俺は今並べたばかりの本を、書棚から抜き取った。
重い。
さっきまでなら何冊かまとめて持てたのに、もう腕に力が入らない。
それでも隣の部屋までは、ほんの少しだ。
本を抱えて扉を抜け、空の書棚まで運ぶ。
「そちらは上から二段目です」
クレールが言った。
「はいはい」
本を置き、元の部屋へ戻る。
七人の羊のメイドたちは、もう黙々と本を運び始めていた。
さっき綺麗に並べた順番を崩さないよう、棚の端から何冊かずつ抜き取っていく。
一度に持つ量は少ない。
でも、止まらない。
俺が一往復する間に、女の子たちは何度も隣の部屋を行き来している。
本物の美少女メイドに囲まれて働ける。
朝は、それだけで当たり仕事だと思っていた。
今は顔を見る余裕もない。
本を抜く。
運ぶ。
並べる。
また戻る。
さっきと同じ作業を、もう一度繰り返す。
違うのは、俺の腕が最初から痛いことだけだ。
「これ、今日中に終わる?」
「終わらせます」
クレールは、迷いなく答えた。
俺が終わるかどうかを聞いたんだけど。
大きな机の向こうでは、ニカンドラが何事もなかったように書類を読んでいる。
たまに顔を上げ、俺たちが運んでいる本を見る。
やっぱり元の部屋がよかった、とは言わないでくれ。
今度こそ、ここで決まりにしてくれ。
しばらくして、部屋の時計が鳴った。
羊のメイドの一人が手を止める。
「お嬢様のお茶を用意してまいります」
クレールが頷いた。
「お願いします」
女の子は部屋を出ていった。
六人になった。
まあ、お茶なら仕方ない。
すぐ戻ってくるだろう。
俺はまた本を抱えた。
少しして、さっきの女の子が盆を持って戻ってくる。
湯気の立つ紅茶と、小さな焼き菓子が載っていた。
ニカンドラの机へ静かに置き、慣れた手つきで紅茶を注ぐ。
甘い匂いが部屋に広がった。
うまそう。
俺も朝からずっと働いているんだけど。
女の子はニカンドラのそばに立ち、飲み終わるのを待っている。
ニカンドラが紅茶を飲み終えると、盆を持って部屋を出ていった。
本を運ぶ方へは戻ってこなかった。
仕方なく、俺は次の本へ手を伸ばした。
また時計が鳴った。
今度は別の女の子が、クレールへ近づく。
「夕食の支度へ戻ります」
「お願いします」
そのまま一人いなくなった。
五人。
まだいる。
でも、その後も一人、また一人と部屋からいなくなった。
廊下から呼ばれた女の子。
寝室の支度があると言って出ていった女の子。
屋敷の灯りを確認すると言って、クレールへ頭を下げた女の子。
誰も本を運ぶ方へは戻ってこない。
窓から差し込む光が、だんだん赤くなっていく。
いつの間にか、部屋の灯りが点いていた。
「人、減ってない?」
俺は本を棚へ押し込みながら聞いた。
「皆、本来の業務がございますので」
クレールが答える。
「これも仕事じゃないの?」
「こちらは本日の特別業務です」
そういうものなのか。
貴族のメイドは、本を運ぶためだけにいるわけじゃない。
それは分かる。
でも、俺だって本を運ぶためだけに生きてるわけじゃない。
さっきまで七人いた美少女メイドは、もうクレールを含めて二人しかいなかった。
もう一人の女の子が、廊下から戻ってくる。
「外の作業が終了いたしました。すべての荷は運び込まれております」
「ご苦労さまでした。あなたたちもお戻りなさい」
「承知いたしました」
二人の女の子が揃って頭を下げ、部屋を出ていった。
とうとうクレールだけになった。
クレールも、本を運ばない。
棚の前に立ち、俺が持ってきた本の位置を確かめている。
「人間さん。そちらは一つ下です」
「分かってるよ」
一つ下へ置き直す。
俺が間違えたわけじゃない。
似たような本が多すぎるのが悪い。
外から聞こえていた声も、いつの間にか消えていた。
窓の向こうを見る。
荷物を下ろしていた作業員たちの姿はない。
空になった馬車が、遠くの門を出ていくところだった。
あれ、帰りの馬車じゃないのか?
