肩を揺すられた。
「人間さん。朝でございます」
目を開ける。
すぐそばに、巻き角の美少女メイドが立っていた。
クレールだ。
昨日と同じ濃い色の使用人服に、白いエプロン。
ふわふわと細かく巻いた長い髪も、両側から綺麗に編まれ、後ろで丸くまとめられている。
服にも髪にも、一つも乱れがない。
「朝……?」
「間もなく朝のお仕事が始まります。ご朝食をご用意しておりますので、起きてください」
もう仕事なのか。
窓の外は明るくなり始めたばかりだ。
俺は身体を起こした。
「痛っ」
腕が痛い。
肩も腰も痛い。
昨日、本を運び続けたせいだ。
一晩寝れば治ると思っていたのに、昨日より痛くなっている。
椅子に掛けた上着を取ろうとして、手が止まる。
そういえば、これは借りた使用人服だ。
「俺が昨日着てきた服は?」
「洗浄して、洗濯室に干してございます」
「洗ってくれたの?」
「はい。書籍の埃で汚れておりましたので」
無料で洗濯までしてくれたのか。
さすが貴族の家。
「もう乾いてる?」
「まだでございます」
じゃあ、これを着るしかない。
まあ、別にいい。
こっちの方が執事っぽくて格好いいし。
俺は顔を洗い、上着を着た。
クレールについて寝室を出る。
廊下の途中で、扉の開いた洗濯室が見えた。
昨日着てきた服が、他の洗濯物と一緒に干されている。
裾から、まだ水が滴っていた。
本当に洗われてる。
帰る頃には乾いているだろう。
クレールが、その先にある部屋の扉を開けた。
中には長い卓と椅子が並んでいた。
壁際には大きな鏡があり、その前に羊の美少女メイドたちが集まっている。
クレール以外の六人だ。
全員、もう濃い色の使用人服を着ていた。
でも、昨日見た姿とは少し違う。
長い髪を背中へ下ろしたままの子。
椅子に座り、後ろから髪を編んでもらっている子。
二人で向かい合い、互いの襟と袖を確かめている子。
白いエプロンの紐を、後ろから結んでもらっている子。
窓から入る薄い朝の光の中で、長く巻いた髪と羊耳がゆっくり揺れていた。
小さな声で何かを話し、時々笑っている。
朝から何だ、これ。
美少女メイドが、美少女メイドの髪を結っている。
ずっと見ていられる。
何人かが俺を見た。
でも、すぐに鏡や目の前の相手へ視線を戻した。
「人間さん。ご朝食はこちらです」
クレールが卓の端を示す。
そこには、一人分とは思えない量の料理が並んでいた。
大きなパン。
湯気の立つ穀物の粥。
豆を煮たもの。
柔らかそうな根菜。
葉野菜の皿。
果物の砂糖煮。
温かい飲み物まである。
「結構豪華じゃん!」
ニカンドラと同じ食事ってわけにはいかないだろう。
でも、俺一人のためにこれだけ用意してくれたら十分だ。
ちゃんと客として扱ってくれているらしい。
「冷めないうちにお召し上がりください」
「いただきます!」
椅子へ座り、粥を口へ入れる。
温かい。
普通にうまい。
昨日の夜、全然食べられなかったのが嘘みたいに喉を通る。
やっぱり、あれはニカンドラが怖すぎただけだ。
パンをちぎり、豆を載せて食べる。
食べながら、鏡の前を見る。
一人の女の子が、椅子へ座った子の髪を三つに分けている。
細かく巻いた髪を指で梳き、羊耳と巻き角の間を通して、ゆっくり編んでいく。
隣では、エプロンを結び終えた二人が、今度は互いの肩についた毛を取っていた。
楽しそうだ。
でも、ロロたちがシェアハウスでじゃれ合っていた時とは何か違う。
騒いでいるわけでも、抱きついているわけでもない。
小さく笑いながら、静かに手を動かしている。
なんか、いい。
俺はパンを口へ入れたまま、その様子を眺めた。
卓の反対側に、まだ髪を結っていない女の子がいた。
