第34話 貴族様に給餌される……!

俺は今並べたばかりの本を、書棚から抜き取った。

重い。

さっきまでなら何冊かまとめて持てたのに、もう腕に力が入らない。

それでも隣の部屋までは、ほんの少しだ。

本を抱えて扉を抜け、空の書棚まで運ぶ。

「そちらは上から二段目です」

クレールが言った。

「はいはい」

本を置き、元の部屋へ戻る。

七人の羊のメイドたちは、もう黙々と本を運び始めていた。

さっき綺麗に並べた順番を崩さないよう、棚の端から何冊かずつ抜き取っていく。

一度に持つ量は少ない。

でも、止まらない。

俺が一往復する間に、女の子たちは何度も隣の部屋を行き来している。

本物の美少女メイドに囲まれて働ける。

朝は、それだけで当たり仕事だと思っていた。

今は顔を見る余裕もない。

本を抜く。

運ぶ。

並べる。

また戻る。

さっきと同じ作業を、もう一度繰り返す。

違うのは、俺の腕が最初から痛いことだけだ。

「これ、今日中に終わる?」

「終わらせます」

クレールは、迷いなく答えた。

俺が終わるかどうかを聞いたんだけど。

大きな机の向こうでは、ニカンドラが何事もなかったように書類を読んでいる。

たまに顔を上げ、俺たちが運んでいる本を見る。

やっぱり元の部屋がよかった、とは言わないでくれ。

今度こそ、ここで決まりにしてくれ。

しばらくして、部屋の時計が鳴った。

羊のメイドの一人が手を止める。

「お嬢様のお茶を用意してまいります」

クレールが頷いた。

「お願いします」

女の子は部屋を出ていった。

六人になった。

まあ、お茶なら仕方ない。

すぐ戻ってくるだろう。

俺はまた本を抱えた。

少しして、さっきの女の子が盆を持って戻ってくる。

湯気の立つ紅茶と、小さな焼き菓子が載っていた。

ニカンドラの机へ静かに置き、慣れた手つきで紅茶を注ぐ。

甘い匂いが部屋に広がった。

うまそう。

俺も朝からずっと働いているんだけど。

女の子はニカンドラのそばに立ち、飲み終わるのを待っている。

ニカンドラが紅茶を飲み終えると、盆を持って部屋を出ていった。

本を運ぶ方へは戻ってこなかった。

仕方なく、俺は次の本へ手を伸ばした。

また時計が鳴った。

今度は別の女の子が、クレールへ近づく。

「夕食の支度へ戻ります」

「お願いします」

そのまま一人いなくなった。

五人。

まだいる。

でも、その後も一人、また一人と部屋からいなくなった。

廊下から呼ばれた女の子。

寝室の支度があると言って出ていった女の子。

屋敷の灯りを確認すると言って、クレールへ頭を下げた女の子。

誰も本を運ぶ方へは戻ってこない。

窓から差し込む光が、だんだん赤くなっていく。

いつの間にか、部屋の灯りが点いていた。

「人、減ってない?」

俺は本を棚へ押し込みながら聞いた。

「皆、本来の業務がございますので」

クレールが答える。

「これも仕事じゃないの?」

「こちらは本日の特別業務です」

そういうものなのか。

貴族のメイドは、本を運ぶためだけにいるわけじゃない。

それは分かる。

でも、俺だって本を運ぶためだけに生きてるわけじゃない。

さっきまで七人いた美少女メイドは、もうクレールを含めて二人しかいなかった。

もう一人の女の子が、廊下から戻ってくる。

「外の作業が終了いたしました。すべての荷は運び込まれております」

「ご苦労さまでした。あなたたちもお戻りなさい」

「承知いたしました」

二人の女の子が揃って頭を下げ、部屋を出ていった。

とうとうクレールだけになった。

クレールも、本を運ばない。

棚の前に立ち、俺が持ってきた本の位置を確かめている。

「人間さん。そちらは一つ下です」

「分かってるよ」

一つ下へ置き直す。

俺が間違えたわけじゃない。

似たような本が多すぎるのが悪い。

外から聞こえていた声も、いつの間にか消えていた。

窓の向こうを見る。

荷物を下ろしていた作業員たちの姿はない。

空になった馬車が、遠くの門を出ていくところだった。

あれ、帰りの馬車じゃないのか?