俺の手が止まる。
「人間さん」
すぐ後ろから声がした。
振り返る。
ニカンドラが立っていた。
近い。
見上げるほどの大きな体が、俺の視界をほとんど塞いでいる。
銀灰色の太い尻尾が、機嫌よさそうにゆっくり揺れていた。
「人間さん、まだかかりそう?」
柔らかな声だった。
俺は隣の部屋を見る。
書棚には、まだ空いている場所がいくつもある。
床には運び終わっていない本が積まれ、その向こうには箱も残っていた。
「アッ……はい……まだ……かかります……」
ニカンドラは窓の外へ目を向けた。
「仕方ないわねぇ、ほかの方はもうお帰りになられてしまいましたし、泊まっていかれたら? 残業代は支払いますわ♡」
「泊まる?」
もう一度、窓を見る。
最後の馬車は門の向こうへ消えていた。
歩いて帰れない距離じゃない。
でも、今から歩くには遠すぎる。
帰りの馬車が出るなら、先に言ってくれよ。
いや、俺だけまだ終わってないから置いていかれたのか?
でも、残業代は出るらしい。
泊まる場所もある。
今から無理して歩いて帰るくらいなら、金をもらった方がいい。
「じゃあ……お願いします」
「あら、よかった♡」
ニカンドラが嬉しそうに笑う。
太い牙が見えた。
「では、もう少し頑張ってくださいね♡」
結局、まだやるのかよ。
ニカンドラは机へ戻っていった。
俺も本を拾う。
クレールが、置く場所を指した。
「そちらは奥の書棚です」
「はい……」
さっきまで七人でやっていた仕事を、一人で続ける。
クレールは、並びを確認する。
ニカンドラは、書類を読む。
俺は運ぶ。
腕はもう痛いのを通り越して、ほとんど感覚がない。
一冊なら軽い。
何冊かでも軽い。
それを何百回も運べば、普通に重い。
本を棚へ入れる。
戻る。
また運ぶ。
外は完全に暗くなっていた。
どこか遠くから、食器の触れ合う音が聞こえる。
腹が減った。
さっきの焼き菓子、一個くらい残ってないかな。
「人間さん」
クレールが俺を呼んだ。
「お嬢様はこれからお食事になさいますので、一度洗浄してください」
「洗浄?」
「はい」
「何を?」
「人間さんをです。書籍の埃がついております」
服の袖を見る。
確かに白っぽい埃がついていた。
髪にもついているらしい。
手で払うと、細かな埃が舞った。
「まだ終わってないけど」
「本日の作業は、ここまでで結構です」
やっと終わった。
俺はその場へ座り込みそうになるのをこらえた。
「浴室へご案内いたします」
クレールについて、執務室を出る。
長い廊下を歩き、別の部屋へ連れていかれた。
屋敷の浴室は、俺が使っている集合住宅の共同浴室より広かった。
白い石の壁。
大きな鏡。
シャワーまでついている。
金持ちの家、風呂まででかい。
「洗浄後、こちらへお着替えください」
棚の上に、畳まれた服が置かれていた。
白いシャツ。
濃い色の上着と長ズボン。
女の子たちが着ていた服とは違うが、どう見ても使用人の服だ。
「これ、俺が着るの?」
「男性使用人用の予備でございます。人間さんにも合うものをお持ちしました」
男の使用人もいるのか。
羊の男が着る服なら、俺にも着られそうだ。
「お食事の支度が整いましたら、お迎えにまいります」
クレールはそう言って、浴室を出ていった。
俺は服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
温かい湯が肩に当たる。
気持ちいい。
腕を上げるだけで痛い。
指先も赤い。
ただ本を並べただけなのに、全身を使い切ったみたいだ。
髪と身体についた埃を流し、用意された服へ着替える。
シャツは少し首がきつい。
上着は肩が合っていて、ズボンも長すぎなかった。
鏡の前に立つ。
「おお……」
執事っぽい。
こういう服を着ると、俺もそれなりに見える。
貴族の屋敷で美少女メイドと働いて、夜は執事服。
仕事の中身さえ本の運び直しじゃなければ、かなり異世界っぽい。
扉が叩かれた。
「人間さん。お支度はお済みですか」
「終わった!」
扉を開ける。
クレールは俺の服を上から下まで確認した。
「問題ございません。こちらへ」
今度は食堂へ連れていかれた。
長い卓の向こうに、ニカンドラが座っている。
卓には湯気の立つ料理が並べられていた。
焼いた肉。
柔らかそうなパン。
温かいスープ。
匂いを嗅いだだけで、腹が鳴りそうになる。
やっと飯だ。
俺の席はどこだ?
椅子は並んでいる。
でも、料理が置かれているのはニカンドラの前だけだった。
俺の分はない。
「人間さん、こちらへいらっしゃい♡」
ニカンドラが手招きする。
黒い爪が、灯りを反して光った。
俺は卓の横を回り、ニカンドラの前まで歩く。
近づくほど、その身体の大きさが際立つ。
「たくさん頑張りましたわね♡ わたくしが給餌してあげますわ♡」
「給餌?」
それ、動物に餌をやる時の言葉じゃないのか?