他の六人より、少しだけ若く見える。
長い髪を下ろし、巻き角の間から羊耳を覗かせていた。
黒目がちの大きな目。
長いまつげ。
その子が俺を見る。
目が合った。
女の子は少し微笑んだ。
「おはようございます。拓海さん」
「えっ」
俺の手が止まる。
「名前、覚えてたの?」
「リゼット、こちらへ」
別の羊のメイドが呼んだ。
「はい」
女の子はすぐに立ち上がり、そちらへ歩いていった。
リゼット。
かわいい名前だ。
リゼットは先輩らしいメイドの前にある椅子へ座った。
背中へ流れていた長い髪が持ち上げられ、二つに分けられていく。
先輩が何か小さく言う。
リゼットは鏡を見たまま、声を立てずに笑った。
それからは、一度も俺の方を見なかった。
まあ、あとで話せばいいか。
俺はまた朝食へ戻る。
食べても、全然減らない。
品数が多すぎる。
でも、残すのも悪い気がする。
俺は粥を食べ、根菜を食べ、またパンをちぎった。
その間にも、羊の女の子たちの髪が次々と結われていく。
背中へ流れていた髪が編まれ、巻き角の周りを通り、後ろでまとめられる。
曲がっていた襟が直される。
白いエプロンの紐が結ばれる。
最後に、互いの姿を鏡で確かめる。
「お時間です」
クレールが言った。
小さな話し声が止まった。
女の子たちが一斉に立ち上がる。
ついさっきまで髪を結い合っていたのに、もう昨日と同じ、隙のない美少女メイドたちになっていた。
すごい。
本当に、急に全員メイドになった。
俺も残っていた果物の砂糖煮を急いで口へ入れ、立ち上がった。
朝食は少し残った。
量、多すぎだろ。
クレールが俺を見る。
「人間さん。襟が曲がっております」
「あ、はい」
言われたとおり、襟を直す。
クレールは全員を見回した。
「参りましょう」
七人の羊の美少女メイドが、揃って部屋を出る。
俺もその後についていった。
男性用の使用人服を着て、美少女メイド七人と一緒に貴族の屋敷を歩く。
こうしてると、俺もこの屋敷の執事みたいだ。
悪くない。
廊下の途中で、クレールが足を止めた。
「人間さんはこちらです」
指された先は、昨日、本を運んでいた執務室だった。
「みんなは?」
「これより、お嬢様のお目覚めとお支度がございます」
「俺は?」
「昨日の続きをお願いいたします」
俺だけ?
羊の女の子たちは、そのまま廊下の奥へ進んでいく。
リゼットも列の中にいた。
一度もこちらを振り返らない。
クレールが執務室の扉を開ける。
昨日の本が、まだ床や箱の中に残っていた。
「配置は昨日と同様でございます」
「はい……」
クレールも羊たちの後を追っていった。
扉が閉まる。
広い部屋に、俺一人だけ残された。
朝からこれかよ。
俺は床に残っていた本へ手を伸ばす。
一冊持ち上げる。
軽いはずなのに、腕が痛かった。
本を棚へ入れる。
戻る。
また持ち上げる。
昨日と同じ作業を、一人で続ける。
しばらくして、廊下の向こうから足音が聞こえた。
扉が開く。
先頭にクレール。
その後ろに、昨日と同じ隙のない姿へ整った六人の羊のメイドたち。
そして最後に、ニカンドラが入ってきた。
首元と肩を覆う銀灰色の毛皮。
整いすぎた顔。
俺を見ると、綺麗な唇に笑みを浮かべる。
太い牙が覗いた。
昨日の夕食を思い出し、身体が少し固くなる。
「おはようございます、人間さん。よくお休みになれたかしら?」
「は、はい」
「それは、よかったですわ♡」
ニカンドラが書棚の方を見る。
「では、今日も続きをお願いしますわね♡」
「承知いたしました」
クレールが頭を下げる。
ほかの六人も一斉に礼をした。
「では、皆は通常の仕事へお戻りなさい」
「はい」
羊の女の子たちは、そのまま部屋を出ていった。