俺の手が止まる。

「人間さん」

すぐ後ろから声がした。

振り返る。

ニカンドラが立っていた。

近い。

見上げるほどの大きな体が、俺の視界をほとんど塞いでいる。

銀灰色の太い尻尾が、機嫌よさそうにゆっくり揺れていた。

「人間さん、まだかかりそう?」

柔らかな声だった。

俺は隣の部屋を見る。

書棚には、まだ空いている場所がいくつもある。

床には運び終わっていない本が積まれ、その向こうには箱も残っていた。

「アッ……はい……まだ……かかります……」

ニカンドラは窓の外へ目を向けた。

「仕方ないわねぇ、ほかの方はもうお帰りになられてしまいましたし、泊まっていかれたら? 残業代は支払いますわ♡」

「泊まる?」

もう一度、窓を見る。

最後の馬車は門の向こうへ消えていた。

歩いて帰れない距離じゃない。

でも、今から歩くには遠すぎる。

帰りの馬車が出るなら、先に言ってくれよ。

いや、俺だけまだ終わってないから置いていかれたのか?

でも、残業代は出るらしい。

泊まる場所もある。

今から無理して歩いて帰るくらいなら、金をもらった方がいい。

「じゃあ……お願いします」

「あら、よかった♡」

ニカンドラが嬉しそうに笑う。

太い牙が見えた。

「では、もう少し頑張ってくださいね♡」

結局、まだやるのかよ。

ニカンドラは机へ戻っていった。

俺も本を拾う。

クレールが、置く場所を指した。

「そちらは奥の書棚です」

「はい……」

さっきまで七人でやっていた仕事を、一人で続ける。

クレールは、並びを確認する。

ニカンドラは、書類を読む。

俺は運ぶ。

腕はもう痛いのを通り越して、ほとんど感覚がない。

一冊なら軽い。

何冊かでも軽い。

それを何百回も運べば、普通に重い。

本を棚へ入れる。

戻る。

また運ぶ。

外は完全に暗くなっていた。

どこか遠くから、食器の触れ合う音が聞こえる。

腹が減った。

さっきの焼き菓子、一個くらい残ってないかな。

「人間さん」

クレールが俺を呼んだ。

「お嬢様はこれからお食事になさいますので、一度洗浄してください」

「洗浄?」

「はい」

「何を?」

「人間さんをです。書籍の埃がついております」

服の袖を見る。

確かに白っぽい埃がついていた。

髪にもついているらしい。

手で払うと、細かな埃が舞った。

「まだ終わってないけど」

「本日の作業は、ここまでで結構です」

やっと終わった。

俺はその場へ座り込みそうになるのをこらえた。

「浴室へご案内いたします」

クレールについて、執務室を出る。

長い廊下を歩き、別の部屋へ連れていかれた。

屋敷の浴室は、俺が使っている集合住宅の共同浴室より広かった。

白い石の壁。

大きな鏡。

シャワーまでついている。

金持ちの家、風呂まででかい。

「洗浄後、こちらへお着替えください」

棚の上に、畳まれた服が置かれていた。

白いシャツ。

濃い色の上着と長ズボン。

女の子たちが着ていた服とは違うが、どう見ても使用人の服だ。

「これ、俺が着るの?」

「男性使用人用の予備でございます。人間さんにも合うものをお持ちしました」

男の使用人もいるのか。

羊の男が着る服なら、俺にも着られそうだ。

「お食事の支度が整いましたら、お迎えにまいります」

クレールはそう言って、浴室を出ていった。

俺は服を脱ぎ、シャワーを浴びた。

温かい湯が肩に当たる。

気持ちいい。

腕を上げるだけで痛い。

指先も赤い。

ただ本を並べただけなのに、全身を使い切ったみたいだ。

髪と身体についた埃を流し、用意された服へ着替える。

シャツは少し首がきつい。

上着は肩が合っていて、ズボンも長すぎなかった。

鏡の前に立つ。

「おお……」

執事っぽい。

こういう服を着ると、俺もそれなりに見える。

貴族の屋敷で美少女メイドと働いて、夜は執事服。

仕事の中身さえ本の運び直しじゃなければ、かなり異世界っぽい。

扉が叩かれた。

「人間さん。お支度はお済みですか」

「終わった!」

扉を開ける。

クレールは俺の服を上から下まで確認した。

「問題ございません。こちらへ」

今度は食堂へ連れていかれた。

長い卓の向こうに、ニカンドラが座っている。

卓には湯気の立つ料理が並べられていた。

焼いた肉。

柔らかそうなパン。

温かいスープ。

匂いを嗅いだだけで、腹が鳴りそうになる。

やっと飯だ。

俺の席はどこだ?

椅子は並んでいる。

でも、料理が置かれているのはニカンドラの前だけだった。

俺の分はない。

「人間さん、こちらへいらっしゃい♡」

ニカンドラが手招きする。

黒い爪が、灯りを反して光った。

俺は卓の横を回り、ニカンドラの前まで歩く。

近づくほど、その身体の大きさが際立つ。

「たくさん頑張りましたわね♡ わたくしが給餌してあげますわ♡」

「給餌?」

それ、動物に餌をやる時の言葉じゃないのか?

