セラキア帝国から三日かけて馬車に揺られ、セグルへ戻った俺は、国境近くの両替所へ寄った。
研究所から受け取った給料は、セラキアの硬貨で渡されている。その硬貨を詰めた袋と、オリヴィアから貰った銀貨三枚を窓口へ置いた。
職員が硬貨を数え、代わりにセグルの紙幣を差し出す。
返ってきた金は、さっきまでの重さが嘘のように薄くなっていた。
「少なっ! 騙してない!? 銀貨一枚でいくらなの!?」
職員は面倒そうに紙幣を一枚抜き、俺の目の前でぺらりと振った。
『10000タサル』
紙幣の中央に、大きな数字が印刷されている。
「銀貨一枚につき、これ一枚。次」
「いや、でも見た目が――」
「合ってる。帰れ。しっしっ」
手で追い払われた。
掲示された交換表と照らし合わせても、枚数は合っているらしい。俺は納得できないまま、薄くなった金を財布へしまった。
ようやく辿り着いたアパートでは、ダグからの葉書が俺を待っていた。
郵便受けに、一枚だけ斜めに突き刺さっていた。
表には俺の名前と住所。
裏返すと、見覚えのある大きな字が並んでいた。
『南方についた。蜜柑はよく実っている。毎日たくさん採っている。仕事が終わったら、また葉書を書く。元気でいろ。
ダグワドルジ』
「……元気そうじゃん」
思わず声が出た。
ダグは今、南方のどこかで蜜柑を採っている。
俺のことを忘れていなかった。
それが、ちょっとだけ嬉しかった。
葉書を持って自分の部屋へ入る。
狭い寝台。裸電球。壁に打ちつけられた棚。
部屋を出れば共用の便所とシャワーがあるだけ。
セラキアではオスカーと毎日のように顔を合わせ、酒を飲み、競馬場へ行き、オリヴィアとも出会った。
その前は、エルマたちと一か月近く森にいた。
うるさいと思っていたベルンの怒鳴り声も、オスカーの軽薄な笑い声も、今は聞こえない。
部屋の扉を閉めると、本当に何の音もしなくなった。
「……また葉書書くって言ってるし」
俺は誰に言うでもなく呟き、葉書を棚へ置いた。
◇
その三日後。
朝っぱらから扉を叩く音で起こされた。
「荷物だ!」
「俺に?」
寝ぼけたまま扉を開けると、配達員が大きな箱を抱えて立っていた。
署名をして受け取る。
ずしりと重い。
差出人の欄には、ダグワドルジの名前があった。
「まさか……」
床へ箱を下ろし、蓋を開ける。
鮮やかな橙色が、ぎっしり詰まっていた。
「多い多い多い!」
全部、蜜柑だった。
一人暮らしの人間へ送る量ではない。
箱の中には、蜜柑と一緒に小さな紙が入っていた。
『みんなで食べろ。ダグワドルジ』
「みんなって誰だよ……」
改めて部屋を見回す。
寝台と棚しかない。
当然、俺以外には誰もいない。
同じアパートに住んでいる人間はいるが、名前どころか顔もろくに知らない。共用シャワーで何度かすれ違った男もいるものの、裸で会釈しただけの相手へ突然蜜柑を渡すのは、かなり難易度が高かった。
とりあえず一つ剥いて食べてみる。
「甘っ」
美味い。
美味いのだが、この量は無理だ。
一日二個として、十日で二十個。
いや、絶対に途中で飽きる。
俺は悩んだ末、自分が腐らせずに食べきれそうな十五個だけを寝台の端へ並べた。
それでも、箱にはまだ半分以上残っている。
「ヴァルのところなら、配る相手くらいいるだろ」
俺は再び箱を抱えた。
少し減らしたのに、まだ重かった。
◇
「おみかんにゃ!」
箱を持ってヴァルの事務所へ入った瞬間、ヴァルグレンの耳と尻尾がぴんと立った。
「友達が送ってきたんだけど、多すぎるからやる」
「こんなに貰っていいのかにゃ?」
「俺の部屋に置いてても腐るだけだし」
「ありがとにゃ~♡ みんなで分けるにゃ!」
ヴァルが声をかけると、奥で働いていた獣人たちが集まってきた。
箱いっぱいの蜜柑が、あっという間に一人三個、四個と配られていく。
なるほど。
これなら腐る心配はなさそうだ。
「佐藤さん、いいお友達ができたんだにゃ」
「まあな。南方で蜜柑採ってる牛だけど」
「素敵にゃ~♡」
ヴァルは蜜柑を一つ抱えたまま、机の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、金色の縁取りがされた一枚の券だった。