リゼットも列の最後についていく。
朝は名前で呼んでくれたのに、やっぱり一度もこっちを見なかった。
残ったのは、俺とクレールとニカンドラだけだった。
昨日より人数が少ない。
なのに、全然気楽じゃない。
俺は次の本へ手を伸ばした。
腕が痛い。
本を持ち上げるたび、肩の奥まで重く響く。
「人間さん。そちらは上から二段目でございます」
「はい」
クレールの指示に従って、本を棚へ入れる。
戻る。
次を持つ。
ニカンドラは大きな机に座り、書類へ目を通していた。
何もしてこない。
何もしてこないのに、気になる。
紙をめくる音がするたび、なんとなくそっちを見てしまう。
「人間さん」
「はいっ」
声をかけられて、肩が跳ねた。
ニカンドラがこちらを見ている。
「そちらの赤い本、机へお願いできます?」
「あ、はい!」
急いで持っていく。
机へ置くと、ニカンドラは満足そうに微笑んだ。
太い牙が少し見えた。
「ありがとうございます♡」
「いえ……」
怖い。
ただ本を渡しただけなのに。
俺はまた棚へ戻った。
それからも、クレールに言われた場所へ本を運び続けた。
昨日より残りは少ない。
箱が一つ空になる。
次も空になる。
床に積まれていた本も減っていく。
最後の一冊を棚へ入れた。
「……終わった」
思わず声が出た。
クレールが棚を見渡す。
「はい。書籍は以上でございます」
終わった。
本当に終わった。
もう重い本を運ばなくていい。
俺は両腕を下ろした。
筋肉痛でじんじんする。
でも、達成感がすごい。
「お疲れさまでしたわ、人間さん♡」
ニカンドラが笑う。
「ありがとうございます!」
やっと一つ終わった。
二日間ずっとこれだったから、仕事まで全部終わったような気分になる。
クレールが俺を見る。
「では、人間さん。次の作業へ参りましょう」
「え?」
次?
◇
連れてこられたのは、厨房の近くにある食器室だった。
壁一面に棚が並び、まだ開けられていない木箱がいくつも置かれている。
その前に、羊の女の子が一人立っていた。
朝の子だ。
リゼット。
俺はちょっと嬉しくなった。
「リゼットちゃん!」
リゼットがこちらを見る。
「人間さん」
人間さんに戻ってる。
「こちらの食器を、種類ごとに棚へ収めていただきます」
クレールが箱を示した。
「食器?」
「はい。細かな器は労働種より人間の方が扱いやすいため、人間さんにお願いいたします。リゼットが配置をご案内いたします」
なるほど。
今度は重いものじゃない。
助かった。
「それなら余裕です!」
俺はしゃがんで、一番上の箱を開けた。
中には布で一つずつ包まれた小さなグラスが並んでいる。
一つ取る。
細い脚。
透明なガラスに、細かな模様が彫られていた。
光に当てると、きらきらする。
「うぇ……高そう……!」
急に持ち方がわからなくなった。
脚を持つべきか。
底を持つべきか。
両手で包んだ方がいいのか。
「リゼットちゃん、これいくらするの!?」
リゼットは少しだけ考えた。
「……人間さんの本日の日給くらいでしょうか」
「一個で!?」
「はい」
手の中のグラスが急に重くなった気がした。
軽い。
めちゃくちゃ軽い。
なのに落とせない。
昨日からの筋肉痛で、腕が微妙に震えている。
「ちょ、待って。俺、今めっちゃ腕プルプルしてるんだけど」
「存じております」
「知ってるならこれ持たせる!?」
リゼットは不思議そうに瞬きをした。
「ですが、人間さんの方が適任ですので」
そういう問題かよ。
額から変な汗が出てきた。
「ど、どこ?」
「そちらの棚の、上から三段目でございます」
上から三段目。
俺はゆっくり立った。
腕を上げる。
ぷる、と手が震えた。
「話しかけないでね。今、絶対話しかけないでね」