ニカンドラの腕が伸びる。
長い指が俺の腰へ回った。
黒い爪が、使用人服の上を滑る。
「いや、俺、自分で食べられ――」
身体が浮いた。
そのまま、ニカンドラの膝の上へ座らされる。
「うわっ」
背中が、大きな身体へ触れる。
腹の上に、大きな手がそっと添えられた。
落ちないように支えられているだけなのに、身体が強張る。
心臓が跳ねた。
ニカンドラの身体から伝わる熱が、やけに熱い。
さっきまで腹が減っていたはずなのに、胃が急に縮んだみたいに固くなった。
「遠慮なさらなくていいのよ♡」
クレールが、小さな匙をニカンドラへ渡す。
最初から用意してあったのかよ。
ニカンドラは匙でスープをすくった。
ふっと息を吹きかけ、俺の口元へ運んでくる。
「さあ、お口を開けて♡」
状況だけなら、悪くない。
ものすごい美人の膝に乗せられて、飯まで食べさせてもらっている。
腹の上には、大きな手がそっと添えられている。
落ちないように支えているだけなのはわかる。
普通なら最高だ。
でも、その指先には長く鋭い真っ黒な爪がある。
少し力を入れられたら、俺の腹なんて簡単に裂けそうだった。
全然、最高じゃない。
俺は口を開けた。
匙が入る。
温かいスープだった。
味はうまい。
でも、口の中が妙に乾いている。
飲み込もうとしても、喉が動かない。
「んっ……」
無理やり飲み込む。
心臓が速い。
身体の中だけが熱く、指先は冷たい。
「お口に合いませんでした?」
ビクッと身体が強張った。
反射的に見上げる。
ニカンドラが、心配そうに俺を覗き込んでいた。
その唇の隙間から、太い牙が覗いている。
見なきゃよかった。
「アッ……お、おいしいです!」
「まあ、よかった♡」
次の一口がすぐに来た。
俺はまた口を開ける。
柔らかい肉。
焼いた野菜。
小さくちぎったパン。
どれもうまいはずなのに、ほとんど味が分からない。
一口ごとに、喉へ押し込むのに時間がかかる。
食べるたび、胃が重くなる。
腹が減っていたはずなのに。
全然、飲み込めない。
背中には、ニカンドラの大きな身体が触れている。
腹の上には、黒い爪のついた大きな手がある。
怖い。
逃げたい。
「人間さん、あまり召し上がりませんのね」
「いや、なんか……ちょっと緊張して……」
「まあまあ♡」
ニカンドラの声が、すぐ頭の上から降ってくる。
楽しそうだった。
「ゆっくりでいいのよ♡」
ゆっくりでも無理だ。
次の匙が来る。
俺はまた口を開けた。
どれくらい食べたのか分からない。
皿には、まだ料理がかなり残っている。
でも、もう一口も入る気がしなかった。
「ごちそうさまです……」
「もうよろしいの?」
「はい……お腹いっぱいです……」
本当は腹の奥が空いている。
それなのに、胃だけがもう何も受けつけない。
「あれだけ働いたのに、小食なのねぇ♡」
腹の上にあった手が、ようやく離れた。
俺は膝から下ろされる。
床へ足をついた瞬間、膝が少し震えた。
「お部屋へご案内いたします」
クレールが言った。
助かった。
俺はすぐにニカンドラから離れる。
「お、おやすみなさい」
「おやすみなさい、人間さん♡」
食堂を出る。
廊下を曲がり、屋敷の奥へ進む。
さっきまで速かった心臓が、少しずつ普通に戻っていく。
その代わり、急に身体が重くなった。
腕も脚も、もう動かしたくない。
クレールが、一つの扉を開ける。
中には簡素な寝台がいくつか並んでいた。
飾りのない棚。
小さな机。
使用人用の寝室らしい。
客間じゃないのか、と一瞬思った。
でも、俺の部屋の寝台より広い。
疲れた。
眠れれば何でもいい。
「こちらの寝台をお使いください」
「ありがとう」
「お休みなさいませ、人間さん」
「おやすみ」
扉が閉じる。
俺は上着を脱ぎ、近くの椅子へ掛けた。
靴を脱ぐ。
それだけで、もう限界だった。
寝台へ倒れ込む。
柔らかい。
腕も脚も、身体の全部が寝台へ沈んでいく。
今日は、ただ本を並べただけだったはずなのに。
そう思ったところで、俺は眠った。