「それで、これは僕から佐藤さんへのご褒美にゃ♡」
「何これ」
「僕のお店で使える、初回無料券にゃ。佐藤さん、最近いっぱい頑張ってるからにゃ~♡」
券を受け取る。
表には、女性の猫獣人を描いた絵と、大きな文字が印刷されていた。
『猫系愛玩種専門・包括接触店』
「包括接触」
「一番長いコースが、最初の一回だけ無料になるにゃ」
「一番長いコースって?」
「一緒にお風呂に入って、いっぱいくっついて、えっちして、最後は添い寝までしてもらえるにゃ♡」
「行きます」
即答だった。
ヴァルが目を細める。
「今日でも予約できるにゃ」
「今日行く」
「次からは普通に料金がかかるから、券の裏までちゃんと読んでおくにゃ」
「分かってるって」
裏を見る。
通常料金、指名料金、延長料金。その下には、細かい注意事項まで印刷されていた。
『本サービスにおける親愛表現は接客の一部であり、私的な交際を約束するものではありません』
そんなことは、俺だって分かっている。
俺も一度は接触業の側で働いた人間だ。
客へ優しくするのが仕事なのは、説明されなくても知っていた。
◇
その日の夕方。
俺は無料券を握りしめ、繁華街にある店を訪れた。
ヴァルの事務所よりずっと立派な建物だった。
磨かれた床。柔らかな照明。ほのかに甘い香りのする受付。
俺が働いた接触店とは、明らかに格が違う。
受付で券を見せると、体調や怪我、触れられたくない場所などを細かく聞かれた。
用紙の最後に、担当者の名前が書かれる。
『ミア 二十六歳』
「ミアちゃん……」
名前だけで可愛い気がする。
そんな期待を抱きながら待っていると、奥の扉が開いた。
「拓海さん、お待たせしましたにゃ♡」
出てきた女性を見た瞬間、俺は確信した。
これだ。
これこそ、俺が異世界に求めていたものだ。
艶のある黒髪。
頭の上には、髪と同じ色の三角形の猫耳。
大きな琥珀色の瞳に、白い肌。首には、艶のある赤い革の細い首輪が巻かれている。金色の留め具には、俺の首輪と同じ紋章が刻まれていた。
腰の後ろでは、細長い黒い尻尾がゆったりと揺れている。
人間に近い姿の、文句なしの美少女だ。
しかも猫耳。
俺が思い描いていたものを、そのまま現実へ持ってきたような猫耳美少女だった。
「ミアです。今日はよろしくお願いしますにゃ」
「よ、よろしくお願いします!」
「ふふ。そんなに緊張しなくて大丈夫にゃ。拓海さんって呼んでもいい?」
「もちろん!」
「じゃあ、拓海さん。最初は一緒にお風呂へ行こっか♡」
早い。
展開が早すぎる。
だが、これが包括接触というものらしい。
案内された浴室は、俺のアパートにある共用シャワーよりも広かった。白い浴槽には既に湯が張られ、湯気の向こうから花のような香りが漂っている。
服を脱ぐと、ミアも目の前で薄い部屋着を脱いだ。
柔らかな胸が露わになる。
腰から伸びた尻尾だけが、恥ずかしそうに身体の前を横切った。
「拓海さん、すごく格好いい身体してるにゃ」
「そう?」
「うん。鍛えてるの?」
「まあ、森で一か月くらい働いてたからな」
実際には、重い散布器を背負って歩き回っていただけだ。
それでも褒められれば悪い気はしない。
先に椅子へ座らされ、ミアが俺の髪を濡らす。
温かい湯が頭を流れ、柔らかな指が髪の間へ入ってきた。
「力加減、痛くないにゃ?」
「全然。気持ちいい」
「よかったにゃ♡」
丁寧に髪を洗われる。
自分以外の誰かに髪を洗ってもらうなんて、何年ぶりだろう。
いや、子供の頃以来かもしれない。
指先が頭皮を撫でるたび、張りつめていたものが少しずつ解けていく。
ただ髪を洗われているだけなのに、頭から肩、胸の奥まで温かくなった。
息がしやすい。
さっきまで自分の身体にどれだけ力が入っていたのか、抜けてみて初めて分かった。
「拓海さん、すごく疲れてたんだね」
「自分では、そこまでじゃないと思ってたけど」
「ここでは何も頑張らなくていいにゃ。力抜いて」
「うん」
ミアの声を聞くだけで、また肩が軽くなる。
この子とは相性がいい。
会ったばかりなのに、不思議なくらい安心できる。
可愛い。