「はい」
一歩。
二歩。
棚の前まで行く。
そっと置く。
指を離す。
グラスは無事だった。
「ふぅ……!」
重い本を棚へ入れた時より疲れた。
振り返る。
リゼットが、次の包みをもう手に取っていた。
「こちらも同じ場所でございます」
「まだあるの!?」
箱の中には、同じグラスがずらっと並んでいた。
俺はもう一度、変な汗を拭った。
それからも、同じグラスを一つずつ棚へ運び続けた。
持ち上げる。
歩く。
置く。
息を吐く。
一個置くたびに、手のひらの汗を服で拭った。
やっと箱が空になる。
次の箱を開けると、今度は皿だった。
グラスよりは持ちやすそうだ。
縁に細い金色の模様が入っているけど、値段は聞かない方がいい。
俺は黙って皿を持ち上げた。
◇
「人間さん。お昼のお時間でございます」
リゼットに声をかけられ、俺は持っていた皿を棚へ置いた。
「やっと!」
腕だけじゃなく、指まで疲れている。
リゼットについて食器室を出る。
連れていかれたのは、朝飯を食べた部屋だった。
長い卓の脇に、料理が並んでいる。
籠いっぱいのパン。
葉野菜と根菜が入った大きなサラダ。
蓋の開いた鍋からは、温かそうなスープの湯気が立っていた。
その隣には、焼いた肉が大皿に山盛りになっている。
「これ、好きに取っていいの?」
「はい。お好きなものをお取りください。お食事が済みましたら、食器室へお戻りください」
食べ放題じゃん。
朝飯も豪華だったけど、昼飯までこれか。
さすが貴族の屋敷だ。
「リゼットちゃんは食べないの?」
「午前の業務が残っておりますので、後ほどいただきます」
「そっか……」
一緒に食べられると思ったのに。
リゼットは小さく頭を下げ、そのまま部屋を出ていった。
でも、食堂にはもう一人いた。
白い上着に、腰から膝下まで垂れる白い前掛け。
髪は顎のあたりで、きれいに切り揃えられている。
頭の上には、柔らかそうな猫耳。
猫耳の女の子だ。
制服を着ていたら、高校生でも通りそうな幼い顔をしている。
目尻は少し上がり、小さな唇も笑っているみたいに両端が上を向いていた。
すごく可愛い。
その子は小さな皿を持ち、焼いた肉を一切れ載せた。
俺に気づくと、猫耳がぴんと立った。
「あ、人間さんにゃ~」
「はい。引っ越しの手伝いで来てます」
「昨日からいる人間さんだにゃ~」
知ってるらしい。
女の子は俺の顔をじっと見ている。
羊の子たちとは、全然反応が違う。
「一緒に食べるにゃ~?」
「もちろん!」
リゼットちゃんがいなくなったのは残念だけど、これはこれで全然いい。
俺は皿を取った。
肉を二切れ。
パンも二つ。
サラダも取る。
深い器にスープをよそう。
好きに取っていいと言われると、つい多くなる。
猫の女の子は、パンを一つと少しのサラダ、それからスープを取った。
俺の半分もない。
二人で長い卓へ向かう。
椅子はいくらでも空いているのに、女の子は俺のすぐ隣の椅子を引いた。
近い。
すぐ横に猫耳がある。
「メイドさんじゃないんだ?」
白い服は、羊の子たちが着ているものとは違う。
「お菓子を作ってるにゃ~」
「パティシエ!?」
貴族の家には、専属のパティシエまでいるのか。
「今日は本邸から、お嬢様のお茶に出すお菓子を作りに来たにゃ」
「じゃあ、今から作るの?」
「生地はもう休ませてるにゃ~。食べ終わったら焼くにゃ」
なるほど。
だから、この子だけ時間どおり昼飯を食べているのか。
「何作るの?」
「柑橘を入れた、小さいバター菓子にゃ~♡菓子用の炉がまだちゃんと使えないから、今日は簡単なものだけにゃ」
簡単なもの。
貴族のパティシエが言う簡単なものって、どれくらいなんだろう。