ニカンドラの腕が伸びる。

長い指が俺の腰へ回った。

黒い爪が、使用人服の上を滑る。

「いや、俺、自分で食べられ――」

身体が浮いた。

そのまま、ニカンドラの膝の上へ座らされる。

「うわっ」

背中が、大きな身体へ触れる。

腹の上に、大きな手がそっと添えられた。

落ちないように支えられているだけなのに、身体が強張る。

心臓が跳ねた。

ニカンドラの身体から伝わる熱が、やけに熱い。

さっきまで腹が減っていたはずなのに、胃が急に縮んだみたいに固くなった。

「遠慮なさらなくていいのよ♡」

クレールが、小さな匙をニカンドラへ渡す。

最初から用意してあったのかよ。

ニカンドラは匙でスープをすくった。

ふっと息を吹きかけ、俺の口元へ運んでくる。

「さあ、お口を開けて♡」

状況だけなら、悪くない。

ものすごい美人の膝に乗せられて、飯まで食べさせてもらっている。

腹の上には、大きな手がそっと添えられている。

落ちないように支えているだけなのはわかる。

普通なら最高だ。

でも、その指先には長く鋭い真っ黒な爪がある。

少し力を入れられたら、俺の腹なんて簡単に裂けそうだった。

全然、最高じゃない。

俺は口を開けた。

匙が入る。

温かいスープだった。

味はうまい。

でも、口の中が妙に乾いている。

飲み込もうとしても、喉が動かない。

「んっ……」

無理やり飲み込む。

心臓が速い。

身体の中だけが熱く、指先は冷たい。

「お口に合いませんでした?」

ビクッと身体が強張った。

反射的に見上げる。

ニカンドラが、心配そうに俺を覗き込んでいた。

その唇の隙間から、太い牙が覗いている。

見なきゃよかった。

「アッ……お、おいしいです!」

「まあ、よかった♡」

次の一口がすぐに来た。

俺はまた口を開ける。

柔らかい肉。

焼いた野菜。

小さくちぎったパン。

どれもうまいはずなのに、ほとんど味が分からない。

一口ごとに、喉へ押し込むのに時間がかかる。

食べるたび、胃が重くなる。

腹が減っていたはずなのに。

全然、飲み込めない。

背中には、ニカンドラの大きな身体が触れている。

腹の上には、黒い爪のついた大きな手がある。

怖い。

逃げたい。

「人間さん、あまり召し上がりませんのね」

「いや、なんか……ちょっと緊張して……」

「まあまあ♡」

ニカンドラの声が、すぐ頭の上から降ってくる。

楽しそうだった。

「ゆっくりでいいのよ♡」

ゆっくりでも無理だ。

次の匙が来る。

俺はまた口を開けた。

どれくらい食べたのか分からない。

皿には、まだ料理がかなり残っている。

でも、もう一口も入る気がしなかった。

「ごちそうさまです……」

「もうよろしいの?」

「はい……お腹いっぱいです……」

本当は腹の奥が空いている。

それなのに、胃だけがもう何も受けつけない。

「あれだけ働いたのに、小食なのねぇ♡」

腹の上にあった手が、ようやく離れた。

俺は膝から下ろされる。

床へ足をついた瞬間、膝が少し震えた。

「お部屋へご案内いたします」

クレールが言った。

助かった。

俺はすぐにニカンドラから離れる。

「お、おやすみなさい」

「おやすみなさい、人間さん♡」

食堂を出る。

廊下を曲がり、屋敷の奥へ進む。

さっきまで速かった心臓が、少しずつ普通に戻っていく。

その代わり、急に身体が重くなった。

腕も脚も、もう動かしたくない。

クレールが、一つの扉を開ける。

中には簡素な寝台がいくつか並んでいた。

飾りのない棚。

小さな机。

使用人用の寝室らしい。

客間じゃないのか、と一瞬思った。

でも、俺の部屋の寝台より広い。

疲れた。

眠れれば何でもいい。

「こちらの寝台をお使いください」

「ありがとう」

「お休みなさいませ、人間さん」

「おやすみ」

扉が閉じる。

俺は上着を脱ぎ、近くの椅子へ掛けた。

靴を脱ぐ。

それだけで、もう限界だった。

寝台へ倒れ込む。

柔らかい。

腕も脚も、身体の全部が寝台へ沈んでいく。

今日は、ただ本を並べただけだったはずなのに。

そう思ったところで、俺は眠った。

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