セラキアでは二十年後を褒められてばかりだった俺が、今は現在の俺を褒められている。
身体を洗うために、ミアが俺の背中へ回った。
泡のついた手が肩から腰へ滑っていく。
肩甲骨の間を揉まれた途端、思わず声が漏れた。
「すごく凝ってるにゃ」
「散布器が重かったんだよ」
「大変だったんだね」
「腐った鹿を追いかけたり、猪に噛まれたりもした」
「猪に?」
ミアの手が止まった。
俺の太腿には、まだ薄い歯形が残っている。傷口は閉じていたが、その周囲には黄色くなった痣が残っていた。
ミアは、そこへ直接触れないように指を添えた。
「これ、痛かったでしょ?」
「まあ、死ぬかと思ったけど」
「そっか」
背後から、優しく抱き締められた。
素肌に柔らかな身体が重なる。
「ちゃんと帰ってこられて、偉かったね」
それだけだった。
ただ、それだけ言われただけだった。
なのに、急に目の奥が熱くなった。
「えっ、拓海さん?」
「いや、違う。これは、その……湯気が」
「うんうん。湯気だにゃぁ」
ミアは否定せず、俺の頭を撫でた。
その手が髪に触れている間だけ、何も心配しなくていいような気がした。
森で臭い死体を追いかけたこと。
猪に噛まれたこと。
蛆まみれになったこと。
ダグが南方へ行ったこと。
オスカーたちと別れたこと。
オリヴィアに遊びだと言われたこと。
全部が一度に緩んで、涙になった。
「相当疲れてたんだね」
ミアの声は優しかった。
「今日は何も頑張らなくていいにゃ。全部、私に任せて」
「……うん」
そのまま二人で浴槽へ入った。
俺はミアの胸へ背中を預け、腕の中に抱かれた。
黒い尻尾が湯の中で俺の脚へ絡みつく。
髪を撫でられながら目を閉じると、身体の境目まで湯に溶けていくようだった。
こんなに安心したのは、生まれて初めてだった。
前の世界でも、女の子と一緒にいて、ここまで心が安らいだことはない。
ということは、これは店の設備や風呂が気持ちいいからではない。
ミアちゃんだからだ。
俺とミアちゃんが、特別に合うからなのだ。
◇
風呂から上がったあとは、寝室へ案内された。
大きな寝台へ腰掛けると、ミアが隣に座る。
「拓海さん、耳、触ってみる?」
「いいの?」
「優しくならいいにゃ♡」
恐る恐る手を伸ばす。
黒い猫耳は温かく、表面には柔らかな毛が生えていた。
指先で撫でると、耳がぴくりと動く。
「本物だ……」
「偽物に見えた?」
「いや、あまりにも理想どおりだから」
「ふふ。嬉しいにゃ」
ミアが俺の頬へ手を添え、顔を近づける。
唇が重なった。
軽く触れただけなのに、胸の奥が一気に熱くなる。
もう一度。
今度は長く。
舌が触れ、吐息が混ざった。
抱き締められると、不安も寂しさも薄れていく。
触れ合う場所が増えるほど、自分がミアに受け入れられているという確信が強くなった。
ミアは、俺の身体を寝台へ押し倒した。
「痛いところがあったら、すぐ言ってね」
「大丈夫」
「じゃあ、いっぱい気持ちよくなろうにゃ♡」
ミアが俺の上へ跨がる。
そのまま、ゆっくりと腰を下ろした。
濡れた内側に包み込まれ、俺は息を詰めた。
「気持ちいい?」
「すごい……」
「私も気持ちいいにゃ」
ミアは俺の胸へ両手をつき、ゆっくり腰を動かし始めた。
肌が重なるたびに、身体の奥まで満たされていく。
抱き締められれば安心し、口づけされれば嬉しくなり、名前を呼ばれるだけで胸の奥が熱くなる。
「拓海さん、こっち見て」
琥珀色の瞳が、すぐ近くにある。
猫耳が揺れている。
腰には尻尾が絡んでいる。
「拓海さん、格好いいにゃ。もっと触って♡」
夢ではない。
俺は本当に異世界で、猫耳美少女と抱き合っている。
しかも、向こうから格好いいと言ってくれている。
こんな気持ちは、今まで知らなかった。
誰かに触れられるだけで、こんなに安心するなんて知らなかった。
相手の顔を見るだけで嬉しくなって、自分の全部を受け入れてもらえたような気持ちになるなんて知らなかった。
これが恋なんだ。
俺は今、初めて本当の恋をしている。
これだ。
これなんだよ。
剣も、巨大な火球も、ドラゴン退治もいらない。
俺が異世界に求めていたものは、最初からこれだったのだ。
異世界最高!
