ハハハハハ!!」
「アンド ユー!! ギャハハハハ!!」
「???」
ニルスが俺たちを見る。
「なに? なに話してる?」
「分かんない!!」
「分からないの!?」
それがまた面白かった。
田中も何か英語で言った。
今度は全然分からない。
「長い長い! 分かんねえって!」
意味は伝わらないはずなのに、田中はまた笑った。
俺も笑う。
ニルスも意味が分からないまま笑い始めた。
結局そのあともしばらく、俺と田中は中学生みたいな英語を投げ合って、なぜか三人でゲラゲラ笑い続けた。
何がそんなに面白かったのかは、よく分からない。