女の子が俺を見る。
「人間さん、甘いもの好きかにゃ?」
「好き! めちゃくちゃ好き!」
「じゃあ、人間さんの分も焼くにゃ~♡」
「いいの!?」
「もちろんにゃ~♡」
やった。
昨日から散々な仕事だったけど、最後にいいことがあった。
俺は焼いた肉を口へ入れた。
柔らかい。
塩と香草の味がして、普通にうまい。
スープも温かい。
隣では、猫の女の子が小さくパンをちぎっている。
俺が肉へ手を伸ばすたび、猫耳だけが時々こちらへ向いた。
美少女のパティシエと二人で昼飯。
今日は朝から美少女メイドを眺めながら朝飯を食べて、昼は猫耳美少女と一緒だ。
仕事はきついけど、こういうところは悪くない。
俺は二切れ目の肉へ手を伸ばした。
◇
昼飯を食べ終え、食器室へ戻る。
リゼットはもう箱の前に立っていた。
「お食事はお済みですか?」
「うん。めちゃくちゃ食べた」
「では、続きをお願いいたします」
休ませてくれる気はないらしい。
俺はまた箱の前へしゃがんだ。
午前中に開けた皿の箱が、まだ半分残っている。
腕は痛いけど、昼飯を食べる前よりは少しだけましになっていた。
リゼットは棚の前に立ち、置く場所を教えてくれる。
「そちらは隣でございます」
「はい」
「次のものは、一つ下へ」
「はい」
昼からも、それをずっと繰り返した。
皿の次は、小さな器。
その次は、銀色のスプーンとフォーク。
まとめて置いてしまいたいのに、形が少しずつ違うせいで、全部分けなきゃいけない。
「これとこれ、同じじゃない?」
「異なります」
「どこが?」
「柄の模様が違います」
よく見る。
片方には葉っぱみたいな模様。
もう片方には花みたいな模様。
ほとんど同じだろ。
でも、間違えたらリゼットがすぐに見つける。
美少女と二人きりの仕事なのに、全然仲良くなる時間がない。
話しかけても、返ってくるのは置く場所だけだ。
俺は黙ってスプーンを分けた。
しばらくして、扉の外から甘い匂いがした。
猫耳が、開いた扉の端から覗く。
「二人とも~、おやつだにゃ~♡」
猫の女の子が、小さな皿を二枚持って入ってきた。
それぞれに、丸い焼き菓子が一つずつ載っている。
表面は薄い金色で、まだ少し湯気が立っていた。
「待ってました!」
リゼットも手を止める。
「ありがとうございます」
猫の女の子は、皿を一枚ずつ俺たちへ差し出した。
リゼットが俺を見る。
「食器室では、お召し上がりにならないでください」
「あ、はい」
俺たちは猫の女の子と一緒に廊下へ出た。
小さな焼き菓子を受け取る。
まだ温かい。
一口かじると、バターの味と一緒に、柑橘の甘い匂いが口の中へ広がった。
「うまっ!」
外側は少しだけ固くて、中は柔らかい。
簡単なものって言ってたのに、普通に店で売ってそうだ。
隣では、リゼットも焼き菓子を口へ運んでいる。
「おいしいです」
猫の女の子は満足そうに目を細めた。
「よかったにゃ~♡」
リゼットは俺より先に食べ終え、空になった皿を猫の女の子へ返した。
「ごちそうさまでした」
俺も残りを口へ入れる。
一つだけなのは惜しいけど、俺のためにも焼いてくれたんだから文句は言えない。
「ごちそうさま。めちゃくちゃうまかった!」
皿を返すと、猫の女の子の尻尾が嬉しそうに揺れた。
「じゃあ、ほかの子たちにも配ってくるにゃ~♡」
猫の女の子は厨房の方へ戻っていった。
俺とリゼットも食器室へ戻る。
リゼットは、すぐに次の箱を開けた。
「では、こちらをお願いいたします」
もう仕事に戻るのか。
少しくらい休ませてくれてもいいだろ。
俺は箱の中を見る。
今度は、取っ手のついた小さなカップが並んでいた。
また高そうだ。
値段は聞かない。
絶対に聞かない。