猫耳美少女とラブラブえっち!!
◇
すべてが終わったあとも、ミアはすぐには離れなかった。
俺の身体を綺麗にして、寝台へ横になる。
俺の頭を胸元へ抱き、髪を撫でてくれた。
しばらくすると、ミアが寝台脇の卓から葡萄を一粒摘まんだ。
「拓海さん、あーん♡」
言われるまま口を開くと、葡萄が舌の上へ転がされた。
噛んだ瞬間、甘い果汁が口いっぱいに広がる。
「甘い?」
「甘い」
「よかったにゃ♡」
今度はミアが自分で一粒食べる。
俺も房から一粒摘まみ、彼女の口元へ差し出した。
「ミアちゃんも、あーん」
「あーん♡」
小さな唇が俺の指先から葡萄をさらっていく。
なんだこれ。
恋人みたいじゃないか。
胸の奥がくすぐったくなって、俺はまたミアの身体へ頬を寄せた。
ミアは笑いながら、俺の髪を撫でる。
「今日は来てくれてありがとう、拓海さん」
「こっちこそ……」
「少しは元気になった?」
「めちゃくちゃなった」
「よかったにゃ♡」
黒い尻尾が俺の脚を優しく叩く。
「いっぱい頑張って、ちゃんと帰ってきた拓海さんに――おかえりなさい」
胸が詰まった。
帰ってきた部屋には、誰もいなかった。
葉書はあった。
蜜柑も届いた。
けれど、帰ってきた俺に「おかえり」と言ってくれる相手はいなかった。
「……ただいま」
そう答えると、ミアは嬉しそうに笑った。
「うん。おかえりにゃ♡」
そのまま髪を撫でられ、俺は眠った。
◇
コース終了の時間になり、俺は受付へ戻った。
「本日は初回無料券をご利用のため、お支払いはありません」
「本当に無料なんだ……」
「はい。次回以降はこちらの通常料金となります」
差し出された料金表を見る。
包括接触、十二万タサル。
「高っ!?」
延長をつければ、さらに上がる。
今回の野外業務で残った遊び金も、二回通えばほとんどなくなる金額だった。
受付の女性は穏やかに笑った。
「次回予約はなさいますか?」
「いや、さすがにちょっと考えます」
「承知しました。またのご来店をお待ちしております」
俺は店を出た。
夜風が冷たかった。
アパートへ帰り、共用シャワーの前を通る。
濡れた髪の男とすれ違ったが、互いに何も言わなかった。
部屋へ入る。
机の上には、十五個の蜜柑。
寝台には、当然誰もいない。
横になって目を閉じる。
ミアの胸の柔らかさを思い出した。
髪を洗ってくれた指。
傷を心配してくれた声。
俺を抱き締めてくれた腕。
『おかえりなさい』
接触業なのだから、優しくするのは仕事だ。
俺だってルカを相手に働いたのだから、そのくらい理解している。
だが、仕事だからといって、誰といてもあれほど心が安らぐとは思えない。
俺とルカの間には、あんな感覚はなかった。
ということは、俺とミアちゃんの間にだけ何かがある。
俺が泣いたときも、嫌がらずに抱いてくれた。
傷を見たときの心配そうな顔は、演技には見えなかった。
何より、俺と一緒にいるミアちゃんは、本当に楽しそうだった。
「……これ、両想いかもしれない」
翌朝。
俺はヴァルの事務所へ向かった。
「ヴァル」
「どうだったにゃ?」
「ミアちゃん、俺のこと好きかもしれない」
ヴァルは一度だけ目を瞬かせた。
それから、いつもの愛想のいい笑顔を浮かべる。
「そこまで楽しんでもらえたなら、紹介してよかったにゃ~♡」
「次もミアちゃんで予約したい」
「もちろんできるにゃ。次からは有料だけど、大丈夫かにゃ?」
「分かってる」
「予約金は四万タサルにゃ」
「四万タサル!? 南方じゃオスカーと一晩飲み歩いても銀貨一枚だったぞ!」
「でも予約するんだにゃ?」
「する」
俺は財布を開いた。
オリヴィアから貰った銀貨三枚も、今は一万タサル札三枚に変わっている。オスカーが競馬に使おうとしたのを、断固として守った金だ。
そこへ給料から一枚を足し、四枚まとめてヴァルへ差し出した。
「残りは当日でいいにゃ。次も包括接触で、ミアちゃんを指名するにゃ?」
「ああ」
ヴァルが予約票へ名前を書き込む。
「ご予約ありがとにゃ~♡」
借金がどれだけ残っているかは、そのときの俺にはどうでもよかった。