一つずつ持って、棚へ並べていく。
外から入る光が、少しずつ黄色くなっていった。
箱が空になる。
次の箱を開ける。
また空にする。
床に並んでいた箱が、一つずつ減っていく。
最後に残ったのは、銀色の小さな匙だった。
決められた引き出しへ並べる。
最後の一本を入れ、そっと引き出しを閉じた。
「終わった……?」
リゼットが棚と空箱を見回す。
「はい。すべて収まりました」
今度こそ、本当に終わった。
「よっしゃ!」
思わず両腕を上げようとして、肩が痛んだ。
「痛っ」
結局、重くないものでも一日仕事だった。
割らなかった。
一個も。
それだけで、ものすごいことをやり遂げた気分になる。
廊下から足音が近づいてきた。
クレールが食器室へ入ってくる。
リゼットから何か小さな声で聞き、棚の中を順番に確かめた。
「問題ございません。ご苦労さまでした、人間さん」
「じゃあ、もう帰っていい?」
「はい。お召し物も乾いております」
やっと帰れる。
◇
洗濯室には、俺が着てきた服が畳んで置かれていた。
昨日までついていた埃も汚れもない。
触ると、ちゃんと乾いている。
借りていた使用人服を脱ぎ、自分の服へ着替えた。
二日ぶりなのに、妙に久しぶりな気がする。
使用人服も格好よかったけど、こっちの方が楽だ。
畳んだ服をクレールへ返す。
「二日間、ありがとうございました」
洗濯までしてもらったし、飯も何度も食べた。
仕事に来たはずなのに、何だか世話になった気がする。
「お嬢様へご挨拶をお願いいたします」
まだニカンドラに会うのか。
帰れると思った途端、少しだけ身体が固くなった。
クレールについて執務室へ戻る。
本で埋まった書棚の前に、ニカンドラが立っていた。
俺たちが入ると、ゆっくり振り返る。
銀灰色の毛皮。
現実味がないくらい整った顔。
綺麗な唇が笑みを作り、その隙間から太い牙が覗いた。
昨日の夜のことを思い出す。
腹のあたりが、勝手に縮んだ。
「二日間、ご苦労さまでしたわ。人間さん♡」
「ありがとうございました!」
声が少し大きくなった。
ニカンドラが俺の前まで歩いてくる。
見上げる。
近くで見ると、やっぱりでかい。
「また、わたくしのところへ来てくださいますわよね♡」
断ったらどうなるんだろう。
黒い爪のついた指が、俺の肩へそっと触れた。
息が詰まる。
「はい!」
考える前に返事が出た。
「あら、うれしい♡」
ニカンドラが笑う。
牙が見える。
肩から指が離れた。
やっと息ができた。
「馬車をお待たせしております。お見送りいたします」
クレールが言った。
今度は置いていかれてない。
俺はニカンドラへもう一度頭を下げ、クレールと一緒に執務室を出た。
◇
屋敷の前には、馬車が停まっていた。
乗り込む前に振り返る。
クレールが扉の前に立っている。
その奥には、横へ長く続く屋敷。
窓のどこかに、羊の美少女メイドたちがいる。
リゼットもいる。
猫のパティシエもいる。
二日間ずっと働いて、筋肉痛になって、高そうな食器を何十個も運ばされた。
帰りの馬車に置いていかれ、知らない屋敷に泊まった。
ニカンドラには膝へ乗せられ、飯まで食べさせられた。
最後には、また来ると約束させられた。
散々だった。
でも、飯はうまかった。
服まで洗ってもらった。
美少女メイドを眺めながら朝飯を食べて、猫耳美少女の焼いた菓子まで味見した。
「……まあ、悪くなかったかも」
馬車が動き出す。
屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
俺は座席へ深く座り、痛む腕を膝の上へ置いた。
次に呼ばれた時は、絶対に帰りの馬車の時間を先に聞こう。
そう思いながら、目を閉じた。
